平蔵宣雄の後ろ楯(12)
寛延元年4月3日。
(じっさいには、延享5年4月3日であったろう。延享が寛延と改元されたのは、この年の7月12日であった)
長谷川平蔵宣雄(のぶお)の跡目相続の認承が、江戸城・菊の間で、老中・本多伯耆守正珍(まさよし 39歳 駿州・田中藩主 4万石)から申しわたされたことは、このシリーズ (11) に記した。
下がりぎわ、本多老中が宣雄に声をかけたことも、すでに2007年5月1日[宣雄、異例の出世]に書き留めている。
「長谷川平蔵宣雄どの。ご先祖の評判は、いまなお領内でもなかなかによろしゅう御座るぞ」
詳細は、上のオレンジ色の[宣雄、異例の出世]をクリックしてご覧いただきたい。
【参照】2007年6月1日~[田中城の攻防] (1) (2) (3)
この時、本多侯は、もう一つのことを宣雄に申しわたした。
すなわち、番入りするまで、小普請支配・柴田七左衛門康闊(やすひろ 49歳 2000石)の組に入っているようにと。
辰蔵(じっさいに呈上した寛政11年には、平蔵宣義 のぶのり 30歳 西丸・小納戸)が呈上した[先祖書]で、
四月三日 養父権十郎宣尹(のぶただ)の跡目を賜る旨、菊の間で本多伯耆守から伝えられ、小普請組は柴田七左衛門の支配。
と書き記しているのを読んだ時には、跡目相続の申し渡しにも、柴田七左衛門康闊が付き添ったのかと早合点してしまった。
よく考えてみると、格式の高い2000石の幕臣が、400石の組下の拝命に、いちいち、付き添うはずがない。
仮に付き添ったとしても、9組の各組に2人ずつ任命されている与頭(くみかしら 組頭とも表記 200俵高 役料300俵 20人扶持)であろう。
[先祖書]をよくよく読むと、跡目相続が許さていないのに小普請入りするはずはないから、柴田支配の下へ入ったのは、この日からとおもえる。
その柴田支配の組だが、『柳営補任』を吟味、たぶん、5番目の組だろうと推測。
そうだとすれば、与頭の朝比奈織部昌章(まさよし 30歳 500石)と戸田縫殿助忠褒(ただかつ 31歳 600石)のいずれかが---ともおもったが、支配下にはいる前の者の家督拝命なんかには、付き添ってもいなかったろう。
が、ま、柴田七左衛門康闊のほうはせっかく調べたのだし、柴田一門とは今後もかかわりがでるので、七左衛門康闊の個人譜と家譜をかかげておく。
(七左衛門康闊の個人譜)
(七左衛門康闊の養子先の柴田家家譜)
宣雄は、両番の格の家の跡目を相続したのち、半年で西丸・書院番の任に就いている。
幕臣の役にこうした欠員がでた場合、小普請の有資格者が優先されるらしいが、その推薦は、与頭・支配の胸先三寸というから、日ごろのあいさつが大切である。
宣雄の性格からいって、そのあたりはぬかりがなかったろう。
ついでに、宣雄がお礼をもってあいさつに出向いた柴田康闊の屋敷は、麹町元山王下三軒家。
その当時の長谷川家は、赤坂中之町築地にあったから、8丁(1km近く)と離れていなかった。
(日吉山王社 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
朝比奈織部昌章の屋敷は小日向服部坂上。これは急坂だから、あいさつとはいえ、登りがたいへんだったろう。
戸田縫殿助忠褒は、新道五番町。
それぞれの屋敷へは、前もって若侍か小者を使いに出し、先方に都合のいい訪問時刻を確かめておく。
いま、電話でアポイントをとるようにだ。
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