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2008.06.25

平蔵宣雄の後ろ楯(11)

大人の人間関係には、いろいろ、ある。勤め先の先輩・同僚・部下、取引き先の窓口や責任者とかこれからの人、クラス・メート、学校の先輩・後輩、部活の先輩・後輩、親戚、趣味を同じくする友人、年賀状のみの知己などなど。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)にも、いろんな人間関係があった。

その一つが、家督をいっしょに許された、いわば同期の仲というのもある。
武功の時代がすぎた徳川の幕臣にとって、将軍への初見(いわゆるお目見)と家相続の許認、出仕、役職拝命、叙勲は、なによりの公的履歴であり、けじめである。

宣雄の初見についての記録はない。
ないというのは、孫の辰蔵(公式には平蔵宣義のぶのり)が幕府へ差し出した[先祖書]にも、なぜか、記されていないし、そのため、『寛政重修諸家譜』にも『徳川実紀』にも記載がない。
([先祖書]は国立公文書館に残されている)。

360
(長谷川家から呈出された[ 先祖書]の宣雄の項)

実紀』は、初見を重要記録とみているらしく、ほとんどの場合、親の氏名ともども書きとめている。

六代目当主・権十郎宣尹(のぶただ)の病死と宣雄の跡目家督の経緯については、これまでに幾度も報告しいきている。

参照】2007年4月21日[寛政重修諸家譜] (17) (20)
2007年5月2日[ 『柳営補任』の誤植

宣雄の跡目相続が許されたのは、寛延元年(1744)年4月3日であったことも、幾度も書いてきた。

この寛延元年には、将軍・家重にとって、かなり重大な事件が一つ起きた。
2月26日に、世嗣・竹千代(のちの十代将軍・家治)の生母・お部屋の方と呼ばれていたお幸の局が逝去したのがそれである。
お幸の局は、家重の正室・伏見宮邦永親王の姫宮に付き添ってくだってきていた、梅渓中納言通條の息女であった。
その忌事のせいか、4月まで、家督のことは延期されていた。

喪があけた4月2日、まず、14人が父の家を継いだ。『実紀』には3人の名が記されているが、『寛政譜』から拾った9名を、年齢順にあげてみる。(頭に ・ がついているのは養子)

・小長谷(こながや)織部正武(まさたけ) 30歳 400石
 松平(能見)岩之助義問(よしとふ) 28歳 400石相当
 天野伝蔵久豊(ひさとよ) 27歳 810石
・榊原政之助政贇(まさよいし) 22歳 320俵
・小笠原数馬長儀(ながよし) 25歳 3000石
 多田主水正幸(jまさゆき) 25歳 200俵
 鈴木金五郎正栄(まさてる) 25歳 200俵
 加藤猪十郎正意(まさおき) 22歳 600石
 三宅大学康倶(やすとも) 20歳 1000石

家督の認可を言い渡された14人が、年長順にならんだのか、家禄順だったのかは知らない。
致仕した父親が付き添っていたとしたら、家禄順かもしれない。
ただ、儒教のしきたりで、年齢順に書いた。

翌4月3日、当主の死によって遺跡を継ぐことが許された16人が江戸城の菊の間に呼ばれて、月番老中・本多伯耆守正珍(まさよし 39歳 駿州・田中藩主 4万石)から、申しわたされた。
寛政譜』から拾えたのは13人。

・長谷川平蔵宣雄(のぶお) 30歳 400石
 倉林五郎助房利(ふさとし) 28歳 160石
 伊藤文右衛門祐直(すけなお) 28歳 ?
 波多野伊織義方(よしかた) 27歳 200石
 米津昌九郎永胤(ながたね) 17歳 100俵
・石河(いしこ)勘之丞勝昌(かつまさ) 24歳 200石
・名取半右衛門信富(のぶとみ) 23歳 800石相当
 本多作四郎玄刻(はるとき) 17歳 200石
 田村長九郎長賢(ながかた) 20歳 330俵
・板花安次郎昌親(まさちか) 20歳 100俵
 榊原権七郎政孚(まささね) 19歳 400俵
・松平(松井)舎人康兼(やすかね) 18歳 2000石
 津田富三郎信尹(のぶまさ) 17歳 150俵

見おとしもあるかも知れないが、『寛政譜』22冊全8,800ページを、1週間費やして、じっくりあたった成果が、16人中の13名である(もう一度やれといわれても、逃げ回るであろう。それほど体力的にも精神的にもきつい作業であった)。
それで気づいたことの一つが、『寛政譜』編纂のために、各大名家とお目見以上の幕臣へ[先祖書]の呈出を命じたのはいいが、雛形を示したのか、必記事項の指示はあったのか---といった疑問と、整理・採否の基準はどうだったのか---の疑問が生じた。

これらのことは、具体的に、13名の中から事例をしめしながら、しばらく考えてみたい。

それはそれとして、16名の中のだれかが、
「ごいっしょに家督を許されたのもなにかのご縁です。これを契機として、年に1回ずつ集まって、なにやかや、話しあうというのは、いかがでございましょう」
「名案ですな。2月22日に寛延と改元されて初めての卯月の遺跡を継ぐお許しだから、〔初卯(はつう)の集い〕などとでも名づけまして---」
こいういう提案は、たいてい、なにやら、下ごころのある者からなされる。

ちゅうすけのつぶやき】『寛政譜』も『実記』も、父が致仕しての後継は「家を継ぐ」とし、当主の歿後の家督は「遺跡を継ぐ」と、分けるようにしている。
後者は、審理を要するようである。

また、寛延元年には、9月に朝鮮からの使節がきたので、その応接もあり、家督の件数は少なかったのかもしれない。
「家を継ぐ」相続は、4月2日につづいては、
8月14日 14人
12月3日 10人

「遺跡を継ぐ」は、4月3日の次は、
6月8日 8人
7月5日 10人
閏10月3日 12人
12月3日 6人
同月23日 11人

総計 76人



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