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2008.06.24

平蔵宣雄の後ろ楯(10)

奥右筆の五番格、上村政次郎利安(としやす 150俵)を検討してみる。

利安は三代目で、将軍・綱吉の時に召抱えられた初代・甚右衛門高道(たかみち)は、廊下番から土圭間(とけいのま 時計係り)へ転じたが、正徳3年の定員縮少にひっかかって、小普請入り。
6年間、小普請のまま過ごして、60歳で他界し、谷中の大円寺に葬られた。

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(上村家 『寛政譜』)

大円寺は、台東区谷中3丁目に現存しており、春信による笠森おせんの碑で知られている。

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(春信 笠森おせん)

もっとも、おせんがいた茶店〔かぎ屋〕があったのはここではない。
三崎坂上の功徳林寺のほうである。三崎坂は別名が、池波さんの短編の題名にもなっている、〔首ふり坂〕である。
14歳のおせんの美貌をたしかめに行ったのも、20歳の銕三郎(てつさぶろう)と岸井左馬之助(さまのすけ)たちであって、父・宣雄(のぶお)ではない。
おせんはお庭番のむすめで、同じお庭番の倉地家へ嫁(とつ)いだ。

大円寺は、日蓮宗である。
長谷川家の菩提寺・戒行寺(新宿区須賀町)も法華宗だから、伝手(つで)を求めていた平蔵宣雄を、大円寺の住職に引きあわせたのが、戒行寺ということも考えられないことではない。

とすると、宣雄が紹介された政次郎利安は奥右筆になって4年目、28歳。

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(上村政次郎の個人譜)

宣雄も30歳になったばかり。腰が低く、なにごとにも慎重な宣雄を、利安は好もしくおもったろう。
「諸届けを、与頭(くみがしら 組頭とも表記)どのをとおして呈上なされているのであれば、なんのご心配もないと存じます」
利安は、宣雄に安心して待つように言ったとおもう。

利安が奥右筆の組頭になったのは、それから25年後の、安永2年(1773)7月1日。53歳。
奇しくも、この年の6月に、宣雄は京都で逝っている。55歳であった。

この安永2年という年は、上村家にはもう一つの慶事があった。息・求馬利言(としのり 28歳)が小姓組番士に登用されたのである。
父・利安が組頭に昇格した5日後であった。
利安の手くばりの巧みさがうかがえる。

28歳は、銕三郎と同年ということだ。
ここにも、運命の糸を感じるのは、いささか、読みがすぎるというものであろうか。

ちゅうすけの妄想は、さらにひろがっている。
上林家の屋敷は、本所南割下水、二ッ目と三ッ目のあいだである。
南本所三ッ目の長谷川家から、5丁(500m)ほど。
小説の入江町の長谷川邸からだと1丁。

ちゅうすけのつぶやき】 上村家は、天保期に、本所から神田柄木町へ屋敷替えになっているから、市販の幕末期の切絵図で南割下水あたりをさがしても見つからない。入江町の「長谷川」はそのままある。


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