平蔵宣雄の後ろ楯(9)
鬼平---長谷川平蔵宣以(のぶため 家督前は銕三郎 てつさぶろう)の父・平蔵宣雄が、30歳の時に跡目相続を許された寛延元年(1744)に、陰ながら口を添えたかもしれない奥祐筆をあらいだしながら、江戸城内のあれこれを推察している。
前々回では、奥祐筆の筆頭・柴田藤三郎忠豊(ただとよ 廩米200俵)、二番格・臼井藤右衛門房臧(ふさよし 150俵)を、前回は三番格・清須孫之丞幸登(ゆきのり 廩米150俵)を紹介した。
この回は、四番格の橋本喜八郎敬惟(のりのぶ 150俵)を検討するわけだが、視角をすこし広くとってみたい。
(橋本家家譜 『寛政譜』より)
『寛政譜』を読むかぎり、この家系は、1軒のみである。
喜八郎敬惟は三代目で、初代・喜平次敬近(ねりちか)の記述の前に、
敬近はじめ猿楽の技をもって松平伊予守より扶助をうけ、召しだされ家を興す。家伝に、橋本は山城国都筑郡(つづきこおり)のうちにあり。その先住せしところなりといふ。
岩清水八幡宮が鎮座している土地で、『鬼平犯科帳』文庫巻3[兇剣]で、鬼平が歌姫街道を経由して奈良見物に出かけるはな、参詣した神社である。p152 新装版p159
境内に、橋本口という道があることは、『都名所図会』に記されている。
岩清水八幡宮と橋本家の初代・喜三郎敬近の猿楽とは、何か関連があるのであろうか。
この神社は、菜種油の監察を独占発行していたことは、司馬遼太郎さん『国盗り物語』で教わった。
能楽師の子で幕府の重職となったのは、新井白石(はくせき)とともに六代将軍・家宣(いえのぶ)を支えた用人・間部(まなべ)詮房(あきふさ)の例がある。
徳川将軍や武家の能楽好きは、『徳川実紀』の新年の、町人にも解放される恒例の公演の記述によっても推察がつく。
喜三郎敬近の場合は、御側用人・間部ほどの出世ではなく、土圭間(とけいのま)詰であった。
土圭---すなわち、時計---殿中の時刻を正確にする係りである。
二代目・敬問(ゆきとう)は養子だが、表祐筆から奥祐筆へ転じ、表祐筆の組頭で終えている。
その間、下馬札の筆法を蜷川八右衛門親雄(ちかお)からうけて、息・喜八郎敬惟へ伝授したとあるが、「下馬札」なるものは未調査。わざわざ、『寛政譜』に記載するほど貴重なものなのであろう。
【参照】蜷川八右衛門親雄 2008年6月11日[平蔵宣雄の後ろ楯] (3)
当の三代目・喜八郎敬惟は、19歳の寛保2年(1741)に表祐筆、翌年には奥祐筆に昇格。
明和3年(1766)、44歳で組頭。21年間在職し、天明3年(1783)に留守居番という名誉職に。
現職のまま、67歳で歿。
(橋本喜八郎敬惟・個人譜)
その死によつて跡目相続ができた四代目・喜平太敬問(ゆきまさ)は、この時。44歳。
もっとも、21歳から小姓組番士として出任、船手、御膳奉行を歴任しているから、廩米200俵前後は加俸されていたとおもうが。
言いたかったのは、祐筆の家職を継がなかったこと。
拝領屋敷は、神田明神下だから、銭形平次とは隣組でも、長谷川家との地縁はなかったようだ。
【ちゅうすけのつぶやき】 調べごとがあって、『寛政譜』の全22冊8,800ページを7日がかりで繰っていたら、七代将軍・家継の2年目---正徳3年(1713)5月に、土圭間(時計の間)の縮小で、何人かの詰人が任を解かれて小普請入り。理由は書かれていない。
推察するに、寛永3年(1626)に本石町3丁目に時の鐘を設立して刻時を民営化し、これにならって江戸の諸所に時の鐘ができてすで100余年を経過したからと、役人べらしの一つだったのかもしれない。
その証拠に、吉宗が八代将軍となってすぐの享保元年(1716)年5月には、土圭間そのものが廃止され、150俵級の数人が任を解かれたことも記録されている。
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