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2008.06.22

平蔵宣雄の後ろ楯(8)

鬼平の父・宣雄(のぶお 34歳の時)の、寛延元年(1748)年早春の遺跡の相続申請と、小十人頭への抜擢の後ろ楯探しをつづけている。

この回は、候補者と目している奥祐筆の一人、清須孫之丞幸登(ゆきのり 廩米150俵)の登場だが、じつは、これまでとは観点を変えて、下級幕臣にひろがっていた、ある習慣について考察したい。

その前に、例によって、個人の項を抽出した、孫之丞幸登の[寛政譜]を見ていただきたい。_360
(清須幸登の[寛政譜])

冒頭に、享保19年(1734)12月22日、祖父が家を継ぐ。

とある。17歳の年だが、そう、父でなく、祖父の遺跡(いせき)---これが、この回の主題なのだが、細見はのちほど。

まず、経歴をざっとさらっておく。

相続から6年後の元文5年(1740)11月19日、23歳で表右筆入り。
2年後の寛保2年(1742)7月18日に、能筆を認められて奥右筆に。

平蔵宣雄の家督申請はこの7年後の寛延元年だが、この時期には幸い、孫之丞幸登は西丸の右筆への出向から、本城へ復帰している。

10数年を経た宝暦13年(1763)7月9日に組頭(46歳)へ上りつめ、2年後の明和2年(1765)には、将軍・家治の世嗣・家基(4歳)の御名折り紙を書いて時服二領を賜っている。
21歳になっていた銕三郎(てつさぶろう)が、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎の若い妾・おとできたのは、この翌年の初夏であったことは、ご記憶のはず。

参照】『鬼平犯科帳』文庫巻6[鬼火]p157 新装版p165

明和3年は、孫之丞幸登(49歳)にもいい年で、西丸の納戸頭へ栄進。
しかし、2年後に現職のまま歿。享年51歳。

さて。年代を遡る。
孫之丞幸登が祖父の遺跡を継いだのは、享保19年12月22日であった。

_360_2
(孫之丞幸登の父・幸哉と祖父・幸信の部分抽出の家譜)

_360_3
(清須家の[寛政譜])

養子だった父・助之進幸哉(ゆきなり)は、その年の4月2日に、家督しないまま、病死してしまっていたからであるが、23歳の時の子が幸登と仮定すると、40歳の死である。
お目見(めみえ)をすませてから40歳まで20数年間、無役のままでおかれた。

養子の死におどろいた祖父・三之丞幸信(ゆきのぶ)は、あわてて孫・幸登への家督相続を急いだが、推定するに、男子の実子にめぐまれないとわかって養子をとったのであれば、30歳をこえてからであろうから、この時は60歳を越して70歳に近かったのではなかろうか。
その齢で、役をはずされても家督をゆずらなかったのは、どういう理由であったのか。現役に執着していたと見られても仕方がない。

じつをいうと、このところ、『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』22冊の全巻を詳細に眺め直しているが、清須家のような、祖父から孫への、手遅れともいえる相続が、徳川中期から50家に1家の割りのように増えている。
長生きが常態化して、現世への執着が流行しているようにおもえるのだが。

その点、55歳で京都町奉行の現職で歿した宣雄、やはり火盗改メの現職のまま50歳で逝ってしまった平蔵宣以---鬼平は、いさぎよかった(?)。

いや、ちゅうすけ自身もすでに喜寿をこえている。長寿をいましめているのではない。次世代へのバトン・タッチの円滑を言っているだけである。
「後期医療制度」反対ではあるが、これは、それとは無関係の意見である---念のため。

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