カテゴリー「216平賀源内」の記事

2010.03.03

竹節(ちくせつ)人参(6)

「よろしいか、人参の天敵は、もぐらじゃ。これをふせぐには、植え場のぐるりに、芦を編んだ簀(す)を深さ3尺(90cm)ほども埋めこむ。もちろん、土の上にも1尺5寸(45cm)ほどでるようにする。夏の日差しがきびしいときにも覆いをかける支えにもなるし、猫やきつねふせぎにもなる」
平賀源内(げんない 45歳)は、太作(たさく 62歳)に丁寧に教えた。

太作は、日光今市の大出家の植え場でしっかりと見てきていたが、初めて聞いたことのように、なんども合点するから、源内も講じる気をそそられている。

「日陰までつくってやる---つまり、乳母(おんぼ)日傘(ひがさ)で育ててやれ、ということですな」
平蔵がちゃちゃをいれた。
「竹節(ちくせつ)人参は、そころへんの商家のむすこたちとは、くらべられないほどに、値打ちがあるのでな。はっ、ははは」

それから、ちょっとのあいだなにかかんがえていた源内が問う
太作どのの植え場は、上総(かずさ)国の武射郡(むしゃこおり)でしたな」
「寺崎村でございます、若---いえ、お殿さまが、村長(むらおさ)の五左衛門さまにかけあってくださり、山のふもと---妙見さんの裏手の山裾を20坪ばかり、植え場にお借りすることができました」

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(赤○=上総国武射郡寺崎  右端=九十九里浜
その左に蓮沼村 明治20年 参謀本部製)

「それは重畳。ただ、上総は、日光や会津、松江など、すでに朝鮮人参栽(う)えをなしている土地よりも暖かそうだ。その寺崎という村の土の色は?」

太作は、若いころに村をでて長谷川家に仕えたので、はっきりとは記憶にないが、山の土は赤っぽく、畑の土は黒っぽかったようであったと応えた。
源内先生。亡父が若かったころ、開拓と地味の改良を指導しております」
「そのことは、備中)どのからつぶさにうけたまわったております」
源内は、植え場は、山の土4、畑の黒土4、川砂を2の割合で混ぜるように、といった。

「くれぐれもいっておくが、砂は川砂で、海砂は厳禁。海砂を雨水で何年さらしても塩気が抜けないのでな。塩気は、人参には毒と覚悟されよ」

そのほか、堆肥にかぎること、夏が終わる時分に種が赤くなるが、収穫した種に土を抱かせて湿気を絶やさないこと、いちど根を獲った植え場は、土を変えても10年間はつかわないこと---をいいきかせた。
太作は、おぼつかない手つきで、それらを克明に書きとめた。

「そうだ。いま書き留めているように、人参の毎日の育ちぶり、手入れのあれこれ、天候も日録しておく」
「かならず、仰せのとおりにいたしますです」

油紙包み10ヶを大事に抱き、くりかえし礼を述べ、仙台藩の蔵屋敷をでようとする太作を呼び止めた源内は、
「太作どのはも左ひざに痛みをおぼえているようだな」
「はい。2年ほど前から、齢のせいか---」
「治療して進ぜよう。エレキテルでエレキを通じると、なおることがある」

左足の股引をひきあげさせ、なにやらおかしげな機械から銅線をひいてひざにあて、把手を風車のようにまわし、刺激を送りこんだ。
「どうかな? ひりりぴりりとくるであろう。これで血のめぐりがよくなり、痛みもとれたはず」
「ほんに、軽くなりました。ありがとうございました」

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2010.03.02

竹節(ちくせつ)人参(5)

「若---いえ、お殿さま。今市の植え場の主・大出さまは、来春に種を播くのではおくれすぎではなかろうかとおっしゃいました」
日光から帰ってきた太作(たさく 62歳)が報じた。
人参は、秋口に赤くなった種を、湿りけをたやさない土になじませ、11月の中ごろに種がわれて糸のような根がでたら、苗床へ植えるのが上策だと。

つまり、いまから種を播いても、発芽はほとんどしないのが、朝鮮人参も、それによく似た性質の竹節(ちくせつ)人参もだということが、いくたの失敗を重ねたすえにわかってきていたのであった。

「爺(じい)よ。そのことは、平賀源内(げんない 45歳)先生からも注意をうけた。爺が寺崎に旅たつ前日に、種播きしてある土を、油紙につつんで届けてくださることになっている」
「それでは若、あさってにも、寺崎へ参り、苗床をつくります」
あわてた太作は、
「お殿さま」
といいなおすこともしないで、旅立ちを宣言した。

平蔵(へいぞう 28歳)もいささかあわて、松造(まつぞう 22歳)の名を口にのせかけ、旅づかれしていると気がついたので、若党・梅次(うめじ 24歳)を呼んだ。

参照】2009年6月19日[宣雄、火盗改メ拝命] (

「仙台堀の上(かみ)ノ橋北詰、仙台藩の蔵屋敷は存じておろう、あそこで寄宿してエレキテルを直しておられる平賀源内先生に、太作が明後日に上総(かずさ)の寺崎へ旅立つゆえ、人参の種を明日までにご用意願いたいとお願いしてきてくれ」

半刻(とき 1時間)もしないで戻ってきた梅次は、明日の四ッ(午前10時)には用意しておくが、教えなければならないこともあるゆえ、かならず本人が参るようにいわれたと、源内の言葉を伝えた。

「爺。拙も参るからなにも案じるでないぞ」
太作が荷づくりのために去ると、入れ替わりに松造が入ってきた。

旅でのこころづかいをいたわってやると、
「殿。太作さんは、〔荒神(こうじん)〕の助太郎のことをお耳にいれなかったようでございますな」
「あわてていたのであろうよ。齢をとると、つい、いままで気にかけたいたことも忘れがちになるものだと、高杉銀平(享年67歳)先生も、晩年にはよくなげいておられた」
平蔵は、太作が速飛脚でよこした報告のことは、松造にはいわなかった。
松造が、どのような見方をしているかに興味があったからである。

松造によると、宇都宮城下で太作が探索費をわたしたて依頼したのは、旅籠〔羽黒屋〕があった戸祭町iに近い材木町の観専寺裏に住んでいる十手持ちの瀬兵衛(せべえ 30がらみ)のことを、
「あれは、郷方(さとかた)によくいる、悪のほうの十手持ちでございますよ」
そう前置きして、太作の横で聞いていたことを話した。

それというのも、京都で、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 55がらみ)一味の捕り方に加わったことがあったので、自分にもかかわりがあるとおもいこんでいるのである。

参照】2009年9月13日~[同心・加賀美千蔵] () () () () () (

「せっかく、手前がつきとめた盗人宿を、見張っているだけでいいのに、手柄を独り占めにするつもりだったのでしょう、隣近所を聞きこみまわり、気づいた助太郎は、一味の煙草屋とともに消えちまったのです」

このことは、太作の書状に書かれていた。
「それで、手前は、盗人宿にややもいたかどうかを、たしかめました」
「ほう。松造も、なかなか勘どころをおぼえてきたな」

ほめられた松造は、
「しかし、ややの声も、おんなの姿も見られてはおりませなんだ」
「それは残念。しかしな、も、そのことで、聞きこみのむずかしさをこころ覚えたであろう」

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2010.02.21

竹節(ちくせつ)人参(4)

っあん。ちょっとはやいが、ここらで昼にするかね」
日光街道の草加宿の手前、八幡社への参道の入り口をすぎたところで、太作(たさく 62歳)が松造(まつぞう 22歳)に声をかけた。

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(草加宿・部分 道中奉行製作『日光道中分間延絵図』)

2人は、南本所三ッ目通りの長谷川屋敷をでてから、4里(16km)ほどのあいだ、ほとんど口をきいていない。
旅は、しゃべると疲れが速い、というのが、太作のいい分で、松造は仕方なくしたがってきた。

ころあいの茶店に入り、太作が荷を預けて厠へ入ったとき、中年の男が寄ってき、
(とら)どんではねえか?」

目をあわせれると、
「やっぱり、寅松どんだったか」
松造が〔からす山〕の寅松として掏摸(すり)をはたらいていたときの名で呼んだ。

参照】2008年9月9日[中畑(なかばたけ)のお竜] (

「若党づくりとは考えたもんだ。それにしても、カモの爺ぃのふところにゃあ、5両(80万円)はまちげえなくへえってる---」
「〔左利(ひだりき)〕の佐平(さへえ 30歳)どんよ。間違えないでもらいたい。おれはいまは、このあいだまで火盗改メをなさっていた長谷川さまの若党なんだよ」
「ぷッ。火盗改メとは、聞いてあきれるぜ。冗談も休みやすみにしておくれ」
「信じないなら、この場はみのがしておくが、これから先、つきまとったら、村役人か、陣屋の者に突き出すぜ」
「大きくでたな」

そのとき、太作がもどってき、
「齢(とし)をとると、厠(かわや)が近くなっていけない。おや、っあん、お知り合いかね?」
「こちらは、掏摸の〔左利き〕の佐平兄ィというんだけど、おれが長谷川さまに仕えているといっても信じないから、村役人にとっ捕まえてもらって、佐渡の金山の水汲み人夫へ送ってもらおうかとおもっているところ---」

はやくも事情を察して、
佐平さんとやら。っあんは、まこと、長谷川さまの配下ですよ。目黒・行人坂の火付け犯をお召しとりになった長谷川さまのお名前は、ご存じだろう?」
「へえ---」
「わしらは、これから、日光ご奉行の菅沼攝津守さまのところへ用足しにゆくところでな。うそだとおおもいなら、いっしょについておいで。そこで捕まるのも、名誉かもしれない」

「とんでもねえ。では、寅松どん。せいぜい、気をつけてゆきねえ。この街道すじには、同職の者が多いからな」
佐平は、粕壁(かすかべ)のほうへ足早にくだっていった。

軽い昼食をとりながら、太作が、
っあん。いまの男は油断がならない。っあんは、ここの宿の〔岩木屋〕へわけを話して2,3日泊まって、江戸へ引き返しな」
太作さんは、ひとりで、どうなさる?」
「ここから鳩ヶ谷へぬけて、べつの道を行けば、待ち伏せにあわなくてすむ」

「わかった。泊まることはない。すぐに江戸ヘ戻って、殿さまのご指示をいただく。太作さんこそ、〔岩木屋〕で待っていなさるといい」
「そうするか」

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2010.02.20

竹節(ちくせつ)人参(3)

太作(たさく)。上総(かずさ)へ帰るまえに、日光に詣でてみないか?」
長谷川平蔵(へいぞう 28歳)が、暇をとる下僕の太作(62歳)へ問うた。

「あの、大権現さまの---」
「そうだ。日光といったら、下野(しもつけ)国のあそこしかないわ」
「日光を見ずして、結構というな、といわれております。願ってもないお話でございますが、そのような結構なところへ、なにゆえにわたくしめが?」
「竹節(ちくせつ)人参は、日光の山中で採れる、と申したであろうが」

太作が故郷の上総国武射郡(むしゃこおり)寺崎村へ帰って植え場をつくるのは、朝鮮人参に代わる竹節人参である。

「日光ご奉行の菅沼攝津守虎常 とらつね)さまには、太作も面識があろう」
「はて---?」
「4年前に、信濃町の戒行寺の境内で会ったではないか」
「おもいだしましてございます。ご内室、ご令息ご夫妻とごいっしょでございました」
「お屋敷は、久栄(ひさえ 21歳)の実家(さと)の近くだ」

参照】2009年3月15日~[菅沼攝津守虎常] () () () (

その菅沼(59歳 700石)が秋から春先にかけて赴任している日光奉行所へ、太作の植え場づくりの資になるようなあれこれを調べる裁許をねがっておくから、東照宮に詣でたあと、あちこち、教えを乞うてみよ、と伝えた。

もちろん、日光側で植え場をやっている今市の大出家への引きあわせ状は、平賀源内(げんない 45歳)と田沼意次(おきつぐ 55歳)の用人・三浦庄ニ(しょうじ)からもらっておくつもりである。

「日光は、雪がつもっていよう。寒さじたくは充分にしておくように」
平蔵は、江戸から宇都宮を経由して日光まで30余里、往復10泊の旅費、今市での滞在費と手土産代として10両(160万円)をわたした。

「若---お殿さま。これは多すぎますです」
おしかえす太作に、
「じつは、太作一人分ではないのだ。松造(まつぞう 22歳)をつける。つまりは2人分ゆえ、決して多くはない」

老齢に近くなっている太作の体力を憂慮しての介添えに、太作は反対を言いたてなかった。

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2010.02.19

竹節(ちくせつ)人参(2)

太作が、お願いごとがあると、申してお待ちしておりました」
久栄(ひさえ 21歳)の機嫌は、いたってよくない。
里貴(りき 29歳)と知りてあってから、密会だけでなく、五ッ半(午後9時)すぎの帰館が多いからであった。
もっとも、今夜は、田沼邸からだから、平蔵(へいぞう 28歳)は声も荒立てないですんだ。

太作(たさく 62歳)は、平蔵が生まれる前、すなわち、長谷川家の屋敷が赤坂築地(現・港区赤坂6-11)にあった時代からの奉公であった。

「用件を聞いたかな?」
「なんでも、お暇をお願いしたいと---」
「17歳のときからだから、45年も勤めてくれた」
(てつ)---いえ、お殿さまのすべてを見ているわけでございますね」
「なにを言いだすやら。そちとの寝屋の睦言までは見てはいない」

「それでは、ほかのどなたかとの睦言は知っているのでございますか?」
「妙にからむではないか。なにか、言いたいことでもあるのか」
「いいえ、ございませぬ。お殿さまは、長谷川家の大事なお方でございますゆえ、いささかのことには目をつむるように、お舅(しゅうと)どのから、きつく申しわたされました」
「亡き父上に、感謝」
「ばかみたい」

太作は、平蔵がまだ14歳のとき、三島で男になる手はずをつけてくれた。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]

そのことを、父・宣雄(のぶお 享年55歳)にも母・(たえ 48歳)にも告げることはしなかった。
いってみれば、一人っ子であった銕三郎(てつさぶろう)にとって、年齢が大きく離れた、なんでも話せる兄のような存在であった。

あくる朝はやく、裏庭にしつらえた15階段を、鉄条入りの木刀を振りながら昇降をくりかえしていると、湯桶に汗拭きの手拭を入れた太作がやってきた。

「奥から聞いた。暇をとってどうする?」
手拭をしぼってわたし、この朝寒のなか、平蔵が片肌を脱いで汗を拭くのを、すがすがしい目で追いながら、
「生まれた、寺崎へ帰って、お迎えをまちます」

寺崎は上総(かずさ)の、長谷川家の知行地(220石)の一つである。
いまは、千葉県山武市寺崎
五左衛門の後裔は、戸村を称しておられる。

「昨夕、ご老中の田沼主殿頭意次 おきつぐ 55歳)侯から、太作の仕事を申しつけられた」
不審顔に変わった太作に、竹節(ちくせつ)人参の植え場のことを説明し、
「10年か15年がかりの仕事らしいから、太作には80歳まで達者でいてもらわねば、拙が腹を切ってお詫びをしなければならなくなる」
「若---いえ、殿さま。もったいないことを---かたじけのうございます」
涙声になっていた。

太作の肩に止まった枯葉をはらってやりながら、
「やってくれるか?」
「はい。石にかじりついてでも、やりとげますです」
「拙も、ときどき、様子を見に訪れるつもりである。それから、村長(おとな)の五左衛門どのには、相応の土地を手あてするよう、今日にでも書き、飛脚便を出しておこう」

いまの村長の五左衛門は、母・の兄にあたる。

平蔵は、書状に太作の住まう家を建てておくことも書き加え、その費用として50両(800万円)を包んだ。


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2010.02.18

竹節(ちくせつ)人参

「この席に、備中守 宣雄(のぶお) 享年55歳)どののお顔が欠けているのが、いかにも残念」
この家の主の老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 55歳 相良藩主)のこころのこもったの言葉に、長谷川平蔵(へいぞう 28歳)は、あやうく、涙をおとしそうになった。

席にいた、
本多采女紀品(のりただ 60歳 無役 2000石)、
佐野与八郎政親(まさちか 42歳 西丸目付: 1100石)、
石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 59歳 勘定奉行 800石)、
赤井安芸守忠晶(ただあきら 47歳 先手・弓の2番手組頭 1400石)
一様にあいづちをうった。

ひとり、平賀源内(げんない 45歳)だけが浮かない顔をつづけていた。

参照】2007年7月25日~[田沼邸] () () () (
2007年7月29日~[石谷備後守清昌] () () (

みとがめた意次が、
源内どの。どうかしたかな?」
「いや。長谷川備中どのがおられぬと、せっかく持参した竹節(ちくせつ)人参の種の始末に困るのでな」

竹節人参は日光の山中で見つかった、朝鮮人参に似た薬用植物として、注目されはじめていた。
といっても、本多紀品や佐野政親には無縁のものであった。
日本から銀を流出させている長崎貿易の輸入品目の一つが朝鮮人参で、もう一つが生糸であったことは、たいていの徳川時代の経済史に記されている。

「なぜ、長谷川備中どのでなければならぬのかな?」
意次の問いに、
「かの仁は、知行地の開拓により、百石をうわまわる新田を開かれた。ご内室も、知行地の長(おさ)のおなごと聞きました。それで、もしやして、竹節人参の植え場を、知行地で試みてくだされるかもしれないと期待しておりましてな」
「それなら、嫡子の銕三郎---いや、平蔵どのがおるではないか」

平蔵
に顔をむけた源内が、
平蔵どのは、いつであったか、新案の立て方をお訊きなったことがござったな?」
「はい。うかがいました」
「竹節人参の栽培をやってみるか?」
「せひにも---」
「10年がかりで、とりかかってみられい」
「10年がかりですか?」
「さよう。植え場の秘伝は、ここに記しておいた」

勘定奉行で、長崎奉行を兼任し、銀の流出をもっとも憂慮していたことのある石谷備後守が、
「京では、いろいろとご苦心であったが、こんども、ご公儀のためにもなります」
励ましてくれた、

「京では---」の石谷の言葉の意味を知っているのは、田沼主殿頭だけであった。

参照】2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] () (

       ☆      ☆      ☆   

週刊『池波正太郎の世界 10』は、早くも10冊目。今週号は[人斬り半次郎]ほか数篇。
幕末ものが好きな人にはたまない。


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2007.11.20

相良の浄心寺

2007年3月12日に、[相良の平賀源内墓碑]のタイトルで、地元の郷土史家・川原崎次郎翁(1923生)『凧あげの歴史 平賀源内と相良凧』 (羽衣出版 1996.11.17  3,300円)を語った浄心寺の住職・木内隆敬師のことと、同寺にある源内の墓石の写真を、SBS学苑〔鬼平クラス〕安池欣一さんのリポートで紹介した。

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(浄心寺の山門)

殺人の罪で伝馬町の牢へ入れられ、病死したことになっている平賀源内が、じつは、老中・田沼意次(おきつぐ)の手配でひそかに脱牢、相良近辺に隠棲し、天寿をまっとうした---とする異説の証拠調べであった。

200年11月4日の〔鬼平クラス〕の相良ウォーキングでも、浄真寺の源内の墓石とされているものへ墓参した。

が、記事はそのことではない。
3月12日には、源内との関連が薄いとみなして割愛しておいた安池さんのリポートの追補である。

同寺の山門の欄間を飾っている彫刻について、牧之原市は、文化財に指定している。

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福岡は、九州の都市ではなく、城下町・相良のメイン通りの町名。

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彫刻のことはよくは知らないが、龍の根源である不屈さと睥睨する威圧感を様式美の中に巧みに融合させており、見る者に自省をうながしていると思う。

寛政元年(1789)といえば、田沼意次は江戸にあってすでに鬼界に入っており、相良城は破毀されていた。()(
前年---天明8年10月初旬に火盗改メに任じられた長谷川平蔵宣以(のぶため)は、循吏(じゅんり)としての実力をあらわし始めていた。

寺田洞仙の名は、1937年刊の平凡社『日本人名大事典』には収録されていない。
芸術畑の「人名事典」をあたるべきなんだろう。

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2007.03.13

源内焼

静岡県牧之原市の相良地区福岡62の長勝山浄心寺(日蓮宗)にあった寺尾俊平家の墓域で、湯沢宗兵衛こと平賀源内といわれている墓石が発見された経緯は、当ブログ[相良の平賀源内墓碑]に記した。

事実は、地元の郷土史家・川原崎次郎翁(1923生)の著書『凧あげの歴史 平賀源内と相良凧』(羽衣出版 1996.11.17  3,300円)に拠っている。

同書は、伝・平賀源内のその墓石の下から、副葬品の軟陶三彩焼の花瓶が2コ、出てきたこと、その花瓶は源内焼の特徴をそなえていると記す。

源内焼について、手許の加藤唐九郎編『原色陶器大事典』(淡交社 1972.10.25)の解説を書き写す。

讃岐国志度(香川県大川郡志度町)の陶器。舜民焼ともいう。
平賀源内が宝暦年間(1751~64)長崎から伝えた交趾(コーチ)焼の陶法によって始めたもので、作品は主に弟子の脇田(堺屋)源吾(舜民)や五番屋伊助(赤松松山)が源内の指導によってつくったものであるが、特に源吾の手になるものが多く「志度舜民」「舜民」「民」などの印銘がある。

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世界図・日本図の地図や、西洋風の斬新な意匠が特色であるが、これは源内の案に出たものと思われる。
陶土は主に付近の富田村(大川町)の土を用いた。

一方、『平賀源内と相良凧』の[軟陶三彩]についての記述は、すこし異なる。

郷里の志度では、以前から源内の指導で、いわゆる源内焼を造っていた。(略)
これとは別に本窯を築いた源内は、中国風の技法で源内焼を造らせていた。
軟陶三彩焼は線を中心とし、文様の輪郭をつよい彫線と、細い線状の泥土で区切り、紫や黄の色を美しく彩った
艶(あで)やかな焼物で、交趾(こうち)手と呼ばれ珍重された。
三彩というのは三色という意味ではなく、文様が浮きでる技法にその特徴があり、内外に異なる釉(うわぐすり)をぬる。

『現色陶器大事典』が「源内焼」として掲示している写真の鉢がいうところの「軟陶三彩」かも。Photo_314

出土した花瓶の写真は、川原崎翁の著書には掲げられてはいない。相良の資料館にでも蔵されているのであろうか。
花瓶の印銘についても、なぜか、言及がなされていない。

小伝馬牢を脱出し、湯沢宗兵衛となって相良に住みついた平賀源内は、その花瓶を持って陸奥国下村や秋田へ旅したのであろうか。
あるいは、世話になった相良の誰かに贈ったものか。

謎は謎を呼ぶ。

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2007.03.12

相良の平賀源内墓碑

2007年3月11日の本欄で、静岡のSBS学苑パルシェ[鬼平]クラス・メンバーの安池欣一さんが、いまは牧之原市の一部となっている旧・相良地区福岡62にある長勝山浄心寺(日蓮宗)を訪れたことを報告した。
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安池さんは、湯沢宗兵衛こと平賀源内といわれている墓石の写真を撮り、住職・木内隆敬師から詳細をお聞きになった。
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真ん中の墓石が源内のものと。

木内師の話は、地元の郷土史家・川原崎次郎翁(1923生)の著書『凧あげの歴史 平賀源内と相良凧』(羽衣出版 1996.11.17  3,300円)とほとんど同じだったということなので、同著から引用しよう。

湯沢宗兵衛こと平賀源内といわれている墓石の発見は、昭和34年(1959)の秋彼岸だったという。池波さんが[錯乱]で直木賞を受賞したのはその翌1960年、『鬼平犯科帳』の『オール讀物』での連載は、さらに8年置いた1998年新年号から始まった。

当時の川原崎翁の日記。
10月15日湯沢春太の墓碑が発見されたと言って(郷土史家の先達の)山本吾朗氏おおよろこび。(略)
東京の寺尾俊平家の墓域で、この人は相良の出身慶応大学の医学部長(医学博士)という。
その先代は、相良城下(源内屋敷)の名医、寺尾杏斉ということがわかった。

発見の経緯は、寺尾部長の家が、遺骨を東京の多磨霊園に改葬するべく、墓石の整理をしていてわかったと。

浄心寺の霊位簿には「宗兵衛・春太の父」としるされてい、墓碑の正面には、
 一実院宗見日明
 深浄院妙宗日法

左側面には、
 寛政十己未四月廿六日
 文化三丙寅正月廿六日
と刻まれているという。

戦前の平凡社『日本人名大事典』にしたがうと、源内の生年は享保11年(1726)だから、墓碑の寛政10年(1798)を没年とみなすと享年73歳という計算になる。
ただ、寛政10年は戌午で、己未は翌11年(1799)。

この件は、もうすこし探索してみたい。

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2007.03.11

平賀源内と相良凧

2007年3月9日、静岡のSBS学苑パルシェ[鬼平]クラスのメンバー・安池欣一さんから、以下のメールをいただいていた。

本日、相良に行って来ました。
・淨心寺で平賀源内の墓石の写真をとりました。住職の説明は河原崎次郎氏『平賀源内と相良凧』 (p163 八、湯沢宗兵衛こと平賀源内の墓発見)に記載されていることと同様でした。
・河原崎次郎氏『城下町相良区史』を河原崎次郎氏からいただきました。800頁の大部です。コピーする箇所が解らないので河原崎次郎氏『平賀源内と相良凧』・平賀源内の墓石の写真のCDと一緒に明日、郵送させていただきます。

それらの資料が、今朝、宅送便でとどいた。
川原崎次郎さん『城下町相良区史』(相良区 1986.10.1)は、じつは静岡県立中央図書館で必要な箇所をコピーさせてもらっている。

150_5川原崎次郎さん『凧あげの歴史 平賀源内と相良凧』(羽衣出版 1996.11.17)を早速に拾い読みした。

《喧嘩凧》とも呼ばれる「相良凧」は、長崎と江戸の凧の形状の折衷なので、「平賀凧」の別名もあるゆえん。
で、平賀源内が牢を抜けて、田沼意次の領地であった遠州・相良に隠棲したとの説が、郷土史家の目で考証されていて、おもしろかった。
源内が草庵をむすんでいたのは、相良から2キロ西の須々木原(当時・榛原郡須々木村)に茂っていた笠松の下であったらしい。
意次失脚後は、国替えになった田沼意明(おきあき)に従ってか、奥州国信夫郡下村(現・福島市佐倉下)へ移住、そののち出羽国久保田(現・秋田市)へ行き、そこで歿。従っていた僕女が分骨を相良へ持ち帰り、浄心寺へ葬ったとの説も挙げられている。

浄心寺の源内の墓については、日を改めて記すとして、興味を引いたのは、浜松藩、田中藩(江戸期以前に長谷川平蔵の祖先が城主だった)とともに、相良城の取り壊しを、松平内閣から命じられていた遠州・横須賀藩主の西尾隠岐守忠移(ただゆき)に関する記述。

この横須賀藩主・西尾忠移の内室が意次の三女だったことは、[意次の三女・千賀姫の墓]に紹介している。

藩が財政難のおりから、もっとも堅牢だった二の丸の望楼を割り当てられた横須賀藩が難儀していると、「知恵貸し翁」といわれていた老人が、魚網などを高櫓にかけ、轆轤(ろくろ)で引けと教えた。そのとおりにやってみたら、浜松藩、田中藩が30余日もかけていたのに、こちらは一気に片付いたと。

いかにも、源内をしのばせる、よくできたエピソードではある。

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