竹節(ちくせつ)人参(6)
「よろしいか、人参の天敵は、もぐらじゃ。これをふせぐには、植え場のぐるりに、芦を編んだ簀(す)を深さ3尺(90cm)ほども埋めこむ。もちろん、土の上にも1尺5寸(45cm)ほどでるようにする。夏の日差しがきびしいときにも覆いをかける支えにもなるし、猫やきつねふせぎにもなる」
平賀源内(げんない 45歳)は、太作(たさく 62歳)に丁寧に教えた。
太作は、日光今市の大出家の植え場でしっかりと見てきていたが、初めて聞いたことのように、なんども合点するから、源内も講じる気をそそられている。
「日陰までつくってやる---つまり、乳母(おんぼ)日傘(ひがさ)で育ててやれ、ということですな」
平蔵がちゃちゃをいれた。
「竹節(ちくせつ)人参は、そころへんの商家のむすこたちとは、くらべられないほどに、値打ちがあるのでな。はっ、ははは」
それから、ちょっとのあいだなにかかんがえていた源内が問う
「太作どのの植え場は、上総(かずさ)国の武射郡(むしゃこおり)でしたな」
「寺崎村でございます、若---いえ、お殿さまが、村長(むらおさ)の五左衛門さまにかけあってくださり、山のふもと---妙見さんの裏手の山裾を20坪ばかり、植え場にお借りすることができました」
(赤○=上総国武射郡寺崎 右端=九十九里浜
その左に蓮沼村 明治20年 参謀本部製)
「それは重畳。ただ、上総は、日光や会津、松江など、すでに朝鮮人参栽(う)えをなしている土地よりも暖かそうだ。その寺崎という村の土の色は?」
太作は、若いころに村をでて長谷川家に仕えたので、はっきりとは記憶にないが、山の土は赤っぽく、畑の土は黒っぽかったようであったと応えた。
「源内先生。亡父が若かったころ、開拓と地味の改良を指導しております」
「そのことは、備中(守)どのからつぶさにうけたまわったております」
源内は、植え場は、山の土4、畑の黒土4、川砂を2の割合で混ぜるように、といった。
「くれぐれもいっておくが、砂は川砂で、海砂は厳禁。海砂を雨水で何年さらしても塩気が抜けないのでな。塩気は、人参には毒と覚悟されよ」
そのほか、堆肥にかぎること、夏が終わる時分に種が赤くなるが、収穫した種に土を抱かせて湿気を絶やさないこと、いちど根を獲った植え場は、土を変えても10年間はつかわないこと---をいいきかせた。
太作は、おぼつかない手つきで、それらを克明に書きとめた。
「そうだ。いま書き留めているように、人参の毎日の育ちぶり、手入れのあれこれ、天候も日録しておく」
「かならず、仰せのとおりにいたしますです」
油紙包み10ヶを大事に抱き、くりかえし礼を述べ、仙台藩の蔵屋敷をでようとする太作を呼び止めた源内は、
「太作どのはも左ひざに痛みをおぼえているようだな」
「はい。2年ほど前から、齢のせいか---」
「治療して進ぜよう。エレキテルでエレキを通じると、なおることがある」
左足の股引をひきあげさせ、なにやらおかしげな機械から銅線をひいてひざにあて、把手を風車のようにまわし、刺激を送りこんだ。
「どうかな? ひりりぴりりとくるであろう。これで血のめぐりがよくなり、痛みもとれたはず」
「ほんに、軽くなりました。ありがとうございました」
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