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2007.03.02

平賀源内顕彰碑

台東区橋場2丁目22番の2にある平賀源内の墓域には、墓屋の右に、2.5mはあろうかというほどに巨大な顕彰碑が立っている。
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昭和5年4月18日、表側に、旧藩主の末---伯爵・松平頼壽侯の跋文を刻んで、有志によって建立された。

跋文の大意は以下のとおり。

平賀源内先生が逝かれたて150年。先生は幾多の発見・発明をされ、中には電気まであります。その業を讃えない人はありません。また先生は、多くの人に慕われてき、その墓は大正13年に史跡に指定されました。ところが、総泉寺とともに市外へ移るようになった時、有志の人たちの運動によって旧地に保存されることになったのは、大慶であります。そこで、表にその由来を記し、裏面には、杉田玄白の碑文を刻んで、この偉人を永く残します。

裏面の杉田玄白の碑文は、じつは、犯罪人を顕彰したということで破棄させられたもの。漢文なので、返り点など横書きに適さないとか、現在は使われていない漢字もあるので、大意を現代文に翻訳・記述してみる。

処士(浪人)平賀君。諱は国倫(くにとも)。号は鳩渓。風来山人とも称した。
信州の武将・平賀源心の末裔である(ちゅうすけ注:父親の白石姓を平賀と改めたのは、先祖に誇りを抱いていたからであろう)。
先祖は難を避けて讃州志度に流れて住みついたのであった(ちゅうすけ注:父親・茂左衛門は蔵番の小吏)。
君の人となりは磊落不羈、さらに才弁があり、気はなお豪放、書を読んでも章句にこだわらなかった。
高松侯は小吏としてお使いになったので、君は嘆じていわく、丈夫は世に処するにあたっては常に国家の益を考え、郷里に安んじているべきではないと。
四方に旅して産物を究め、自然の理を学び、技術に精通。
諸侯に対しては利国を説き、庶人に対してはすなわち利身を説く(ちゅうすけ注:その割に当人はいつも懐がピーピーで、『魚が棲む城』によると、田沼意次は来ると50両前後を渡させていたと)。
海内に賢愚なく、ものの名をことごとく知っていた。
諸侯の召しかかえようとの申し出をすべて辞していわく、人生を自由に生きるから貴いのだ、どうして五斗米のために腰を折らねばならないのだと。
妻帯をすすめる人も少なくなかったが、なに、いたるところが家みたいなものだ、なんでいまさら係累を作らねばならないといって、終生娶らなかった。
君、つねに客を好み、客が来ると引きとめて、夜となく昼となく酒盛りをして飽きない。もとより君に恒産があるわけではないから財布はすぐに空っぽ。しかしそんなことはまったく気にしていない---。
(このあと、著作を列記しているが略)。
まさに非常というべき人だから、非常のことを好み、やることも非常だった。その死も非常としかいいようがない。

付記すると、獄中の源内は食を断って死を期していた。逝く前日、田沼意次の内密の配慮で、玄白は面会するを得、辞世の句を受取ったという。

 乾坤(けんこん)の 手をちぢめたる 氷かな

乾坤とは、源内が究めた天地自然の理の意。 

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コメント

顕彰碑の裏側の写真は撮影不可能でした。その理由は、隣家が接近していて、広角レンズをもってしても、無理だったからです。

したがって、文章のみでご了解ください。

投稿: ちゅうすけ | 2007.03.02 13:35

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