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2010.02.19

竹節(ちくせつ)人参(2)

太作が、お願いごとがあると、申してお待ちしておりました」
久栄(ひさえ 21歳)の機嫌は、いたってよくない。
里貴(りき 29歳)と知りてあってから、密会だけでなく、五ッ半(午後9時)すぎの帰館が多いからであった。
もっとも、今夜は、田沼邸からだから、平蔵(へいぞう 28歳)は声も荒立てないですんだ。

太作(たさく 62歳)は、平蔵が生まれる前、すなわち、長谷川家の屋敷が赤坂築地(現・港区赤坂6-11)にあった時代からの奉公であった。

「用件を聞いたかな?」
「なんでも、お暇をお願いしたいと---」
「17歳のときからだから、45年も勤めてくれた」
(てつ)---いえ、お殿さまのすべてを見ているわけでございますね」
「なにを言いだすやら。そちとの寝屋の睦言までは見てはいない」

「それでは、ほかのどなたかとの睦言は知っているのでございますか?」
「妙にからむではないか。なにか、言いたいことでもあるのか」
「いいえ、ございませぬ。お殿さまは、長谷川家の大事なお方でございますゆえ、いささかのことには目をつむるように、お舅(しゅうと)どのから、きつく申しわたされました」
「亡き父上に、感謝」
「ばかみたい」

太作は、平蔵がまだ14歳のとき、三島で男になる手はずをつけてくれた。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]

そのことを、父・宣雄(のぶお 享年55歳)にも母・(たえ 48歳)にも告げることはしなかった。
いってみれば、一人っ子であった銕三郎(てつさぶろう)にとって、年齢が大きく離れた、なんでも話せる兄のような存在であった。

あくる朝はやく、裏庭にしつらえた15階段を、鉄条入りの木刀を振りながら昇降をくりかえしていると、湯桶に汗拭きの手拭を入れた太作がやってきた。

「奥から聞いた。暇をとってどうする?」
手拭をしぼってわたし、この朝寒のなか、平蔵が片肌を脱いで汗を拭くのを、すがすがしい目で追いながら、
「生まれた、寺崎へ帰って、お迎えをまちます」

寺崎は上総(かずさ)の、長谷川家の知行地(220石)の一つである。
いまは、千葉県山武市寺崎
五左衛門の後裔は、戸村を称しておられる。

「昨夕、ご老中の田沼主殿頭意次 おきつぐ 55歳)侯から、太作の仕事を申しつけられた」
不審顔に変わった太作に、竹節(ちくせつ)人参の植え場のことを説明し、
「10年か15年がかりの仕事らしいから、太作には80歳まで達者でいてもらわねば、拙が腹を切ってお詫びをしなければならなくなる」
「若---いえ、殿さま。もったいないことを---かたじけのうございます」
涙声になっていた。

太作の肩に止まった枯葉をはらってやりながら、
「やってくれるか?」
「はい。石にかじりついてでも、やりとげますです」
「拙も、ときどき、様子を見に訪れるつもりである。それから、村長(おとな)の五左衛門どのには、相応の土地を手あてするよう、今日にでも書き、飛脚便を出しておこう」

いまの村長の五左衛門は、母・の兄にあたる。

平蔵は、書状に太作の住まう家を建てておくことも書き加え、その費用として50両(800万円)を包んだ。


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