『鬼平犯科帳』文庫巻2に所載されている[谷中・いろは茶屋]は、寛政3年(1791)晩夏、シリーズきっての愛すべきコメディー・リリーフ兎忠こと同心・木村忠吾(24歳)が1番手柄を立てる篇である。共演者は、谷中の遊所・いろは茶屋〔菱屋〕の娼妓お松と、兇盗〔墓火(はかび)〕の秀五郎である。
年齢・容姿:50男。でっぷりとした、大様な風貌、どこにあるかわからないほどの細い眼。
生国:武蔵(むさし)国埼玉郡(さきたまごおり)粕壁宿(現・埼玉県春日部市粕壁)。
いろは茶屋〔菱屋〕では「川越の大きな問屋の主」を自称しているので、最初は川越市(埼玉県)の生まれかとおもっていたが、まさかのときの手配をミス・リードするための、手のこんだ韜晦と判断した。
探索の発端: 20年前、〔墓火〕の秀五郎は〔血頭(ちがしら)〕の丹兵衛の上方での盗めを助(す)けたことがあった。そのときに伏見の娼家でなじんだお松に、〔菱屋〕のお松が似ていた。それだけではなく、店の者やお松が家庭の雰囲気で迎えてくれるのが嬉しかった。
谷中の〔いろは茶屋〕(『歳点譜』より 塗り絵師:ちゅうすけ)
(参照: 〔血頭〕の丹兵衛の項)
それで、お松が熱をあげている信州・上田の若い浪人(じつは木村忠吾の偽称)へ、揚げ代として10両(いまなら100万円相当)もの金をお松へ渡してやった。それず命とりになるとも知らずに。
書類づくりに部署替えになった忠吾は、辛抱たまらず、夜分に役宅の長屋を抜け出して谷中へ走ったが、一乗寺(台東区谷中1丁目)の脇で、盗み装束の一団を発見、彼らが引き上げていった家の前の上聖寺(台東区谷中1丁目)の塀に梯子をかけて監視するとともに、寺の者を役宅へ走らせた。
結末:捕らえた老人と下ッ端の男の自白から、〔墓火(はかび)〕の秀五郎の本拠、日光街道の武州・粕壁の旅籠〔小川屋〕がわかり、鬼平みずから14名をしたがえて出張り、仙台での大仕事をたくらんでいた一味の12名を逮捕。死罪であろう。
つぶやき:寛政3年(1791)より20年前といえば、明和8年(1771)で、この秋、平蔵の父・宣雄が火盗改メ・助役(すけやく)を命じられた。〔小房〕の粂八は17歳で、丹兵衛の破門されたのはこの2年後。すでに〔血頭〕一味にいたのだろうか。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
それにしても、2年後に押し入り先の下女に手をだした粂八を追放するほど本格派だった丹兵衛が、そのころから恐ろしげな〔血頭〕を名乗っていたとは---。
〔墓火〕の秀五郎がお松に語ったという「人間という生きものは、悪いことをしながら善(よ)いこともするし、人にきらわれながら、いつもいつも人に好かれたいとおもっている---」の至言は、池波さんが長谷川伸師から受けついだものである。
付記:鳥山石燕『画図百鬼夜行』に、[墓の火]と名づけられた化け物が描かれている。池波さんは、〔墓火(はかび)〕の秀五郎の「通り名(呼び名)〕を、この化け物から借りたのであろう。
絵に添えられている文は、
「去るものは日々にうとく出るものは日々にしたし。古きつかはく犁(すか)れて田となり、しるしの松も薪となりても、五輪のかたちありありと陰火(いんくわ)のもゆる事あるは、いかなる執着の心ならんかし」
最近のコメント