〔久保島(くぼしま)〕の吉蔵
『鬼平犯科帳』文庫巻22は、長篇[迷路]である。〔猫間(ねこま)〕の重兵衛こと、かつての御家人の息子・木村源太郎が陰の主人公で、さまざまな手段を使って鬼平を悩ます。
それというのも、鬼平が銕三郎時代に、源太郎の父で無頼漢として悪名の高かった惣市(50を超えていた)を砂村の海辺で斬って殪したことがあった。
(参照: 〔猫間〕の重兵衛の項)
もっとも、源太郎は「親父がくたばって、せいせいした」と銕三郎に接近してき、2人して無頼に明けくけれていたとき、〔久保島(くぼしま)〕の吉蔵の「盗みばたらきに手を貸してくれ」といった。
断りきれなかった銕三郎は、盗みの当夜、見張りをつとめた。
年齢・容姿:どちらも記されていない。なにしろ、20数年も前のことである。
生国:武蔵(むさし)国幡羅郡(はたらこうり)久保島(くぼじま)村(現・埼玉県熊谷市久保島)
幡羅郡に(はら)とルビをふっているリファレンス本(平凡社『日本歴史地名大系 埼玉県篇』)もある。
池波さんは(くぼしま)とにごらないでルビをふっているが、地元では(くぼじま)とにごっている。
江戸期の初期までは「窪島」と書いたが、幕臣・大久保氏の知行地となって「久保島」としたようである。
探索の発端:押しこんだのは南新堀の傘問屋で金貸しもしていた〔大坂屋〕だが、探索もなにも、銕三郎自身が参加したのだから、逮捕劇もない。ただ、銕三郎のつよい要請で、血をみることはなかった。
結末:銕三郎は、吉蔵がくれた割り前金をそっくり、〔相模(さがみ)〕彦十と〔鶴(たずがね)〕の忠助へわたした。
(参照: 〔鶴〕の忠助の項)
つぶやき:文庫巻7の[泥鰌の和助始末]では、20になるかどうかの銕三郎が〔相模〕の彦十に誘われて、〔泥鰌(どじょう)〕の和助のお盗めを手伝おうとしたことがあったが、松岡重兵衛にさとされて手を汚さずにすんだ話が書かれている。
ところがこの長篇では、〔久保島(くぼしま)〕の吉蔵に実際に手を貸したことになっている。なんとも割り切れない。
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コメント
まったく、ちゅうすけさんのおっしゃるとおりです。
池波先生は、どうして、銕三郎に盗みの手伝いをさせてしまったのでしょうね。
手を汚さなくても、無頼の生活をしていれは、博打ぐらいはしたでしようから、それだって、旗本としての履歴には汚点となります。
博打は、犯罪の端緒にはなりますが、自分の金であそんでいる分には、完全な犯罪とはいえないのではないでしょうか。
もちろん、当時の法律では、博打場に部屋を貸しても犯罪のようですが。
投稿: 文くばり丈太 | 2005.06.13 16:38
>文くばり丈太さん
しばらくぶり、いらっしゃいました。
そうなんです。松平定信が博打をとても嫌いましたから、鬼平のころは、博打関連はきつく取り締まられたようで、長谷川平蔵名義の評定所への伺いは、盗人より、博打関連のものが多いように見受けられます。
投稿: ちゅうすけ | 2005.06.13 18:51
事の成り行きはともあれ、平蔵が一度でも、盗人の手助けをしたことは残念でなりません。
火付盗賊改方の長官として、たとえ若気のいたりでも、盗人の片棒は担いで欲しく無かったです。
あくまでも正は正であってほしいと望むのは幼稚すぎるでしょうか。
投稿: みやこのお豊 | 2005.06.13 20:47