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2005.02.12

〔鶴(たずがね)〕の忠助

『鬼平犯科帳』文庫巻4の[血闘]に、長谷川平蔵の20歳前後---銕三郎と名乗っていた時代---に自分の家のように親しく寝泊りしていた、本所四ツ目の〔盗人酒屋〕の亭主。
元は〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門一味だったが、一人むすめのおまさが少女期になると盗めをやめていた。

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年齢・容姿:20余年前は40がらみ。鶴のように痩身で背が高い。
生国:下総国印旛郡佐倉村の在(現・千葉県佐倉市のどこか)
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近在の村々を合併していった現在の佐倉市圏(地図は明治20年ごろのもの)

探索の発端:主要キャラの一人であるおまさの出現が、文庫巻4に入っている[血闘]で、『オール讀物』にシリーズ連載がはじまってから丸2年、第25話目なので、あまりにも「遅すぎる」とおもい、ハッと気づいた。
(丸2年目といえば、仲間でありプロデューサーでもあった故市川久夫さんによってテレビ化の企画がすすんでいた時期だ)。
テレビ化ともなれば、出ずっぱりに近い女性キャラが必要---と、市川さんが池波さんに要請したのではないかと。

で、一面識もない市川さんに、厚かましくも電話で問い合わせた。
「テレビ用に、おまさの創造を要請されたのは、市川さんだったのではないのでしょうか?」
「お察しのとおり」
(参照: 女密偵おまさの項)

その後、市川さんとの文通がはじまり、細かな字でぎっしりと情報がつまったハガキが10枚ばかり、いまも手元に残っている。

〔鶴(たずがね)〕の忠助と知り合ったのは、おまさの探索を通じてであった。

ほっそりとした長身ということからの〔通り名(呼び名)〕であろうが、ひょっとすると、生国の印旛沼には冬になると鶴の一群が渡ってきていたので、そこから自称したのかもしれない。
江戸時代、印旛沼に鶴が飛来していたかどうかは、地元の鬼平ファンのご教示を得たい。

結末:銕三郎が、京都西町奉行に栄転した父・宣雄について京都へ行っていたわずか1年半のあいだに死去。もちろん、畳の上での逝去である。享年は47,8か。
忠助の死により、〔法楽寺〕の直右衛門の手配で、おまさは、〔乙畑(おつばた)〕の源八(げんぱち)へ預けられた。

つぶやき:忠助の女---おまさの母親についての記述はまったくない。

[血闘]p131 新装p137に、

そのころの平蔵は二十歳を出たばかりで、父・宣雄に引きとられ、実母と別れて本所・三ツ目の長谷川屋敷で暮らすようになったものの、継母の波津と紛争の絶え間がなく、ほとんど屋敷へは寄りつかなかった。

とあるが、実母は、宣雄が義理で波津と結婚したきに幼い銕三郎とともに巣鴨の実家へ帰り、まもなく病死したような記述がどこかにあったはずだが。

もちろん、史実の生母は、寛政7年(1795)5月6日まで生きており、ずっと長谷川家に居住していた。
むしろ、早くに病死したのは、継母の波津のほうで、銕三郎が5歳のときだった。

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111千葉県 」カテゴリの記事

コメント

鶴の一字をどうして「たずがね」と読むのか、どこかの方言かなと思い[大辞林]を引いてみますと
[田鶴が音]とあり、「鶴の鳴く声」と「鶴をいう雅語」とありました。
なんと優雅な名前を付けた盗賊でしょう。
おそらく痩身な姿、立ち振る舞いから鶴を想像させたのでしょう。
江戸時代には餌付き場が江戸にもあり正月には朝廷に献上したと言いますから、印旛沼あたりでは自然に見られたと思います。
「鶴」と言えば故桂枝雀さんの爆笑傑作落語が懐かしいですね。

投稿: 靖酔 | 2005.02.12 09:18

>靖酔さん

そうなんです、ぼくも何年か前に、辞書で[田鶴が音]をしらべたことがありました。

「田鶴が音」とは、江戸時代か、もっと前に、田に降りた雄鶴が雌を求めて恋を語る求愛のダンスでしょう。

それにしては、〔鶴(たずがね)〕の忠助の、おまさを産んだ女房はどうしたのでしょう? まったく、姿を見せませんね。
そして、おまさのように奥ゆかしい女性を育てた母親のはずなんですが。

これは、池波さんの母親経験なんですかねえ。離婚して、再婚、また離婚して池波さんの父親違いの弟を連れて帰ってきた---。

投稿: ちゅうすけ | 2005.02.12 19:07

鬼平犯科帳は千葉県と関係が深いですね。 おまさは印旛沼の出身の鶴の忠助の娘ですか、
長谷川平蔵の実母も知行地たる千葉県山武郡の名主の娘ではないかと思っています。 当時名主は百姓の身分ながら裕福で学問を積んだ知識階級でした。 反面旗本・ご家人は家柄を重んじるあまりは経済的に窮屈なだけでなく食事も質素で行儀、作法に煩く、幕末に大鳥啓介が旗本・御家人の子弟は柔弱で使い物にならないと述べています。 若いときに一応の行儀作法を身につけ、しかも山野を走り回った名主の娘(地方では有名人の娘は一般の百姓よりも誇りを持っている)の方が、旗本の娘よりも強健な身体を持ち強い子供を産んだと考えています。

投稿: edoaruki | 2005.02.13 09:51

>edoaruki さん

そうなんですよね。銕三郎(長谷川平蔵の家督前の名前)の生母は、下総の武射郡寺崎郷(現・千葉県山武郡成東町寺崎)の庄屋だった戸村家のむすめとのうわさが地元にもありましてね。

それで、当時の成東町の文化財委員会の長谷川常夫委員長(平蔵家とは無関係の長谷川さん)が文書類をお調べくださったのです。

しかし、戸村家では、明治期に、書類をすべて果樹園の袋にしてしまっていて、証拠立てることができませんでした。

長谷川平蔵家の家系は、代々、病身で、とくに波津は肺結核で、結婚も夫婦生活もままならなかったと推測しています。
それで、鉄三郎の生母が、ずっと家計をみていたのでしよう。

edaruki さんのおっしゃるように、寺崎生まれの生母は健康な女性だったとおもいます。

投稿: ちゅうすけ | 2005.02.13 11:37

千葉県佐倉市に住んでいる、鬼平ファンの御台ともうします。初めてコメントを書かせていただきます。「鶴の忠助」が、佐倉の在の出身とありますが、譜代大名のお城である佐倉城がありましたが、この城下町から少し離れた農村地域だと思います。根郷村、千代田村、弥富村・・・残念ながら「鶴」と名のつく地名や屋号は聞いたことがありません。印旛沼には、鶴ではなくて白鳥の飛来地があります。今の時期ですと、白鳥と白鷺が佐倉市の上空を飛んでいるのがよく見渡せます。佐倉の農村地区に住んでいる友人に聞きましたが、鶴はみたことがないそうですよ。池波先生は、成東町を意識なさったでしょうから、江戸~成東町の中間地点に、佐倉城の城下町に目をつけたのではないでしょうか。「立見流」という剣の道場は今でも引き継がれています。少年少女の剣道も盛んですよ。生前、佐倉を訪れていらっしゃるとすれば、あるいは真冬~早春にかけてだとしたら、上空を飛ぶ白鳥や白鷺の白く美しい水鳥の群れに、鶴を連想したのかも知れません。呉服屋さんに銃砲店、写真館、割烹料亭に芸者置屋、正妻ではない二号さんがひっそりと住まわせてもらっていたような小奇麗な寮のあともありますよ。池波先生は、歴史と緑と史跡の多い「小江戸・佐倉」が、きっとお気に召したのではないでしょうか。

投稿: 御台 | 2005.02.20 20:58

>御台さん

ようこそ、いらっしゃいました。
詳細な佐倉自慢、ありがとうございました。池波さんも苦笑しつつ、よろこんでいらっしゃるでしょう。

ところで、明治20年ごろの房総半島の「大多喜」と銘打たれた部分---房総の南端---の陸軍参謀本部制作の地図を見ていたら、佐倉というか、印旛沼のぐっとみなみに、「鶴舞」という地名がありました。鶴が来ていたのでは?

この「鶴舞」という地名、藤沢周平さんの『用心棒日月抄』シリーズの、青江又八郎の古里---北国の藩にもでてきますです。

投稿: ちゅうすけ | 2005.02.23 14:42

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