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2009.06.27

〔神崎(かんざき)〕の伊之松(3)

その夜---。

御厩(おうまや)河岸の渡しが途絶えた時刻に、銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、茶店〔小浪〕の戸締りされている潜り戸をしめやかにたたいた。

すぐに戸があけられ、お(のぶ 30歳)は口をきかず、目で招じた。
(さすがに、鍛えられた女賊(おんなぞく)あがりだ)
銕三郎は、さぐるともなく、無駄のないおの身のこなしを採点している。

行灯が一つだけともっている飯台に、燗をしたちろりと板わさを運び、向かい合わせに坐った。
「仕舞い舟まで、お客がたてこんだもので、買い物にも行けませんで、なんにもありませんが---」
酌をしてから、自分の盃も満たした。

「おどの。内山(左内 さない 46歳)同心筆頭が、この茶店を購(あがなう)うにあたり、そなたの金をあてることをことわり、火盗改メがすべて支払った理由(わけ)を話したかな?」
「いいえ。この茶店は、火盗改メがずっと使いたいからとだけ---」
長谷川組は、冬場の助役(すけやく)だから、来春になれば役を解かれる。そうなると、この店の後ろ盾は、きょうの昼間に引きあわせた田口与力の組---本役の中野監物清方(きよかた 49歳 300俵)さまの組に引きつがれるはず。そうやって、代々の火盗改メがここを密偵の隠れ蓑として使っていくということです。もちろん、おどのが、女将ぐらしにはもう飽きたというまで、ここの女将でいられることは変わりはない」
「ありがたいことです」

「これからの話は、これとは別のことだが---」
「はい」
「客のなかに、前の女将はどうした? と訊くのがでてこよう。そのときに、いま、鬼怒川の湯につかりに行っているが、5日後には戻ってくるはずと答えてほしい。そう訊いた客がいたかどうかは、彦十(ひこじゅう 36歳)どのに、毎夕、閉店前に店をのぞきにこさせるから、そう訊いた客がきた日には、茶でなく、酒を注いだ茶碗をだしてやってほしい」
「こころえました」
は、訳も聞かないで、うなずいた。
(しっかりと鍛えられている)
銕三郎は、30歳にしては肌がすこし荒れぎみのおだが頼りになる密偵と見てとり、ここまで鍛えた〔神崎(かんざき)〕伊之松(いのまつ)という首領に興味をそそられた。

「おどの。さらにこれからのことは、拙自身のひとり言とおもい、応えたくなかったら、応えなくていい」
が姿勢をただした。

「お信どのは、〔不入斗(いりやまず)〕という〔通り名(呼び名)ともいう)]の女盗(にょとう)であったそうな」
「はい」
「〔不入斗(いりやまず)〕というのは、生まれ育った村の名だそうな」
「はい」
「18の齢までその村で育ち、なぜ、村を出た?」
「------」

「男に捨てられたか?」
「村長(むらおさ)の3男でした」
「やはりな。そなたのその美形を、若い男ばかりか、女房持ちでもその気のある男たちは放っておけまい」
「------」

「〔神崎〕の伊之松お頭には、どこで拾われた?」
「木更津で、飲み屋の酌とりをしておりしたときに---」
伊之松は幾つだった?」
「40がらみ」
「おどのは?」
「20(はたち)」
「すぐにできたか?」
「いいえ。お頭は、そういうお人ではありません」
(はて。聞いたような科白(せりふ)だが、だれからであったか?)


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