カテゴリー「215甲子夜話」の記事

2006.12.04

『甲子夜話』巻33-1

『甲子夜話』巻33-1

田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)、御咎(おとがめ)につき居城(遠州相良)を召し上げられる。
時は天明七年(1787)十月二日であった。

翌三日、岡部美濃守長備(ながとも 岸和田侯5万3000石)に城の受け取りを命ぜられた。

   殿中沙汰書
                   岡部美濃守
 右、遠州相良城請取在番を仰せつけられり。二万五千石の
 役高をもって用意いたすべきの旨、波の間において、老中
 列座で(牧野)備後守がこれをいいわたす。

同十五日濃州、城の受け取りと座番のためお暇。時服十羽織拝領。

この濃州はご譜代方ではあるが、年頃から懇意にしていたので、帰府後の翌年の春、相良城請取在番のための行列などを聞いたら、登城の日に携えてみえたので、それを記す。

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東洋文庫版『甲子夜話2』より


(ちゅうすけ注)行列の供揃えの配列は、このあと、14コマもつづいているのだが、省略。

[殿中沙汰書]に、「二万五千石の役高、うんぬん」とある。つまり、2,500人の陣立てをしつらえて受け取りに行けというわけだが、費用は岸和田藩もち。

もっとも、岡部美濃守長備(このとき27歳)は、田沼に異様な執念を燃やしていたという。
理由は、現職時代の田沼に加増された領分に、岸和田藩のものだった1万石が入っており、そこは藩にとってもっとも豊穣な地だったのだと。
岸和田藩は、藩を上げて復讐戦の心構えだったらしい。

そこのところを見込んだ上での、松平定信の計らいだったとする説がある。
田沼への怨念が、定信分と岡部分が二乗した城の受け取りと取り壊しだった。

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2006.12.03

『甲子夜話』巻30-35

『甲子夜話』巻30-35

かつて田沼氏が執政だったとき、その家老の井上伊織はことさらに時めいていた。

その一例をあげると、輪王寺の家司の阪 大学が、貨財の融通の件で伊織の宅へ行き、面会を乞うた。
取次ぎがいうには、主人は出勤を前にして灸治をしておりますので、今朝はお会いできませんと。
大学は「急を要するお願いなので、どのような接見であろうとかまいませぬ」と押しての目通りを請うた。

「そういうことであれば、お通りください」といわれて入ってみると、伊織は出勤前なので継上下を着けており、腰掛に腰をおろして三里(膝)に灸をすえていた。
灸をすえている人を見ると、船手頭向井将監(政香 まさか)であった。
また、羽箒で灸の灰を払っているのは勘定奉行松本伊豆守(秀持 ひでもち)ではないか。

大学も大いにおどろきながら、退出したという。
これはのちに大学からじかに聞いた話である。
あのころの世態、耳にするも愕然にたえないばかりである。

(ちゅうすけ注) 輪王寺の家司が向井将監政香の顔を知っていたとは思えない。井上伊織が紹介したのであろう。
将監はこのころ40代(2400石)。なにかの相談ごとがあってたまたま伊織を訪ね、出勤前に施灸の場にゆきあわせ、それなら心得があるといって火種をもったとも考えられる。そのあたりを省略しているのは悪意によるものであろう。

松本伊豆守秀持は、田沼に才幹を認められて勘定奉行に引き上げられ、500石を給され、また田安家の家老を兼帯して役料1000俵を得ていた。田沼の腹心中の腹心。このころ、50台なかば。
彼が打ち合わせのために井上伊織を訪ねているのは別に異とすることではない。これも、たまたま施灸の場に居合わせたから、羽箒をもっただけだろう。

まあ、井上伊織ほどの仁のそばに、そういう雑事をする召使いがいないほうを怪しむべきではなかろうか。

それより、輪王寺の家司・阪 大学の金銭話の結末はどうなったのだろう。うまくゆかなかったから、意趣返しに、30年もむかしの話を愚痴ったか。

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2006.12.02

『甲子夜話』巻26-16

_120_1 『甲子夜話』巻26-16

守宮(いもり)黒焼媚薬に用いることは、世に知られている。
かつて田沼氏が閣老(老中職)にあったとき、その臣に井上伊織〔家老〕、三浦荘司黒沢一郎右衛門〔用人〕などは世にときめいていた仁たちで、身分の高い人も低い者も、へつらって、雲望(猟官)の梯路(踏み台)としていたものだ。

この黒沢なる仁は、はじめ、主人に気に入られていなかった。
で、人も寄ってこなかったことを憂えていた。

ある日、例の黒焼を求め、ひそかに主人にふりかけたところ、その効き目か、これより気に入れられるようになり、
世の人も黒沢に媚びるようになったので、自分にも自然に徳がついて結構。左右と眤近(じっきん)にもなった。
そんなある日、ことの次第を主人に告げたところ、主人は咲(わら)ったと。

その時世といい、その事といい、よく似合っていることよ。

(ちゅうすけ注) 黒沢といえば、田沼意次の継室(後妻)が黒沢家の出。
黒沢の祖先を遠くたどると、安部貞任・宗任にもつながる。
出羽国置賜(おきたま)郡小松に住していたため、あるときは小松、また黒沢を称したと。
黒沢一郎右衛門がその一族の縁者とすれば、継室の関連だから、田沼氏がやや出世してからの召抱えかかえで、それだけ井上伊織や三浦荘司より存在の浸透度が薄かったのであろう。

これもどうでもいいほころびだが、大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波書店)のp43と同書の岩波現代文庫p44が『甲子夜話』巻24の26話としているが、巻24には11話までしかない。
この誤記のことは昨日、岩波書店へハガキで通じておいた。

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2006.12.01

『甲子夜話』巻15-10

『甲子夜話』巻15-10

先年(天明6年)、田沼氏にお咎めがあったのち、遠(駿)州・相良(さがら 現・静岡県牧之原市相良)の居城を召し上げられるにつき、岡部美濃守(長備 ながとも 河内・岸和田藩主。5万3000石。そのとき27歳)が受け取りに行き、破却した。

ちかごろ(文化4,5年 1807,8)、予が隠棲の荘(平戸藩下屋敷 本所・牛島 現・墨田区横網町1-12 旧安田庭園)に住む家臣が、遠(駿)州相良生まれの老婆を召し使った。
その婆がいったという話を伝え聞いた。

城が破却されたときはまだ若かったが、なんだか大勢の人が集まり、なにもかも微塵にうちくだいて、たちまち跡形もなくなったと。

また婆の話によると、田沼氏の臣下たちが離散のとき、三浦(荘司。用人?)といった家来が相良を立ち退いたが、こと穏便にと忍んでいたのを、離散していた足軽どもが聞きつけ、その宿所へ尋ねきて、没落のときに難儀したからといって、金子を50両、100両などねだった。
なだめすかした三浦は、2,3両ずつ与えてその場を逃れ、ひっそりと江戸の方へ去ったと。

田沼の勢権が烜赫(さかん)だったときに、名をよくしられていた荘司という仁がいたが、その者であろうか。
この三浦なる仁が忍んでいたのは、かの婆の家だったと。

(ちゅうすけ注) 静山がこの件を筆記したのは、48,9歳、いっていても50歳のころと推定できるが、書き手が「老婆」という言葉を使った場合の対象となる女性はいったい幾歳だったろう?
45,6歳? それは気の毒。50歳? jまあ、生活につかれていれば、老(ふ)けても見えようか。

相良城の受け取りの下命は、天明7年(1787)10月15日ごろだったという。
とすると、静山の筆が走った20年ほど前。くだんの女性の30歳前後のころのことか。
「城が破却されたときはまだ若かった」という表現は、ちょっとおかしいのでは?

ギョッとしたのは、『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』の岡部美濃守長備の記述。

岡部家の祖・駿河権守清綱がはじめて岡辺を称し、嫡男・泰綱から岡部に改めたという。何代か後裔が今川義元に仕えていた--との先祖書から推測するに、旧・東海道筋、岡部川ぞいの岡部宿(現・静岡県志太郡岡部町)一帯の豪族だったのだろう。

岡部町といえば、[5-3 女賊]の〔瀬音(せのと)〕の小兵衛が引退後の身を寄せた小間物店〔川口屋〕がある宿場だ。
〔瀬音(せのと)〕の小兵衛

ま、それはいいとして、問題の『寛政重修諸家譜』の記述。

  (天明)七年田沼主殿頭意次が居城近江国相良(さがら)
  を公収せらるるにより、十月十五日仰をうけたまわり、彼地
  にいたりて勤番す。
  このときこふて近江国甲賀の士五十人を召具す。これ、先祖
  長盛がより公役の備にとて扶助しをけるところなり。

近江国相良城? 近江国甲賀の士五十人? なんで?
駿河国でしょうが---。

幸い、明後日、静岡へ行く用がある。
中央図書館へ寄って『相良町史』をのぞいてこよう。 

『寛政重修諸家譜』 は、門閥派政治家の老中首座・松平定信発案、大名家とお目見以上の幕臣に家譜の提出を命じた。
定信失脚後は、堀田摂津守正敦(近江国堅田藩1万石 藩主)が総裁となり、屋代弘賢林述斎など60余人の儒者たちが提出された「先祖書」を史料に照らして校訂・編纂した膨大な家譜集。校訂の段階で見落としがあったか、あるいは誤記したか。

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2006.11.30

『甲子夜話』巻6-29

『甲子夜話』巻6-29

このとき(巻6-28の田沼意次の全盛期)は、勘定奉行松本伊豆守(秀持 ひでもち)・赤井越前守(忠晶 ただあきら)などいう輩も、互いの贈遺富盛を極めた。

京人形一箱の贈物などは、京より歌奴を買いとり、麗服を着せて箱に入れ、上書きを人形としたとかいうぞ。

また豆州は、夏月は蚊帳(かや)を、廊下通りから左右の幾つもの小室へじかに往き来できるようにつなげ、小室ごとに妾を臥せしめ、夜中、どの部屋へも蚊帳をでることなく行けるようにしていたと。

また子息の一人が癇症で雨の音を嫌ったので、幾部屋もの屋上に架を作って天幕を張り、雨の音を防いだとも。

その奢侈ぶりをもって想像するがよい。

(ちゅうすけ注) 松本伊豆守秀持は、たしかに天守番という低い地位から、田沼に才能を認められて勘定(廩米100俵5口)に引き抜かれている。
明和3年(1766)には組頭、6年後の吟味役をへ、安永8年(1779)50歳のときには勘定奉行へ栄進、500石を知行し、伊豆守に叙爵。

田沼の没落とともに天明6年閏10月5日に職を奪われて小普請に貶められた上に、逼塞を申しわたされた。
松平定信派の追求は厳しく、俸禄から100石を減じられてまたも逼塞。許されたのは定信体制がととのった天明8年5月。
寛政9年没(68歳)。

京人形の話は、どこかで見た記憶がうっすらとある。もちろん、松本秀持のことではない。噂の捏造にはタネがあることの見本であろう。
蚊帳の件にいたっては、人生50年ともいわれた当時、50歳をすぎた男が、一晩に幾人もの妾の相手をするものか、と笑うしかない。外野の男たちのあらまほしき妄想といいたい。  

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2006.11.29

『甲子夜話』巻6-28

『甲子夜話』巻6-28

田沼氏の権勢が盛んだったころは、諸家贈遺にさまざまに心をつくしたものであった。

中秋の月宴に、島台、軽台をはじめ趣向した中に、某家の進物は、小さな青竹篭に、生きのいい大鱚(きす)七八尾ばかり、彩りに些少の野のものをあしらい、青柚子(ゆず)1個。その柚子に家堀彫(いえぼり)萩薄の柄の小刀が刺してあった[家彫は後藤氏の彫ったもので、その値は数十金もした)。
別の某家のは、けっこう大きな竹篭にしびニ尾であった。

この二つは類がないと、田沼氏は興を示したと。

また、田沼氏が盛夏に臥したとき、候問の使价が、このごろは何を楽しまれているかと訊いた。菖盆を枕元へ置いて見ておられると用人が答えたところ、ニ三日のあいだに。諸家から各色の石菖を大小とりどりに持ち込み、大きな二つの座敷に隙間もないほどに並んで、とりあつかいに困ったほどと。
そのころの風儀はこんなであった。

(ちゅうすけ注) 「講釈師 見てきたような、ウソをいい」で、庶民の鬱憤ばらしの噂話は針小棒大どころか、ねたみから出たまったくの捏造であることが多い。
また、田沼意次の場合には、反田沼派が意識して流した、ためにする噂もあったろう。
静山は、そんな不確かな風評を、ウラもとらずに40年後に記録しているんだから。

石菖の話は、浜町の下屋敷の池に鯉があふれたというのと同工異曲。
らちもないこんな風評を写していると、反田沼陣営が政治的権力を独占したあとの情報のムチのしたたかさが見えてくる。
目に見えないこういう圧力に向き合った現職役人・長谷川平蔵の、ストレスの大きさもおもいやられる。

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2006.11.28

『甲子夜話』巻2-40

『甲子夜話』巻2-40

田沼氏が老中職にあって権力が盛んだったころ---予も、二十歳(はたち)になったばかり(安永6年 1777)。
人なみに雲路(うんろ 仕官して栄達する)の志があって、しばしば氏の屋敷を訪れたものである。

予は、大勝手を申しこみ、主人に面接したのは、30余席もしつらえられるほどの部屋。
ほかの老中職の面接の座敷は、請願者がたいてい障子の前に一列に居並んでいるらいだが、田沼の桟敷は、両側に並びきれなくて、その間に幾列かつくり、それでもはみ出た仁は座敷の外に座る始末。
そこらあたりになると、当の主人が着座しても顔が見えない。

ほかの重職のところでは、主人は客からよほど離れて着座した上で挨拶を受けたが、大勢の客があふれかえっている田沼のところでは、客と主人の間はやっと2,3尺(60~90cm)ほどで、まさに顔と顔が接っせんばかれり。

(ちゅうすけ注) この挨拶の応答、面接、請願は、老中が登城するまでの朝の1時間たらずのあいだにおこなわれるのが常であった。もちろん、田沼意次邸にかぎらない行事であった。

大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波文庫)は、この文章に対し、一昨日(11月26日)に紹介した松浦静山の姻戚関係を引いて、ためにするものとし、さらに、清・静山が20歳のころといえば、『甲子夜話』巻1が書かれた35年以上も前のことで、記述が正確な記憶によるものとはいえまいと、史料性に疑問を呈している。

(ちゅうすけ注) 宝暦7年(1757)生まれの英三郎(静山の幼名)が、父・政(まさし)の病死により祖父・誠信の養子となったのは明和8年(1771)の15歳。将軍・家治へのお目見は18歳。藩主になったのが19歳。外様大名の身ではやばやと猟官運動に走り、「しぱしば」田沼邸を訪問するかしらん。
もし、走ったとすれば、静山の人品もいささかさがるといわざるをえまい。
平戸の記念館で見た静山の肖像画は、すでにそういうことから超越している感じを受けたが、『甲子夜話』の文にはまだ俗臭がちらつく。

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2006.11.27

『甲子夜話』巻1-7

『甲子夜話』巻1-7

予、若年のころ(静山25歳 天明4年1784  3月24日)、新番衆・佐野善左衛門政言(まさこと 500俵 年齢未詳30代?)なる仁が、殿中で、若年寄の田沼(意知 おきとも 36歳)に切りかかった。

佐野を組みとめたのは、大目付・松平対馬守忠郷(たださと 70歳 1000石)。

現場に居合わせた人の話によると、佐野が刀を振りあげて切るまでは、対州はその背後についていたが、佐野が切りおおすのを見とどけて背後から組みとめたと。

同人が評するに、100年前、浅野(内匠頭)氏が吉良氏を打ったときの梶川某の組みとめ方は、武道を心得ているとはいいがたい。この感慨はもっともだと、心ある者たちは感賞したとも。

予も、この対州をよく見知っていた。老体で頭髪薄く、常は勇気あるようにはおもえなかった。

また、叔父の同姓越前(守信桯 のぶきよ 事件のときは小普請奉行)がいうには、佐野の刃傷事件では、御番所の前を田沼が通りかかったとき、後ろから佐野が「申しあげます、申しあげます」と声をかけながら抜いた刀を八双に構えて追いかけ、田沼が振り返ったところを肩から袈裟がけに切り下げ、返す刀で下段を払ったのを目のあたりにしたと。

あるいはいう。この刀は脇差で2尺1寸(63cm)、粟田口一竿忠綱だったので、これ以後にわかに忠綱の刀の値があがったと。

またいう。このとき田沼氏の差料の脇差は貞宗だったが、鞘に切り込みの傷ずついたと。さだめし、佐野が下段の払いがあたったのであろう。

田沼家のいい分だと、佐野の切り込みを受け止めたときの傷と。どういうもんだかねえ。

(ちゅうすけ注)なんだか、静山は嬉しそうに書いている(笑い)。疑念が生じるのは、大目付の対馬守が、万事承知していて佐野善左衛門の後ろをつけたのではないかということ。
意次はそこまで考慮しなかったか、対馬守はこの功で200石の加増をうけている。もちろん、手くばりしたのは意次。

この事件、池波さんは『剣客商売』で、どう書いていたかなあ。

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2006.11.26

『甲子夜話』巻1-26

_120 『甲子夜話』は、松浦(まつら)静山(1760-1841 肥前・平戸6万1700石の藩主・清としては1775から1806)が隠居後に聞き書きした膨大な雑文集。

大石慎三郎さんは『田沼意次の時代』(岩波文庫)で、「田沼時代を知るには好適の史料とされ、田沼時代を語る場合には必ずといってよいほど引用されている史料である」が、「問題の多い史料」であって、とくに田沼関連の文章には要注意---とする。

その根拠として、「彼の叔母、戸籍上では妹は、本多弾正大弼忠籌(ただかず 陸奥・泉藩主 2万石)の室(妻)となっている」「この本多忠籌は、田沼意次の政敵である松平定信の最大の〔信友〕」であった。

「さらに、彼自身の室松平氏は伊豆守信礼が女となっている」が、その兄は松平伊豆守信明(のぶあきら 三河・吉田藩主 7万石)で、「忠籌と並んで松平定信を支えた二本柱」

そんなわけで、静山の筆が田沼意次におよぶときには、公正さを欠くと。いや、悪意に満ちた捏造があるといったほうが、より実体にちかいかもしれない。

で、『甲子夜話』(東洋文庫)から、各項を順次、文意を伝えてみたい。

『甲子夜話』巻1-26

先年、将軍(家斉)の不興をこうむって田沼氏が老中職を罷免され、常盤橋内の役宅を即日明けわたすことになったとき。
急のことではあったが、家器を車に乗せて蠣殻町(浜町)の下屋敷へ運んていた。その宰領をしていた一人が、
気を変えて、車ごと消えたという、
田沼氏が小身から栄進をはじめたときに召し抱え、才幹もあるので目をかけていた男だったが、零落した主人の先行きに不安ほおぼえたのであろうか。
こんな大騒ぎのときもときであったから、田沼氏も捜索すべき手はずみつかず、そのままにしたと。家器を不正に手に入れたものは、また、不正に失う---とは、このことであろう。

(ちゅうすけ注)これは、ためにする噂ばなしで、役宅の即日引き払いということはなかった。

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