『甲子夜話』巻33-1
『甲子夜話』巻33-1
田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)、御咎(おとがめ)につき居城(遠州相良)を召し上げられる。
時は天明七年(1787)十月二日であった。
翌三日、岡部美濃守長備(ながとも 岸和田侯5万3000石)に城の受け取りを命ぜられた。
殿中沙汰書
岡部美濃守
右、遠州相良城請取在番を仰せつけられり。二万五千石の
役高をもって用意いたすべきの旨、波の間において、老中
列座で(牧野)備後守がこれをいいわたす。
同十五日濃州、城の受け取りと座番のためお暇。時服十羽織拝領。
この濃州はご譜代方ではあるが、年頃から懇意にしていたので、帰府後の翌年の春、相良城請取在番のための行列などを聞いたら、登城の日に携えてみえたので、それを記す。
東洋文庫版『甲子夜話2』より
(ちゅうすけ注)行列の供揃えの配列は、このあと、14コマもつづいているのだが、省略。
[殿中沙汰書]に、「二万五千石の役高、うんぬん」とある。つまり、2,500人の陣立てをしつらえて受け取りに行けというわけだが、費用は岸和田藩もち。
もっとも、岡部美濃守長備(このとき27歳)は、田沼に異様な執念を燃やしていたという。
理由は、現職時代の田沼に加増された領分に、岸和田藩のものだった1万石が入っており、そこは藩にとってもっとも豊穣な地だったのだと。
岸和田藩は、藩を上げて復讐戦の心構えだったらしい。
そこのところを見込んだ上での、松平定信の計らいだったとする説がある。
田沼への怨念が、定信分と岡部分が二乗した城の受け取りと取り壊しだった。
最近のコメント