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2006.12.01

『甲子夜話』巻15-10

『甲子夜話』巻15-10

先年(天明6年)、田沼氏にお咎めがあったのち、遠(駿)州・相良(さがら 現・静岡県牧之原市相良)の居城を召し上げられるにつき、岡部美濃守(長備 ながとも 河内・岸和田藩主。5万3000石。そのとき27歳)が受け取りに行き、破却した。

ちかごろ(文化4,5年 1807,8)、予が隠棲の荘(平戸藩下屋敷 本所・牛島 現・墨田区横網町1-12 旧安田庭園)に住む家臣が、遠(駿)州相良生まれの老婆を召し使った。
その婆がいったという話を伝え聞いた。

城が破却されたときはまだ若かったが、なんだか大勢の人が集まり、なにもかも微塵にうちくだいて、たちまち跡形もなくなったと。

また婆の話によると、田沼氏の臣下たちが離散のとき、三浦(荘司。用人?)といった家来が相良を立ち退いたが、こと穏便にと忍んでいたのを、離散していた足軽どもが聞きつけ、その宿所へ尋ねきて、没落のときに難儀したからといって、金子を50両、100両などねだった。
なだめすかした三浦は、2,3両ずつ与えてその場を逃れ、ひっそりと江戸の方へ去ったと。

田沼の勢権が烜赫(さかん)だったときに、名をよくしられていた荘司という仁がいたが、その者であろうか。
この三浦なる仁が忍んでいたのは、かの婆の家だったと。

(ちゅうすけ注) 静山がこの件を筆記したのは、48,9歳、いっていても50歳のころと推定できるが、書き手が「老婆」という言葉を使った場合の対象となる女性はいったい幾歳だったろう?
45,6歳? それは気の毒。50歳? jまあ、生活につかれていれば、老(ふ)けても見えようか。

相良城の受け取りの下命は、天明7年(1787)10月15日ごろだったという。
とすると、静山の筆が走った20年ほど前。くだんの女性の30歳前後のころのことか。
「城が破却されたときはまだ若かった」という表現は、ちょっとおかしいのでは?

ギョッとしたのは、『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』の岡部美濃守長備の記述。

岡部家の祖・駿河権守清綱がはじめて岡辺を称し、嫡男・泰綱から岡部に改めたという。何代か後裔が今川義元に仕えていた--との先祖書から推測するに、旧・東海道筋、岡部川ぞいの岡部宿(現・静岡県志太郡岡部町)一帯の豪族だったのだろう。

岡部町といえば、[5-3 女賊]の〔瀬音(せのと)〕の小兵衛が引退後の身を寄せた小間物店〔川口屋〕がある宿場だ。
〔瀬音(せのと)〕の小兵衛

ま、それはいいとして、問題の『寛政重修諸家譜』の記述。

  (天明)七年田沼主殿頭意次が居城近江国相良(さがら)
  を公収せらるるにより、十月十五日仰をうけたまわり、彼地
  にいたりて勤番す。
  このときこふて近江国甲賀の士五十人を召具す。これ、先祖
  長盛がより公役の備にとて扶助しをけるところなり。

近江国相良城? 近江国甲賀の士五十人? なんで?
駿河国でしょうが---。

幸い、明後日、静岡へ行く用がある。
中央図書館へ寄って『相良町史』をのぞいてこよう。 

『寛政重修諸家譜』 は、門閥派政治家の老中首座・松平定信発案、大名家とお目見以上の幕臣に家譜の提出を命じた。
定信失脚後は、堀田摂津守正敦(近江国堅田藩1万石 藩主)が総裁となり、屋代弘賢林述斎など60余人の儒者たちが提出された「先祖書」を史料に照らして校訂・編纂した膨大な家譜集。校訂の段階で見落としがあったか、あるいは誤記したか。

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コメント

権力の凄さ
田沼意次のせいではなくても、全て否定され、
跡形も無くなるのは支配者が前任者を否定す
る定型的なものなんでしょうか?
何も知らない庶民は前任者の悪い面ばかりを
見聞きし、権力者に協力するのでしょうが

投稿: edoaruki | 2006.12.01 09:47

>edoaruki さん

チャイナでは、そういうこともあるから、史記は、1王朝おいて、次の次の王朝になってから書く---という仕組みのようです。

ぼくはチャイナの歴史には詳しくはありませんが。

すぐ次の王朝は、直前の王朝を倒して天下をとったわけですから、どせうしても、倒した王朝のことを悪くいいがちなんだそうです。

投稿: ちゅうすけ | 2006.12.01 12:57

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