カテゴリー「108栃木県 」の記事

2010.10.27

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(8)

本郷通りから中山道が分かれるとば口が、森川宿追分である。

とば口のとっかかりの両側は、先手・鉄砲(つつ)の5番手の組屋敷である。
そこからの5,6軒先の片町に旅籠〔越後屋〕があった。
向いには旗本屋敷が3,4軒並んででいる。

平蔵(へいぞう 33歳)は、火盗改メ・本役の土屋帯刀守直(もりなお 45歳 1000石)の組下の同心・高井半蔵(はんぞう 39歳)に同伴してもらった。
昨秋、ともに壬生藩へ探索に行った仲で、気ごころはしれているし、寺社奉行・戸田因幡守忠寛(ただとを 41歳 宇都宮藩主 7万7000石)の依頼で、平蔵がうごいていることも承知している。

半蔵から、火盗改メと告げられた〔越後屋〕の主(あるじ)・倉造(くらぞう)は、一瞬、身をかためたが、すぐにたちなおり、
「どのようなお調べでございましょう?」
「ここ1年ばかりの宿帳をそろえるように---」

3冊の宿帳調べに、部屋があてられた。
目あては、伊佐兵衛、伊三次、伊佐蔵、伊三郎、猪佐吉。
そして、下野(しもつけ)国河内郡(かわちこおり)戸祭村の住人・九助きゅうすけ)。

まっさきに、松造(まつぞう 27歳)が伊佐蔵いさぞう)を見つけた。
越後国蒲原郡暮坪村 山師・伊佐蔵(いさぞう)。
平蔵が手にしている宿帳にも、半蔵がめくっていた帳面にも、伊佐蔵の名があった。

さすがである---半蔵は、すぐには主・倉造を呼ばなかった。
3冊とも調べおわり、昨春と秋おそくの帳面に九助の名が見つかってから、平蔵となにごとか打ちあわせた。

うなずきあい、倉造に声がかかった。
初手に問うたのは半蔵同心であった。
「ご亭主。屋号のの由来は---?」
「は?」
「〔越後屋〕のいわれだよ」

蒲生郡(がもうこおり)の村松藩(3万石 堀家)の城下町の出だが、ひろく、越後からの旅客に泊まってもらうためにつけた屋号だと答えた。

「それにしては、越後からの客は、5人に1人の割りだな」
「冬場の出稼ぎ人は、ここへは泊まりません。じかに桂庵(けいあん 口入れ屋)へ行ってしまいます」

突然、平蔵が命じ口調で、
「秋おそくに泊まった、下野・戸祭(とまつり)村の九助から、預かりものがあろう。出してもらおうか」

はっと、両目をみひらいた倉造に、
「早くしろ」
おっかぶせた。

倉造がはじかれたように帳場の戸袋から布切れに包んだものを差し出した。
「あけよ」

中から、大谷石(おおやいし)の蓮華の花弁があらわれた。
「贓物(ぞうもつ)扱いの罪で、火盗改メが引きたてる」
「お許しください。贓品(ぞうひん)とは、つゆ、存じませんでした」

平蔵が懐から1枚の紙片をだした。
九助が岩切り人の組に決算した旅籠賃の受けとりであった。
「ここに、晩酌銚子1本とあるが、こうではあるまい?」
「はい。頼まれまして、つい---」
「だれかと、いっしょに呑んだのであろう?」
「---はい」
「暮坪村の伊佐蔵だな?」
{---はい」


本郷通りの加賀藩邸の正門をすぎたところの、小体(こてい)な酒亭で盃をかたむけながら高井半蔵同心が、
「どうして、九助からの預かりものをしていると見破られたのですか?」

平蔵は苦笑しながら、箱根で荷運びしている知己から、九助らしい男の振り分けが小さかったとしらせてきたことをあかし、大谷石の釈迦像の一部を持ち運んではいないと推定、かまをかけてみただけだと打ちあけた。

しかし、箱根の雲助にも知己がい、そこまで網をはっていた平蔵に、半蔵同心は内心、舌をまいたが、さあらぬ体(てい)で、
九助が〔越後屋〕へ戻ってきたところを捕らえ、宇都宮藩へ引きわたしますか?」
「およしになったほうが無難です。いまごろは、九助たちのいるところへ、〔越後屋〕が報らせの使いを出していますよ。この件はお互いに、なかったことに---」

ちゅうすけ補】寺社奉行で宇都宮藩主・戸田因幡守忠寛(ただとお 41歳)は、4年後に大坂城代に栄転し、それにつれて大谷寺のある河内郡、都賀郡などが、河内国・播磨国のうちの2万5000石の地と替えられた。
城代としての費えを近くでまかなえ、ということであろう。
引き続いて就任した京都所司代を無事につとめあげると、河内郡、都賀郡などは旧に復した。
しかし、洞窟の釈迦像の台座の補修の記録は、この領地替えのどさくさで紛失したらしく、いまでは郷土史にも記されいない。

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () () (4) () () () 

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2010.10.26

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(7)

「やっと、宇都宮藩から頼まれた探索を終えたので、午後、帰府するつもりです。〔越畑(こえばた)〕どんへの伝言でもあれば---」
平蔵(へいぞう 33歳)の顔を、なつかしげに見やりながら、
「ご丁寧にお立ちよりくださり、ありがとうさんにございます。常平(つねへえ 26歳)がすっかりお世話になりっぱなしで申しわけねえことで---」

釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうべえ 41歳)は、用意の小さな油紙包みを松造(まつぞう 27歳)の前に差しだし、
「今市の竹節(ちくせつ)人参です。〔音羽(おとわ〕の元締へお渡しいただけますか?」
音羽〕の重右衛門(じゅうえもん 52歳)は、〔越畑〕の常平をあずかり、〔化粧(けわい)読みうり〕のくさぐさを見習わせていた。
常平への小遣いは、べつに包んであった。

「それで、長谷川さま。ご藩主からの依頼は、らちがあきましたか?」
「いや。かいもく。もともと見こみはなかったのに、因幡侯のたってお言葉をお断りもできなかったので---」
因幡守戸田忠寛 ただとを 41歳)は、宇都宮藩7万7000石の太守で、寺社奉行としての体面から、大谷寺(おおやじ)の窟内の仏像の事件の目鼻をつけたがった。

「ご領主が出世なさると、出費が領民へかぶさってきますから、うれし、つらし、です」
藤兵衛が、ふくんだような笑いをもらした。

平蔵は、〔戸祭とまつり)〕の九助(きゅうすけ 22,3歳)の人相を告げ、ついででいいから、北関東の元締衆への廻状の隅にでも書き加えてもらえるとありがたいと頼んだ

宇都宮藩へのいいわけであった。


江戸へ帰ってみると、箱根の荷運びのいまでは頭格になっている仙次(せんじ 33歳)から、1ヶ月ほど前に、九助らしいのが、4つ5つ齢(とし)かの、身なりのいい連れと上っていったとの注進が、〔箱根屋〕の権七(ごんしち)のところへとどいていた。

参照】2008年7月28日[明和4年(1767)の銕三郎] (12

仙次どんも、もう、雲助の頭格でございますよ」
「そういえば、あれから11年にもなるからな。歳月は人を待たずというとおりだ」
「あっしが長谷川さまと出あってからだと、14年でございますよ」

参照】2007年12月29日~[与詩を迎えに] () (10) (11) (12) (13) (25) (26) (27) 

仙次からの文(ふみ)には、齢かさのほうは商人風をよそおってはいたが、口のきき方や態度のはしばしに堅気じゃない感じがあった。
小豆(あずき)大の黒子(ほくろ)の男の指のふしぷしがとりわけ太かったのが気になった。
頼まれた振りわけの包みはさほどには大きくなかったから、駿府より先へ行く旅ではないと見た---などと目のつけどころが、いかにも山道の荷運びらしい。

九助とおぼしい男は、齢かさのほうを敬(うやま)っていて、
いささん」
と「さん」づけで呼んでいた。
いさ」の下のほうはわからない、とも。

伊佐兵衛か、伊佐蔵か、伊三郎か、猪之吉か、伊三次か---これは、中山道へのとば口にあたる森川宿追分の旅籠〔越後屋〕の宿帳から、越後国蒲原郡(かんばらこおり)暮坪(くれつぼ)村の山師・伊佐蔵いさぞう 28歳)とわれた。

ちゅうすけ注】暮坪村の伊佐蔵とは、聖典巻14[五月闇]で、おんなの恨みから密偵・伊三次いさじ)を刺殺した〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵のことである。
伊佐蔵の実弟・〔暮坪くれつぼ)〕の新五郎(しんごろう)が顔をみせるのが文庫巻24[二人五郎蔵]。

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () () (4) () () (

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2010.10.25

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(6)

「畑仕事が暇に時期には、百姓や水呑みは、大谷石(おおやいし)の切り出しにでると聞いたが---?」
轡(くつわ)をならべて宇都宮へ向かいながら、平蔵(へいぞう 33歳)が、郡(こおり)奉行所の代官見習い・羽太(はぶと)金吾(きんご 22歳)に語りかけた。

「石を切出ししているのは、大谷寺のある荒針(あれはり)村のほかには、その子(ね 北)つながりの岩原村と新里(にっさと)とですが、岩切り人全部が切り出しにあたるとはかぎりません」
「ほう---?」
「江戸や上方の問屋へご機嫌うかがいを兼ねて売りこみにいく者もあります」
「その旅の費(つい)えは---?」
「岩切り人仲間が持ちます」
「岩切り人仲間---のう」
岩切り人たちの組合のようなものであろうと、平蔵は理解した。

「戸祭(とまつり)村の九助(きゅうすけ)も、岩切り人仲間に入っていたろうか?」
「仲間に組みしていない者は、村では生きていけませぬ」

大谷寺の近くまで帰ってきた平蔵は、岩切り人仲間の世話役の名前を訊かせた。
九助が入っていたのは、岩原村ので、世話人は宇蔵(うぞう 42歳)とわかった。

切り出し現場まで呼びにやると、宇蔵はいぶかしげに戻ってきたが、羽太心得を認めると、とたんに腰を低くした。

「こちらは、ご在府の殿さまのご用で江戸からくだってみえた長谷川どのである。お尋ねのことには、ありていにお応えするように」

平蔵が、戸祭村の岩切り人であった九助は、売りこみに出ていたかと訊くと、
「はい。江戸から小田原までの問屋を受けもっておりました」

九助の旅の費えの書付けやら受けとり控えなどがのこっていたら、のこらず、今夕までに、下本陣へ持参するようにいいつけた。

本陣・篠崎伝右衛門方の門で馬を返しがてら、
「七ッ半(午後5時)までには、先刻の岩原村の世話人がいいつけたものをとどけてこよう。確かめがてら、一献、さしあげたいが---」
羽太心得は、一も二もなく、承(う)けた。

下級藩士たちは、そうとうに家計をきりつめさせられ、酒も満足には呑んでいない様子がうかがえた。


本陣で、羽太金吾と酌(く)みかわしていると、別の部屋で受けとりを調べていた松造(まつぞう 27歳)が、いくつかの紙片を手に入ってきた。
「ご苦労であった。ま、一杯やってから話すがよい」

金吾の酌を受け、
「殿、妙です。村抜けの3年前から、江戸での宿を、森川追分の〔越後屋〕にとっております」
「中山道口だな。日光街道からの安旅籠だと、小塚原か三味線堀あたりにとりそうなものだが--」

江戸の地理に不案内な金吾に、松造がかんたんな道筋を描いて説明した。

「中山道をよくつかう誰かと、〔越後屋〕で会っていたのやもしれぬ。帰府したらすぐに調べてみよう」

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () () (4) () ) (

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2010.10.23

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(4)

その晩、平蔵(へいぞう 33歳)は、京都の米屋町の上品骨董商〔風炉屋〕の主人・勇五郎あてに書状をしたためた。

参照】200736[初代〔狐火(きつねび)〕の勇五郎
2009年7月20日~[〔千歳(せんざい)〕のお豊] () () 

下野(しもつけ)国河内郡(かわちこおり)戸祭村生まれの九助きゅうすけ 22,3歳)のこころあたりはないか。
容姿は小太り、鼻が太めで、上唇に小豆(あずき)大の黒子(ほくろ)がある。
宇都宮城下といっていい荒針村は、〔狐火〕のお頭(かしら)の生地---笠間村からもさほど遠くないからご存じとおもうが、あの村の大谷寺(おおやじ)の大谷石の岩窟仏。
その釈迦像の台座の蓮花を1片はぎ取るという罰あたりなことをして出奔した者である。

もし、蓮華の1片を売りにきたら、住いや、したがっている頭領(かしら)も訊きだしてほしい。
捕らえるというわけではなく、蓮花を1片を取り戻したいだけである。

ついでだが、〔盗人酒屋〕の〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 享年54歳)どんのひとりむすめ、〔狐火〕のお頭(かしら)も面識のあるおまさ坊が、〔乙畑おつばた)〕の源八(げんぱち 40歳あたり)の世話になっておるらしい。
もし、お頭のところに顔をみせたら、拙がどんな相談にものると伝えてもらいたい。

封をし、表紙に宛名を書き、筆を洗ったところへ、次女・きよ 3歳)を寝かしつけた久栄(ひさえ 26歳)が寝衣すがたに、箱枕とはさみ紙を持って入ってきた。

「灯火(ともしび)の明かりが見えましたので---」
「ちょうど、いま、伏せようとおもったところであった。せっかくだから、しばらく休んでいけ」
「子守歌でも、歌いましょうか」
久栄の歌声に眠るどころか、かえって、いきり立ちそうだわ」

「また、宇都宮でございますか?」
「寺社の戸田因幡侯の頼みでな」
「いい、なじみおなごでも、できましたか?」
「おお、3人ほどな」
「どれ、責めてみましょう」

「これ、もそっと、お手やわらかに---な」
「殿こそ、そこは、指より舌で---」


寺社吟味役見習い・小室兵庫(ひょうご 25歳)が、馬で迎えにきた。
宿泊は、宇都宮の池上町の下本陣・篠崎伝右衛門方であった。

大谷寺(おおやじ)は、日光道中を1里半(6km)ほど行った左脇にあった。

参考大谷寺、大谷公園

岩窟の巨大な半球形の入り口は、人を呑みこむように開いていた。
その手前で、小室見習いが用意の龕灯(がんどう)に、庫裡から火をもらってきた蝋燭を立て、1ヶを松造(まつぞう 27歳)に持たせた。
龕灯に照らされた案内の僧の影が大屋石の窟壁に大きく動き、説明声がひびきとなって反射した。

こそぎ取られていたのは、第2窟の釈迦三尊像の、まんなかの主尊・釈迦の坐像のうてな(台座)の二段目左端の花弁であった。

「素人が、どうのようにして岩片をはぎとったのであろう?」
平蔵の疑問に、
「このあたりの百姓や水呑みの中には、岩石切り人の組合に組みしているものが少なくないのです。九助は戸祭村の水呑みでしたが、岩石切り人でもあったので、工具を有しておったのです」
小室見習いが応えた。

「洞窟の入り口は、夜も閉めないのかな?」
「ご覧いただいたように、巨きな入り口なので、手がまわりかねます」
これは、案内の寺側の苦労談。


A_360
(赤大○=宇都宮城下 赤小○=大谷寺 青小○=荒針村
緑小○上かに新里(iにっさと)・岩原=宇都宮藩の大谷石切り出し場
下の緑小○=戸祭村)

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () () () () () (

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2010.10.22

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(3)

宇都宮への旅立ちの前に平蔵(へいぞう 33歳)は、深川・黒船橋ぎわの町駕篭〔箱根屋〕で、権七(ごんしち 46歳)のむすめのお(しま 11歳)を呼び出し、連れだって霊巌寺門前町の浄心寺の楼門にいたると、そのかたわらで結び文をしたため、塔中のひとつ、浄泉尼庵を教えてとどけさせた。

_150ほどなく、尼頭巾の日信尼(にっしんに 37歳)があらわれた。

受戒する前のお(のぶ)である。
7年前に、上総(かずさ)国の盗賊一味を抜け、平蔵の世話で茶店〔千浪〕の女将をしていた。

「ここで、立ちばなしでいいか?」
うなずく尼に、
「〔乙畑おつばた)〕の源八(げんぱち 40歳前後)という首領(つとめにん)をしっているか?」
首がふられた。
「そうか。では---」

去りかける平蔵へ、
「あの---」
尼頭巾をとり、剃髪した頭をみせた。
「そうか」
丸頭をくるりとなぜ、
「これで、いいか?」
「---唇で」
「ばか。松造(まつぞう 27歳) 、おの目がある。今度な、日俊老尼に、よしなに---」

その夕べ---。
平蔵は、権七と連れだち、常盤町1丁目の小料理〔蓮の葉〕へ上がった。
女将のお(はす 33歳)が、あいかわらずも媚態で迎えた。

とりあえず、分葱(わけぎ)の酢味噌で酒を酌みながら、
「ここの主(あるじ)に、これを渡してほしい」
結び文を差しだした。
「主(あるじ)って---? 女将はあたしですが---」
「冗談ごとではないのだ」

は、嫣然と笑み、
「お返事は---お屋敷のほうへ---?」
「いや。宇都宮から帰ったら、また、くる」
「宇都宮へは、どんなご用で?」
「大谷石(おおやいし)の仏を拝んでくる」
「そんなみ仏さまがございますの?」
「ま、女将には、生き仏のほうが功徳になろうがな」
「極楽へ行かせてくださる生き仏さまなら----ほ、ほほほ」
新しい酒をとりに立った。

権七にも、紙片を渡した。
---小太り、鼻太く、上唇の小豆(あずき)大の黒子。齢のころ25歳前。
「舁(か)き手に頼んでおいてほしい。乗った町、降りた家がしりたい」
「承知しました。箱根の雲助たちのほうへも手をまわしおきます」
「かたじけない」

権七が、松造(まつぞう 27歳)の盃に酌をしてやっていた。
雀のたたき煮のだんごを箸でつまみあげて、しげしげと見つめている。

松造は、連れあいのお(くめ 37歳)が〔草加屋〕の板場からときどき持ち帰っていたあまりものの菜のおかげで、料理に関心をもつようになっていた。

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () (4) () () () (


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2010.10.21

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(2)

「大谷寺(おおやじ)の第2窟の釈迦像の蓮華のうてな(台座)の花弁を一片、そぎとったのです」
宇都宮藩士・石原嘉門(かもん 38歳 80石)の言葉に、平蔵(へいぞう 32歳)があわてて問い返した。

「失礼---その第2窟の釈迦像とは---?」

宇都宮城下から半里(2km)の荒針(あらはり)村に、大谷石(おおやいし 凝灰岩)の洞窟があり、千手観音、釈迦、薬師如来、阿弥陀如来の磨崖仏が彫られている。
彫られたのは1000年近くむかしであるとも。
それは、藩の宝としてどの藩主とも大切に保存・管理してきた。

参考】大谷寺(大谷観音)
大谷寺(宇都宮市)

ところが、すぐ東隣りの戸祭(とまつり)村の九助(きゅうすけ 22歳)が、村抜けする駄賃として釈迦像の蓮華のうての花弁をこそぎとり、返してほしければ50両よこせと、寺社奉行所へ投げ文をしてきた。
ところが、取り引きの日時も場所も指定していなかった。
投げ文の署名に、〔戸祭〕の九助とだけあった。
取り引きしようにも、捕縛するにも、手のうちようがない。

「それで、〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛に、関八州の香具師(やし)の元締衆に廻状をだしてもらおうという次第。藩の恥にもなるので、穏便にはこびたいのです」

(ふむ。〔戸祭〕の九助と署名か。盗賊の一味に入ったろうが、まさか、〔乙畑おつばた)〕の源八(げんぱち 40歳前後=当時)や〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 52,3歳)のところではあるまいな)

戸祭〕の九助の人相・風態は、小太り、太い鼻筋、唇のすぐ上に小豆(あずき)大の黒子(ほくろ)があるということなので、廻状には書き留めやすい。

香具師の元締衆へより、盗賊の頭たちへ廻したほうが早いとおもうが、そんな筋をもっていることを、嘉門にいうわけにはいかない。

「藩の勝手(財政)が不如意なことは、さきほど、申しましたとおりでありますれば、些少ですが、お出張りの手当てとしてお納めいただきたく--」
包まれていたのは5両(80万円)であった。

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] ()  href="../2010/10/post-aa28.html">3) (4) () () () (

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2010.10.20

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)

「戸祭(とまつり)村の九助(きゅうすけ)と申す若者も、困窮のすえに、村を捨てた一人です」
(---九助? 覚えがないないが、4年ほど前に、家僕・太作(たさく 70歳近く)たち一行が宿泊した旅籠が、たしか、城下はずれの戸祭という里にあったような---)

参照】2010年3月24日[日光への旅] (

宇都宮藩の寺社奉行の配下である、寺社吟味役の石原嘉門(かもん 38歳 80石)があげた戸祭村には、盗賊〔荒神(こうじん)〕の助太郎一味が住まっていたことがある、そのことは隠しておいた。

参照】2010年10月15日[十手持ちの瀬兵衛からの留め書 ]

このところ平蔵は、〔荒神〕の助太郎とはこれから先も---たぶん、一生かけての因縁付きあいになるだろう、と思いさだめていた。

それだけに、他人の介入を拒否する気持ちが強くなってもいた。

「村むらが疲弊だと、ご藩内の実穫(と)れ高にも影響がでてきましょう?」
「むろんです。出費を節するばかりでなく、藩士には去年から家禄の5分(5パーセント)借りが始まりました。数年はつづきましょう」

昨秋、宇都宮城下に足をいれたときには、それほど困窮しているようには見えなかったが、いわれてみると、旅籠〔喜佐見(きざみ)屋〕もどことなく活気がなく、客の泊まり部屋もぜんぶはうまっていなかった。

石原嘉門が申しでたのは、村抜けをした戸祭村の九助の手配りを、元締・〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうべい 41歳)にやるようにすすめてほしいということであった。

「たったそれだけのことに、拙が宇都宮まで出向くわけで?」
「藩が〔釜川〕の元締に頼んだら、江戸の長谷川平蔵さまが宇都宮までお越しになり、やってくれといわれれば、やってやらないこともない---と、国元からいってきておるのです」
「7万石のご家中の寺社奉行どのがお頼みになっても---?」
「左様」

火盗改メ・土屋帯刀守直(ものなお 45歳 1000石)への届けも、西丸・書院番4の組の番頭の水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 56歳 3500石)の許しも得てあるといわれた。

春とはいえ、江戸から関八州の子(ね 真北)へ27里16丁(110km)の地への道中に吹く風はまだ、冷たかろう。

「で、戸祭村の九助は、いったい、ご城下で何をしたのかな?」

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] ) () (4) () () () (

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2009.12.09

〔名草(なぐさ)〕の嘉平

銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、先刻から、その茶店を観察している。
茶店は、千駄ヶ谷村の日蓮宗の名刹・法雲山千寿院門前にあり、農家を改造した風雅な構えをしていた。


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(新日ぐらしの里といわれた千寿院 〔『江戸名所図会』)

銕三郎がいるのは、納戸町の長谷川久三郎正脩(まさひろ 61歳 4070石 小普請支配)の先祖が家光から賜っていた別荘地(2万3000坪)の千寿院側の片隅である。
塀はまわされておらず、矢来の柵が道路とへだてているにすぎない。
だから、茶店の表が見わたせた。

ちゅうすけ注】この別荘地は、のちの切絵図では出羽・山形藩の抱え地となっているが、銕三郎のころは、長谷川家の拝領地であった。

銕三郎は、通行人があると、樹木の具合を確かめているふりをし、怪しまれないような所作をくりかえしたが、いずれにしても2本差しの若侍には似合わない。

あきらめて、.留守番の番人に声をかけてから、供の松造(まつぞう 22歳)を番人小屋に待たせ、独りで茶店に向かった。
なんとなく、松造の顔を伏せておきたかったのである。

「あら。長谷川の若さまではございませんか」
声をかけてきたのは、赤い前掛けをつけて、給仕女をよそおっているお(こん 34歳)であった。

参照】2008年4月30日~[〔鶴(たずがね)〕の忠助] () () () () () (
2008年8月27日~[〔物井(ものい)のお紺] () () 

「やあ、おさん。足利ではなかったのかね?」
「お白っぱくれになっては、嫌。おまささんを探しにいらっしゃったんでしょ?」
「見破られたか、はっははは」
「ほ、ほほほ」

奥から、〔名草なぐさ)〕の嘉平(かへえ 56,7か)も姿を見せた。
_100_2「〔名草〕の爺(と)っつぁん。正直に答えてくれ。おまさを足利へやったのか?」
「いいえ。〔法楽寺ほうらくじ)〕のお頭のところにはいません」
「もし、〔法楽寺〕の直右衛門(なおえもん 50歳前)が、おまさに手をつけていたら、ただちに火盗改メを足利へむかわすからな」
「ご安心なさって。うちのお頭は、そこまでご不自由はなさってはおりやせん」
「言ったな。で、おまさはどこだ」
(清長 おまさのイメージ)

「訊いてどうなさろうってんです?」
おまさは、うちの奥方の手習い子だ」
「そんな古い話を---都はいかがでごさんした?」
「誤魔化すな」
「誤魔化してなんぞ、おりやせん。その、火盗改メとやらに、〔乙畑おつばた)〕の源八って盗人のことをお訊きになってごらんなせえ」
「〔乙畑〕の源八だな」

_100「へえ。嘘も隠しもいたしやせん。ところで、長谷川の若さま。〔狐火きつねび)〕のお頭はおかわりございやせんか?」
「なぜ、拙に訊く?」
「あれ、〔中畑(なかばたけ)のおりょう)どんは、〔蓑火みのひ)〕のお頭から〔狐火〕のお頭にゆずられたんじゃ、なかったんではやせんかい?」

(この盗賊たち、どこまで通じているのか?)
(歌麿 お竜のイメージ)

【参照】2009年8月1日~[お竜の葬儀] () () (

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2008.06.01

〔名草(なぐさ)〕の嘉平

『鬼平犯科帳』文庫巻4に所載[おみね徳次郎]に登場した時は、すでに70歳近い白髪の老人で、千駄ヶ谷にある仙寿院の総門の前で、わら屋根の百姓家を改造した風雅な茶店の主(あるじ)として登場。
もちろん、その茶店は30年ほど前に、巨盗〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門の盗人宿(ぬすっとやど)として手に入れたものである。]

参照:〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門の項)

店は、新日暮(ひぐらしの)里といわれるほど幽谷に雅趣がうりの仙寿院への参詣人を相手に、嘉平の手づくりの草餅が人気。嘉平とすると、故郷で節句につくる鄙びた餅のつもりでだが、在方から江戸へ出てきて住まっている者たちにとっては、わが家ふうの味がうれしいのであろう。

〔法楽寺〕の一味の本拠は、直右衛門の通り名(呼び名)にしている禅宗の法楽寺のある、下野国(しもつけのくに)足利に置かれている。
女賊おみねの亡父・〔助戸(すけど)〕の万蔵も〔法楽寺〕の一味で、嘉平とは気があって仲良くしていたが、甘いものに眼がなく、その上、酒はあびるほど---というので、明和2年(1765)の初夏、あっけなく卒中で歿した。35歳であった。

6歳のおみねと後家となったお紺(こん 27歳)が残された。もっとも、この顛末は、『鬼平犯科帳』では語られていない。

女好きの直右衛門が、後家のお紺を囲ったばかりか、むすめざかりに育ったおみねまで女として練りあげてしまった経緯も、聖典では簡単に明かされているだけである。

【参照】女賊・おみねの項)
直右衛門は老齢とともに糖尿の持病が重くなり、男としての機能が働かなくなっているのとは逆に、おみねのほうは、母親ゆずりの女躰と、耕された性の深淵と悦楽に、男の肌なしではすまなくなっている。
江戸で、そのおみねを監督している嘉平とすると、痛し痒しの心境。

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年齢・容姿:白髪、としか書かれていないが、長く〔盗人宿〕を預かっているところから70歳近いと判断。

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(足利・法楽寺と在方の名草村)
生国:下野(しもつけ)国足利郡(あしかがこおり)名草(なぐさ)(現・栃木県足利市名草中町(なかちょう))。足利市の中心部から約6km。

探索の発端: 四谷の全勝寺の前で、女密偵・おまさが幼な馴染のおみねと出会い、〔法楽寺〕一味はもちろん、〔網切〕の配下まで看視の目がおよんだ。

結末: 〔法楽寺〕一味は、直右衛門がお盗(つと)めを早める気になって上府してき、〔名草〕の嘉平のところに滞在。浅草の盗人宿にいる配下たちと打ち合わすために集まったところを、逮捕された。

この時、いまは火盗改メの密偵となっている〔相模(さがみ)〕の彦十が、かつての縁で顔をさらしたため、密告(さ)したのはおまさでなく彦十とおもわせえた。

つぶやき: 仙寿院は、オリンピック道路が墓地の下を貫通し、境内も墓域だけに縮小、江戸期に新日暮里と文人・遊客を楽しませた面影は、いまは見る影もない。

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(仙寿院庭中 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

400名からの盗賊たちのWho’s Who(名鑑)を、3年ごしにつくってきたが、〔名草〕の嘉平が洩れていたので、この機会に、ほかの者たちとフォーマット(形式)をそろえてつくってみた。

[盗賊たちのWho’s Who] は、当ブログの最初のページの左枠に掲示されているカテゴリーのリストから、[出身県別]と[50音別]にクリックで検索できる。

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2006.02.27

〔風穴(かざあな)〕の仁助

『鬼平犯科帳』文庫巻9に所載の[浅草・鳥越橋]は、シェイクスピア[マクベス]以来、「悪魔のささやき」ともいわれる妻の不逞の讒言が引きおこす悲劇である。
もっとも、>〔風穴(かざあな)〕の仁助はマクベスに比すぺくもない小者ではあっても、嫉妬の炎に強弱はない。
、お頭〔傘山(かさやま)〕の瀬兵衛(50がらみ)が、仁助の女房おひろと情事をつづけていると吹きこんだのは〔押切(おしきり)〕の定七(35歳)で、ある魂胆があったのこと。
(参照: 〔傘山〕の瀬兵衛の項)
(参照: 女賊おひろの項)
(参照: 〔押切〕の定八の項)

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年齢・容姿:35歳。色白で小柄。ふっくらとしてやさしげ。
生国:「通り名(呼び名)」の〔風穴〕が日光火山群のそれからきているとして、下野(しもつけ)国都賀群(つがこおり)日光村(栃木県日光市)。

探索の発端:〔小房〕の粂八がまかされている船宿〔鶴や〕へ、客として現れた〔白駒(しろこま)〕の幸吉と〔押切〕の定七が、〔傘山〕一味の仕掛けを横からかっさらうために〔風穴〕の仁助を裏切らせたことを話しあったために、粂八に疑われ、尾行(つ)けられ、それぞれの住いが判明し、見張られた。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
(参照: 〔白駒〕の幸吉の項)

結末:おひろは、定七に殺されていた。それしとは知らない仁助は、鳥越橋で見かけた瀬兵衛を刺殺し、捕らえられた。獄門であろう。
〔白駒〕と〔押切〕の逮捕の時は刻々と迫っている。

つぶやき:目に見えている〔白駒〕と〔押切〕の逮捕のことを書かないで、熱い蕎麦と酒で物語を終わらせるのは、芝居の作法であろうか。余韻が大きい。

それはそれとして、おひろという女賊。細っそりとして見えながら、裸になったときの胸乳と腰まわりの量感はみごとで、あの時の狂態がすざましい---池波さん、お得意のヒロインである。

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