〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(8)
本郷通りから中山道が分かれるとば口が、森川宿追分である。
とば口のとっかかりの両側は、先手・鉄砲(つつ)の5番手の組屋敷である。
そこからの5,6軒先の片町に旅籠〔越後屋〕があった。
向いには旗本屋敷が3,4軒並んででいる。
平蔵(へいぞう 33歳)は、火盗改メ・本役の土屋帯刀守直(もりなお 45歳 1000石)の組下の同心・高井半蔵(はんぞう 39歳)に同伴してもらった。
昨秋、ともに壬生藩へ探索に行った仲で、気ごころはしれているし、寺社奉行・戸田因幡守忠寛(ただとを 41歳 宇都宮藩主 7万7000石)の依頼で、平蔵がうごいていることも承知している。
半蔵から、火盗改メと告げられた〔越後屋〕の主(あるじ)・倉造(くらぞう)は、一瞬、身をかためたが、すぐにたちなおり、
「どのようなお調べでございましょう?」
「ここ1年ばかりの宿帳をそろえるように---」
3冊の宿帳調べに、部屋があてられた。
目あては、伊佐兵衛、伊三次、伊佐蔵、伊三郎、猪佐吉。
そして、下野(しもつけ)国河内郡(かわちこおり)戸祭村の住人・九助(きゅうすけ)。
まっさきに、松造(まつぞう 27歳)が伊佐蔵(いさぞう)を見つけた。
越後国蒲原郡暮坪村 山師・伊佐蔵(いさぞう)。
平蔵が手にしている宿帳にも、半蔵がめくっていた帳面にも、伊佐蔵の名があった。
さすがである---半蔵は、すぐには主・倉造を呼ばなかった。
3冊とも調べおわり、昨春と秋おそくの帳面に九助の名が見つかってから、平蔵となにごとか打ちあわせた。
うなずきあい、倉造に声がかかった。
初手に問うたのは半蔵同心であった。
「ご亭主。屋号のの由来は---?」
「は?」
「〔越後屋〕のいわれだよ」
蒲生郡(がもうこおり)の村松藩(3万石 堀家)の城下町の出だが、ひろく、越後からの旅客に泊まってもらうためにつけた屋号だと答えた。
「それにしては、越後からの客は、5人に1人の割りだな」
「冬場の出稼ぎ人は、ここへは泊まりません。じかに桂庵(けいあん 口入れ屋)へ行ってしまいます」
突然、平蔵が命じ口調で、
「秋おそくに泊まった、下野・戸祭(とまつり)村の九助から、預かりものがあろう。出してもらおうか」
はっと、両目をみひらいた倉造に、
「早くしろ」
おっかぶせた。
倉造がはじかれたように帳場の戸袋から布切れに包んだものを差し出した。
「あけよ」
中から、大谷石(おおやいし)の蓮華の花弁があらわれた。
「贓物(ぞうもつ)扱いの罪で、火盗改メが引きたてる」
「お許しください。贓品(ぞうひん)とは、つゆ、存じませんでした」
平蔵が懐から1枚の紙片をだした。
九助が岩切り人の組に決算した旅籠賃の受けとりであった。
「ここに、晩酌銚子1本とあるが、こうではあるまい?」
「はい。頼まれまして、つい---」
「だれかと、いっしょに呑んだのであろう?」
「---はい」
「暮坪村の伊佐蔵だな?」
{---はい」
本郷通りの加賀藩邸の正門をすぎたところの、小体(こてい)な酒亭で盃をかたむけながら高井半蔵同心が、
「どうして、九助からの預かりものをしていると見破られたのですか?」
平蔵は苦笑しながら、箱根で荷運びしている知己から、九助らしい男の振り分けが小さかったとしらせてきたことをあかし、大谷石の釈迦像の一部を持ち運んではいないと推定、かまをかけてみただけだと打ちあけた。
しかし、箱根の雲助にも知己がい、そこまで網をはっていた平蔵に、半蔵同心は内心、舌をまいたが、さあらぬ体(てい)で、
「九助が〔越後屋〕へ戻ってきたところを捕らえ、宇都宮藩へ引きわたしますか?」
「およしになったほうが無難です。いまごろは、九助たちのいるところへ、〔越後屋〕が報らせの使いを出していますよ。この件はお互いに、なかったことに---」
【ちゅうすけ補】寺社奉行で宇都宮藩主・戸田因幡守忠寛(ただとお 41歳)は、4年後に大坂城代に栄転し、それにつれて大谷寺のある河内郡、都賀郡などが、河内国・播磨国のうちの2万5000石の地と替えられた。
城代としての費えを近くでまかなえ、ということであろう。
引き続いて就任した京都所司代を無事につとめあげると、河内郡、都賀郡などは旧に復した。
しかし、洞窟の釈迦像の台座の補修の記録は、この領地替えのどさくさで紛失したらしく、いまでは郷土史にも記されいない。
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