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2008.05.03

〔盗人酒屋〕の忠助(その5)

6日後の夕刻---。

3人が、〔盗人酒場〕にあらわれた。
もちろん、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)である。

先に紺麻地の暖簾を割って銕三郎が顔を見せると、おまさ(10歳)が、すぐ、気づいて、
「いらっしゃいました」
浮き浮きした声で、迎えた。

ちゅうすけ注】「いらっしゃいませ」でなく、「いらっしゃいました」という迎えのあいさつは、東京でも歴史の古い山の手の旅館の老女将が、戦後10年ばかり経った当時も使っていたので、おまさに言わせてみた。おまさの亡母・お美津(みつ)は、忠助と同郷の下総(しもうさ)・佐倉在---酒々井(しゅすい 現・千葉県印旛郡酒々井(しすい)町酒々井)の出身だが、本郷あたりの老舗で仕込まれた女(ひと)ということを暗示したくて。
【参考】 酒々井町Wikipedia

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(下総(しもうさ)国印旛郡酒々井=赤○ 佐倉=黄〇)

いつものとは違ったおまさの張りのある声の感じに、板場にいた亭主・忠助も店のほうをのぞき、3人を認めると出てきて、先日の礼を述べる。
「その場にいた者なら、しなければならないことをしたまでです。ご放念ください」
銕三郎の武家らしくない謙遜した言葉が、忠助をさらに恐縮させた。

おまさ。お(こん 27歳)さんに、先夜のお武家さんたちが見えたと、伝えておいで。いや、なに、おさんが、ぜひにも、お礼を申しあげたいって、ね」
おまさが、いそいそと飛び出す。

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(北斎[川岸の突風]部分 おまさのイメージ)

「亭主どの。いいむすめごですね。母ごはいらっしゃらないようだが?」
「お分かりになりますか? おまさが5歳の時に病死しまして---。以来、あれが嬶(かかぁ)の代わりみたいなもので。あの齢で、繕いものもやってくれるので、ついつい、後添えをもらう気もうせちまって---」
「おいくつです?」
おまさですか? 10歳になります。縫いものを、いま、おさんに習っております」

おみね(6歳)とともにやってきた。
礼とおくやみの応酬がひととおりすんだあと、銕三郎がさりげなく訊く。
「物井(ものい)のお生まれとおみねどのから聞きましたが、下総国印旛郡(いんばこおり 現・四街道(よつかいどう)市物井)の? だったら、左馬さんの臼井に近い---」

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(下総・物井=緑○ 佐倉=黄〇 臼井=赤○ 明治20年刊)

「いいえ。下野(しもつけ)の物井(現・栃木県芳賀郡二宮町物井 現・真岡市物井)でございます」
「ほう。下野にも物井村がありましたか」

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(下野・物井=緑○ 真岡=黄色〇 明治20年刊)
Wikipedia 物井

助戸(すけど)〕の葉三(ようぞう 35歳)が〔盗人酒場〕の店の中で卒中で歿した翌日、銕三郎は、火盗改メ方の次席与力・高遠(たかとう 41歳)から、物井村は、下総と下野の2国にあることを聞いていた。

「助戸」のほかの、「名草(なぐさ)」、「樺崎(かばさき)」、「法楽寺(ほうらくじ)」の地名は、伏せた。
理由は、もうすこし探索してからということもあるが、忠助おまさをかばうためのような気がして、自分でも割り切れていない。
もちろん、それらが足利藩内の村落名であることは、父・平蔵宣雄から教えられている。

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(足利城下の法楽寺とその近辺 明治20年刊の地図)

「おさむらい(侍)のにい(兄)ちゃん。おっかぁ(母)は、ものい(物井)にはかえ(帰)らないよ」
「それでは、おみねどのが母上の頼りになるように、しないといけないね」
「うん」
おまさ が言いなおしをさせる。
おみねちゃん。そうします---でしょ」
おみねどのは---そうちます」
「えらい!」
大声をあげたのは左馬之助であった。
が、半泣きの顔を伏せる。

おまさが手際よく、燗をしたちろりと大盃を配膳する。
「おさん。慈眼寺の住職が、過分のお布施をいただいたと、春慶寺へきて申しておりましたぞ。手前の顔も立ちました」
左馬之助が、恥ずかしそうな口調でだが、めずらしく世慣れた文句を言った。
あの夜、慈眼寺からの暗い夜道を帰りながら、こころが通じるものがあったのかも知れない。
世慣れている権七が、おに盃を持たせ、酌をするよう左馬之助をせかした。

調理場から忠助(ちゅうすけ 45歳前後)が、あわびの酒蒸しをもって出てきた。
「あわびの大洗(だいせん)煮は、明日ってことにしておりますので、明日もおいでください」
まさが、銕三郎に盃を持たせ、酌をする。
忠助が横目でそれをみて、かすかにぎょっしたようだ。
おまさ が客に酌をするのを、初めてみたからである。
平仮名のちゅうすけには、権七がかすかにうなずいたようにも見えたのだが---。

おまさに注がれた大盃だが、この時期の銕三郎はまだ酒に強くないので、そっと飯台にもどす。
「お酒がすすみませんね」
おまさが、心配げに訊く。
「家では、父上がたしなまれないのです」
「お酔いになったら、おまさが介抱してさしあげます」
(どこかでも、そう、いわれたな。そうだ、2年前、箱根の芦ノ湯の湯治宿〔めうが屋〕の離れで、だった。言ったのは、阿記(あき 21歳=当時)だったか、女中頭の都茂(とも 42歳=当時)だったか)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 都茂のイメージ)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記のイメージ)

【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (6) (7)

ちゅうすけ注】 下総国の物井は、関東・物部(もののべ)によるとも、千葉孝胤の三男の物井殿に由来しするともいわれている。
下野(しもつけ)国の物井も、関東・物部によるとの説がある。二宮町の町名は、荒れ田復興を指導した二宮尊徳にちなんだもの。
現・栃木県真岡市物井


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