明和4年(1767)の銕三郎(12)
明け方にかけて、さすがに、うとうとっときたらしい。
「お客さま。洋次(ようじ)とおっしゃる方がお見えでございますよ」
女中の声に起こされた。
「うむ。いま、何刻(なんどき)かな?」
「七ッ半(午前5時)でございます」
「いかん。寝過ごした」
門口には、〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ)のところの、洋次(20歳)が、きのう同様、汗をふきながら待っていた。
平塚から小田原は4里(16km)---よほど、急いで歩いたにちがいない。
「今朝も、早発(だ)ちしたのでしょう。ご苦労さまです。して、何か?」
「親分から、これをお渡しするようにと、ことづかりました」
奉書に包んだ表には、[お見舞い]とだけ書かれていた。
こころづけを渡して洋次を帰してから、中を改めると、3両(いまなら50万円近い)---大金である。
これだけの金をはずんだわけを、推量してみた。
婚家先から実家へ逃げ帰った阿記(あき 21歳=当時)を、前夫・平塚の呉服店〔越中屋〕幸兵衛(こうべえ 25歳=当時)とともに、おどしたことの詫び料にしては、4年も遅れている。
【参照】〔馬入〕の勘兵衛が阿記をおどしにきた件は、2008年1月16日[与詩(よし)を迎えに] (27)
病気見舞いなら、直接、阿記の実家・芦ノ湯の湯治宿〔めうがや〕へとどければいい。
すると、阿記の病気見舞いにことよせた、銕三郎へのこころづけともとれる。
(こうしなければならないような、事件を起こしたのかな。それなら、昨日会ったときに、なにか言うはずだが---)
問屋場へ行くと、箱根道の荷物運び雲助・仙次(せんじ 22歳)が、
「長谷川さま。お久しぶりです。〔風速(かざはや)〕の親方がたいそうお世話になっているそうで、ありがとうございます」
「仙次どの。また、お目にかかれて、喜んでおります。いろいろ教えられているのは、拙のほうです」
「早速ですが、出かけますか?」
「よろしく、お願いします」
そう、応じて、荷をわたしたが、こころなしか、仙次に、目を会わさないようにしている感じに見えて仕方がない。
(仙次という、さっぱりした気性の若者に、奥歯にものがはさまったような仕草は似合わない)
【ちゅうすけ注】ここで、しなくてもいい説明をくわえると、雲助という呼称は、箱根道の荷運び人足にかぎって使う用語である。したがって、悪意のある呼称ではなく、逆に尊称の意味がこめられている。だから、旅人は「雲助どの」とか「雲助どん」とも呼んだと文献にある。
懐中道中図 湯本←小田原)
で、山道に入ってから声をかけてみた。
「仙次どの。〔めうがや〕の阿記どのの容態を、耳にしておられませぬか?」
「いえ。一向に---」
この答え方も、尋常ではない。
しかも、それきり、黙ってしまった。
(昨夜から今朝がたへかけてみた夢では、阿記は、おれを待ってくれたが---)
湯本を過ぎたあたりで、言ってみた。
「仙次どの。最近、〔めうがや〕への湯治客の荷を運びましたか?」
「いえ。とんと---」
(ますます、あやしい)
(江戸時代の旅人用の懐中道中図 箱根関所←湯本)
「途中、〔めうがや〕のご本家の、畑宿(はたしゅく)の畑右衛門どののところへ寄って、ごあいさつをしてゆきたいのですが---」
「さいでやすか」
(とりつく島がない---とは、まさに、このことだ)
【参照】箱根山道の畑宿・茗荷屋畑右衛門は、2008年1月28日[与詩(よし)を迎えに] (35)
不安が高まってきて、おさえきれなくなり、ついに銕三郎は、立ち止まって訊いた。
「仙次どのは、拙に秘め事をお持ちのように思えてなりませぬ。どうか、隠さずに教えてください」
「秘め事など、ありゃあしません」
「いいえ。そうではありますまい。ぜひ、お明かしください」
「長谷川さま。それほど、あっしのことが信じられねえんなら、今日の仕事から下ろさせてくだせえ」
と、荷を銕三郎に渡そうとした。
「いや。拙が悪うござった。荷を自分で運ぶのは苦でもないが、友を失うのは、なによりつらい」
銕三郎がさげた頭をじっとみていた仙次が、意を決したように、
「長谷川さま。頭を、おあげくだせえ。あっしが悪うごぜえやした。でも、これを長谷川さまにお告げするのは、あっしの役目ではねえと固くきめておりやしたもんで---。許しておくんなせえ」
「で、拙に告げることとは---?」
「じつは---」
「じつは---? まさか---」
「はい、そのまさかでごぜえやす」
「阿記が---」
「一昨日、お亡くなりになっちめえました」
「あっ」
【参照】銕三郎と阿記との出会い 2007年12月29日[与詩(よし)を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40)
| 固定リンク
「079銕三郎・平蔵とおんなたち」カテゴリの記事
- 与詩(よし)を迎えに(39)(2008.02.02)
- 本陣・〔中尾〕の若女将お三津(3)(2011.05.08)
- 日信尼の煩悩(2011.01.21)
- 貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(8)(2009.10.26)
- 蓮華院の月輪尼(がちりんに)(6)(2011.08.15)
コメント