与詩(よし)を迎えに(9)
小田原から3里(12キロ)、七曲り八折れしながら登り坂を歩いてきた。早春だというのに、汗がとまらない。
畑宿(はたしゅく)村が近い。
(箱根道・畑宿村付近 左・箱根駅 右・小田原宿から
『東海道分間延絵図』)
銕三郎(てつさぶろう)は、その村の茶店で一休みするつもりで、坂を上っていると、饅頭形の菅笠がころがってきた。
受けとめ.る。紫色の緒がついていた。
坂の上の2人の女性に、雲助が因縁をつけている声が聞こえてきた。
「笠は、こなたの方のものですかな?」
銕三郎が割ってはいって、女性に声をかけた。
若い新造風と大年増が、
「ありがとうございます」
すがりつくような目で、礼をいいう。
銕三郎は事態を察した。小田原から荷を背負ってきた雲助が酒代をせびり、応じなかった侍女の菅笠を、放りなげてすごんだのだ。
「笠を拾ったのもなにかのご縁。どうだろう。ご両所に代わって、拙がお手前の言い分を聞こうではないか。いや。申しおくれた、拙は、府中奉行の朝倉どのの身内で、長谷川宣以(のぶため)といいます」
府中奉行の名前をだしたのが効いたらしい。
「ご武家さまが話を聞いてくださるなら、それでもいい」
「では、あらちで、聞かせていただく」
銕三郎は先に立って、女たちから離れた。
「どういうことかな?」
「小田原での取り決めは、畑宿まで、坂登りできまりの400文、酒手を別に100文だった」
「それで?」
「湯本の茶屋で休んだときに、大年増のほうが、自分の荷もわしへ渡した。それで、別口の400文を請求しただが、湯元からだから半分の200文にしてくれとぬかしやがった」
「それは、お手前の言い分がまっとうだな。あいわかった。これで話がついたことにしてくれないか」
銕三郎が小粒を2個、雲助に握らせると、とたんに態度が軟化した。
「ところで、こちらは名乗った。して、お手前の名は?」
「名なんか、どうでもいいではねえか」
「いや、失礼した。じつは、府中奉行のむすめごを、江戸へ連れに行くところで、そのときの荷物運びに、お手前を指名したいとおもったのでな」
「そういうことなら---権七(ごんしち)と呼んでくだせえ」
「あいわかった。権七どの、帰りの日時は、前もって箱根関所へ通じておくから、よしなに頼みますぞ」
「若いのに、まあ、話の通じるご武家さまだ。おらぁ、たまげたよ」
2人連れの女性の行く先は、芦の湯とのこと。
「じつは、手前も、芦の湯で脚休めをするところです」
「よろしければ、ごいっしょ、お願いできましょうか?」
「権七どの。そういうことだ。荷運びは芦の湯までだが、向こうに着いたら、畑宿村から芦の湯までの荷運び賃は別にはらう」
「がってんでさぁ」
道々、聞いたところによると、若い新造風は阿記(あき)といい、眉は落としていないが、平塚の太物商い〔越中屋〕の内儀で、実家へ里帰りするところだという。実家は芦の湯の旅籠〔めうが屋〕とのこと。侍女はお都茂(とも)と。
「じつは、芦の湯の宿を決めていないです」
「それなら、どうぞ、わたしの実家へお泊りください。先刻のお返しもいたしたいし」
「これは重畳。お言葉に甘えてご厄介になります。ところで、差しつかえなければ、小田原から権七どのに、畑宿村まで、と頼まれたわけは?」
「畑宿の名主・茗荷屋畑右衛門が一族なので、荷物を預かってもらい、あとで実家の者を引き取りに行かせるつもりでした」
阿記のいいわけである。
芦の湯は、畑宿村はずれを右に折れて小1里(約3キロ)。
(上掲図の畑宿村はずれの拡大 道を横切っている左端細尾石橋の
先から右へ折れる小道が芦の湯へ28丁)
(赤○=芦の湯 赤細線=山道 青○=畑宿 緑○=箱根駅
明治19年製版の地図)
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