明和4年(1767)の銕三郎(11)
銕三郎(てつさぶろう)の思惑(おもわく)では、箱根道4里(16km)、箱根関所の手前の村・畑宿から芦ノ湯村までほぼ1里(4km弱)---昼前には湯治宿「めうがや」で臥せっている阿紀(あき 25歳)を見舞える算段であった。
空想は、一気に、阿紀の病床へ飛んでいる。
阿紀は、嫁入り前---芦ノ湯小町ととわれていたむすめ時代に居室にしていた1階の裏庭に面した左側の部屋に寝ていた。
小さな違い棚には、人形やら扇がかざられ、部屋の主がむすめであることを主張している。
ふしぎに、子・於嘉根(かね 3歳)の存在をおもわせるものはなかった。 (左:栄泉『吾妻錦文庫』 芦ノ湯小町のころの阿記のイメージ)
銕三郎は、母親・お満(みつ 48歳)に案内されて入っていく。
初夏だというのに、裏庭側の障子がしめられており、部屋には薬湯のにおいがこもっている。
母親は、気をきかせたのか、茶菓でも運ぶつもりなのか、すぐに出ていった。
「やあ。きたよ」
枕もとに座った。
薄い布団の下から、細くなった腕をだして、銕三郎の手をさがした。
両手で受けとめる。
「病気になってしまって、ごめんなさい」
「すぐ、よくなるよ」
「そうだと、嬉しいんですけど---」
無理につくった笑顔が痛々しい。
銕三郎は、ふところから、お守を4つ出し、1つずつ、阿記の手に載せてやりながら、説明した。
(左から熊野本宮、新宮、亀戸天神、川崎大師)
「これは父上から---というよりも、母上からだな。熊野三山のうちの本宮と新宮の2社のだ。長谷川家のずっとむかしの先祖が、熊野神社を一族の本拠地の駿州・小川(こがわ)湊に勧請したという史実をたどって、父上がまだ家督しない前に、熊野へ参詣したときのものでね」
【参照】[井戸掘り人のレポート]「藤枝宿の探索]中林正隆
2008年7月23日[明和4年(1767)の銕三郎] (7)
「そんな家宝のようなお守りを---」
「母上が、阿記が全快したら、2人でお返しに行けばいいって---」
「2人じゃなく、於嘉根も連れた、3人旅ですね」
「これは、いまの屋敷から近い亀戸天神のだけど、手習いを見てやっている、おまさって子が、銕兄さんの恋人なら、わたしには姉さんだからって、授かってきてくれた」
「おまさちゃん、おいくつですか?」
「11歳」
「与詩(よし)ちゃんの、一つ上のお姉ちゃんですね、於嘉根のお姉ちゃんでもあり---」
「その与詩だけど、もうおしめはいらないから於嘉根ちゃんにっていったんで、荷物になるって断ったら、こんなものをつくって於嘉根にと---」
赤と紺の端布(はぎれ)を縫ったお手玉を渡すと、支えきれなかったのか、ぽとりと落し、ついでに涙も流した。
お手玉を試す力も失せているのが、銕三郎にもわかった。
「於嘉根は、いつ、お手玉ができるようになるんでしょう? 早く、それであそべるようになってほしい---」
「子どもの成長は早いから---もう、すぐだよ。そのためにも、本復してやらないとね」
「はい」
「こちらは、川崎の厄除(やくよけ)身代(みがわ)りのお守。ここへの途中、ちょっと回り道して、祈祷もしてもらってきた。厄をすべて弘法大師が身代りに引き受けてくださるんだ。母上は、こちらの宗旨を気になさっていたが---」
「うちは浄土真宗ですが、かまいません。銕さまの身代りとして肌身につけて養生します」
「於嘉根も、銕お父(とう)さまから手習いが習えるといいのですが---」
ぼつんと言ったきり言葉をとぎらせ、目を閉じている阿記の顔には、生気がなかった。
小鼻の肉もおちて、障子ごしに入ってきている向こう側の光が透けてみえるほどだ。
母親が茶と茶うけを運んできた。
「母(かあ)さん。2人きりにして。だれも入れないで---」
母親が出ていくと、
「銕さま。お嫌でなかったら、しばらく、いっしょに寝てくださいませんか。お召しものをおとりになって---」
銕三郎が横に添い寝した。
上をむいたままである。
阿記の躰は熱っぽかった。
阿記の指が、銕三郎のものにさわった。
やさしく、つまんでいる。
別の手の指が、銕三郎の指を自分のに導いた。
薬指の腹をあてて、じっとうごかさないように---。
芝生が掌(たなごころ)をここちよくふれるために、
つい、指がうごく。
4年前、鴫立沢(しぎたつさわ)の宿で、交わした会話をおもいだした。
「与詩さまと湯へ入りましたら、しげしげと下の茂みをごらんになって、『たけ(竹 府中城内での乳母)のよりこ(濃)いね』ですって」
「そうか」
「ご覧になりますか?」
「いや。そういう趣味はない」
【参照】2008年1月30日[与詩(よしを迎えに] (36)
(いまは、見て、芝生の艶をたしかめたい)
「4年ぶりね」
「そうだね」
「お変わりなく?」
「忘れた日はなかった」
「ほかのおんなの人の中に入っても?」
「入ってないもの」
(お静が、ちらっと、浮かんで消えたが、これだけはほんとうのことを言うわけには、いかない)
【参照】2008年6月2日~ [お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)
「信じましょう。いまは、こうして、わたしの手の中なんだから」
「阿記は、どうして再婚しなかったのかな?」
「意地の悪い問いかけ---だって、どの男の人も、銕さまより以下にしかおもえなくなったんですもの。そうしてしまったのは、あなたよ」
「ごめん」
「あやまることはありませんけど」
とつぜん、阿記が、和歌を口すさんだ。
さくらさへ ちりぬる後(のち)の春深み しげき青葉の梅の木のさと
梅を、於嘉根を産むにかけていることは、わかった。
返えし歌がすぐに出ない、自分がくやしかった。
鴫立沢(しぎたつさわ)でも、すらすらと、
心なき 身にもあわれはしられけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕ぐれ
と詠んだ。
【参照】2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)
江戸へ戻ってから、
さくら山 花咲き匂ふかいありて 旅行く人も立ちとまるなり
これを返して、喜ばすべきだったと、後知恵がくやしかった。
右手を阿記の乳房に置くと、ふくらみがきえかかっていた。
はっとして、阿記の顔を覗き見たときに、正気づいた。
うつらうつらしながら、夢をみていたのだった。
しかし、どうして於嘉根が出てこなかったのだろう。
会ったことがないために、イメージを結ばないのか。
父親としての覚悟がまだ薄いのか。
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