与詩(よし)を迎えに(14)
「阿記(あき)どの---」
「銕(てつ)さま。2人だけのときは、阿記と呼んでください。わたしも他人行儀の長谷川さまではなく、銕さまにしますから」
「阿記」
「はい」
「箱根宿での待ち合わせだが、芦の湯小町といわれた阿記のことゆえ、箱根六湯じゅうに顔が知られていよう」
「嫁入り前のことです」
「いや、懸想(けそう)していた者も多かったであろう。箱根じゅう、どこの旅籠にひそんでも、たちまち、うわさが流れる。噂は、阿記に一生ついてまわって、阿記を傷つけ、苦しめる。都茂(とも 女中頭 44歳)の口もふさぐ思案もしておかねばな。それに権七(ごんしち 31歳)にさとられてもならぬ。あの者どもは噂を飯の種にしている」
「どのようにすれば---?」
「うーむ」
「銕さま。湯で、躰を暖めながら、思案しませぬか」
湯の中の阿記は、こんどは正面から銕三郎の太腿(ふともも)をまたいできた。腹と腹はぴったり接している。
両腕をしっかりと背中へまわし、顔がまともに向き合った。
乳頭が銕三郎の胸をくすぐる。
「箱根六湯は危ないとなると、小田原宿か三島宿だが、三島だと、阿記に関所手形も要(い)るし、往還8里の箱根山道を登り下りさせることになる」
「それは、かまいませぬ。いいことが待っているのですもの。手形など、この商売ですから、なんとでもなります。」
「三島宿だと、翌くる日、箱根関所まではあと先になりながらいっしょだが、小田原では4里(16キロ)の道を帰すことになる」
「足が重い帰り道でしょうね」
話のあいだにも、阿記がたえまなく口を吸ってくる。
(北斎『させもが露』[睦言]部分)
銕三郎の股間が膨張をはじめた。
「都茂の口封じには、男をあてがえばいいのです」
「それには、供の藤六(とうろく 45歳)がいるが---。2人とも部屋を空けて、6歳の与詩をひとりきりでほおっておくわけには---なあ」
「いっそ、ここでは? お供の人の部屋へ、都茂をしのばせましょう」
「与詩は?」
「母に見ていてもらいます」
「ご両親はご存じなのか? このことを---」
「喜んでおります。東慶寺へ入る前に訪れた阿記の福(ふく)なんですもの」
このあと2人は、案を練るとの口実で、2度も湯に躰を浸(ひた)した。
しかし、箱根の山内だと、山道一帯を荷運びの縄張りにしている〔風早(かざはや)〕の権六の目をごまかして、逢引きできる良案はおもいつかなかった。
権六の通り名(呼び名ともいう)の〔風早(かざはや)〕は、小田原から山道へのとば口、須雲川に架かる箱根石橋の川下の村名である。そこの生まれなのだろう。
したがって、権七が箱根じゅうにはりめぐらしている連絡(つなぎ)の網目をくぐっての逢引きなど、できそうもない。
ましてや、6歳の与詩づれである。
最後の湯浴(ゆあ)みのあと、横たわった阿記がこころをきめたように呟いた。
(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分)
「三島にしましょう。わたしは、銕さまたちのお着きより1日早くに三島へ入ってお待ちしています。箱根関所までの帰りも、ごいっしょできないのが無念ですが、帰りも1日遅らせます。そのようにこころ配りをすれば、いかな権六でも、気がつきますまい」
「与詩はどうする?」
「お芙沙(ふさ)さんにお願いして、〔樋口〕さんに預かってもらうのは? おんな同士の話し合いです。お芙沙さんものってくださるでしょう。与詩さんをお乗せした山駕籠も、〔樋口〕から出ると、なんの疑いもかかりません」
「うむ」
「明日、ご出立までに、父から、三島のわたしたちの泊まる、これという旅籠を訊きだしておきます」
こういう秘め事になると、こころを決めた女性のほうが、案も浮かぶし、肝(きも)もすわる。
「さあ、そろそろ、眠ろうか」
「はい」
阿記は床から抜け出し、赤い襦袢の前をあわせて正座した。
(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分)
「銕さま。大きな福をいただき、ありがとうございました。うれしゅうございます。こんなに嬉しかったことは、近年、ございませんでした。阿記には、一生忘れられない深い思い出でとなります」
ふかぶかとさげた顔から、涙が落ちた。
目尻をぬぐった阿記は、静かに添い寝したかとおもうと、銕三郎の首の下へ腕をさしいれて抱きついた。
涙がとまらない。
背中をさすってやりながら、
「どうしたのだ、阿記?」
「自分で初めて選んだ男(ひと)に抱かれたので、頭の髪の一筋々々から足の指一本々々まで、躰のぜんぶが喜んで泣いているのです。嬉し涙です。お許しください」
銕三郎の上に覆いかぶさる。
離れ屋の裏を流れている谷川のせせらぎの音が、銕三郎の耳から消えた。
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コメント
はじめまして。毎回大変楽しく読んでおります。
日本史、江戸時代が好きですが、学生時代もこのように生きた日々を想像しながらまなべたら真剣に勉強できたような気がします
投稿: のりこ | 2008.01.03 21:28
>のりこ さん
コメント、ありがとうございました。
長谷川平蔵関連の史実に沿いながら、幕臣の習慣などと照らし合わせ、話しをすすめていますが、当時の女性のこころを推察するのは、なかなかに困難で、しかも、青春期の平蔵が、どんなふうに性格形成をしていったか、また、お読みになる方がいやらしい感じをおもちにならないで、銕三郎=平蔵に共感していただけているか---なやみは、さまざまです。
どうか、今後とも、なにかと、ご批判くださいますよう。
投稿: ちゅうすけ | 2008.01.04 05:38