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2008年4月の記事

2008.04.30

〔盗人酒屋〕の忠助(その2)

「あっ、〔助戸(すけど)〕の---)
板場から忠助(ちゅうすけ)が、倒れた男にすばやく駆け寄り、おまさに命じた。
「お(こん)さんに、報らせに行け!」
おまさが飛び出して行く。

参照】 〔鶴(たずがね)〕の忠助

三和土(たたき)に、仰向けに倒れている、〔助戸〕のと呼ばれた太めの男は、かすかにいびきをかいているが身動きもしない。
頭の近くに、落ちて割れた深盃が散っている。

「ご亭主。動かしてはいけねえ。卒中のようだ」
風速(かざはや}の権七(ごんしち)が、抱きおこそうとした忠助をたしなめ、まげたままの右足を、そっとのばしてやった。
「箱根の荷運び雲助で、このように呑み屋で倒れたのを何人も見ておりやす。そっとしておいて、医者を待ちやしょう」
権七に、忠助がうなずいた。

「ご亭主。近まに本道(ほんどう 内科)の医者は?」
岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)が訊く。
「すぐそこの、柳原6丁目の田中稲荷の西隣に、了庵先生がおられます」
「あい分かった。連れてくる」
左馬之助も店を出た。

「ご亭主どの。この〔助戸〕どのの家は、ここから---?」
「前の道を竪川(たてかわ)沿いに3丁ばかり東へ行って、旅所(たびしょ)橋をわたった左手、清水町の裏長屋で---」
「むすめごは、おまさどのと言いましたな。迎えに行ってこよう」

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(田中稲荷西隣の了庵医師 旅所橋、清水町 尾張屋板)

銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が2丁も行かないうちに、向こうから提灯も持たないで駆けてくるおまさと、新造風と5,6歳の女の子に出会った。
おまさどの」
「あ、お客さん。おおばさんと、おみねちゃんです」

参照】 [女賊おみね]

「急いで。いま、左馬了庵先生を迎えに行っております」
銕三郎は、息をきらしているおまさの手を引っぱるようにして、〔盗人酒屋〕へとって返す。

〔盗人酒屋〕の行灯の下で見ると、細面のおは27,8歳らしかった。
こころを乱してはいるが、場所柄はきちんと心得ている。
母親に手をにぎられているおみねは、勝気そうな表情で父親を見下ろしている。

医師の了庵が、左馬之助に導かれて入ってきた。

おまさ が、〔助戸〕の顔のまわりに散っていた深盃の破片をつまんで板場へ持ち去り、代わりに新しい行灯に灯(ひ)をいれ、〔助戸〕の顔の近くに置く。
(齢端(としは)もいかないのに、よく、気のまわる子だな)
銕三郎は、さっき、握って走った掌(てのひら)にのこっている、おまさの小さな指の感触を思い出しながら、
(こんな時に、不謹慎な---)
と自戒する。

みんなが見守るなか、了庵は〔助戸〕の鼻に掌をかざし、さらに左首の脈をたしかめ、首をふった。
「お前さんッ!」
が悲鳴のような声をあげた。
しかし、泣かない。
くいしばって悲しみに耐えている。
みねは、母親にしがみついて、亡骸(むくろ)となった父親から目をはなさない。
忠助を見習い、銕三郎なども仏になったばかりの遺体に合掌する。

「おさん。突然、気の毒なことになった。まあ、うちで仏になったのがせめてもの慰めだ。〔法楽寺(ほうらくじ)〕のほうへは、〔名草(なぐさ)〕のから報らせてもらおう」

参照】 〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門

さらに、おまさに、
「深川・扇町の繁三どんのところは知っているな。夜道ですまないが、このことを告げ、手配を頼むと、わしが言っていたと伝えてきてくれ」
おまさは、殊勝にも、こっくりうなずいた。

「亭主どの。夜道には堀川もあって危ない。拙がつき添っていこう」
銕三郎が申し出た。
「初めて来ていただいたお武家さまに、そのようなご迷惑ごとは---」
「かまわぬ。このあたりの地勢には通じておる」
「では、お言葉に甘えさせて貰います。行っておいで、おまさ

っつぁん、ちょっと待ってくれ」
左馬之助が声をあげ、忠助に、
「ご亭主。いま、法楽寺とか耳にしたが、仏の菩提寺かな?」
「いえ。仏は、下野(しもつけ)国足利郡(あしかがこおり)の助戸村の出です。その隣村が法楽寺と聞いております。そうだったな、おさん?」
が意志のない人形のようにぎこちなくうなずいた。

「客商売のここへ、仏をこのまま置いておくわけにはいくまい。内儀。荼毘(だび)に付すまで、内儀のところへ移すか、それとも寺へ預けるか?」
「さすがに、寺へ寄宿している左馬さんらしい気の利(き)きようです」
「うちには無理です。しかし、お寺さんといわれても、ご府内には知り合いはございませんし---」
が眉を寄せた。

「ご亭主は---?」
「生憎と、この近所には、お寺さんがなくて---」

「それでは、どうであろう。手前が寄宿している寺は日蓮宗だが、そのつながりで、深川・猿江のご公儀の材木蔵の先の慈眼寺の住持を存じておる。よろしければ、扇町への道すがらなので、これから、内儀も、っつぁんといっしょに、そちらへ参ろうではないか」

ちゅうきゅう注】慈眼寺は、明治45年(1912)に谷中・妙伝寺と合併して、豊島区西巣鴨4の8へ移転。寺号は未詳。

参照】 [〔盗人酒屋〕の忠助] (1) (3) (4)  (5) (6) (7)

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2008.04.29

〔盗人酒屋〕の忠助

本所・四ッ目の〔盗人酒屋〕を探ってみよ---と、火盗改メのお頭(かしら)・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石余)からじきじきに言われた銕三郎(てつさぶろう 20歳)は、その諸掛かり費として3両わたされた。

いうまでもないが、太郎兵衛正直は、長谷川一門の本家・当主であり、銕三郎には大伯父にあたる。
正直は、銕三郎が身につけている捜査への目のつけどころと、なみなみでない熱意をみとめて、職制外の要員に登用したのである。

参照】長谷川太郎兵衛正直 [〔荒神〕の助太郎] (10)
[明和2年の銕三郎] (1)
[十如是](3) (4)

3両は、いま(物価暴騰寸前の2008年4月下旬)の価値に換算すると、30万円前後とおもっていい。
もっとも、流行作家になって以後の池波さんの換算率は、これよりもかなり甘い。

篇名(巻数-順)    初出年   1両換算
[1―5 老盗の夢]   1968    4~5万円
[3―3 艶婦の毒]   1969    6万円
[9―2 鯉肝のお里]  1972    7~10万円
[19―1 霧の朝]     1978    10万円
江戸切絵図散歩]   1987    20万円

このところの学会は、池波さんの直感よりもうんとしわく、1両を10万円前後にみているので、今回の換算はそれにしたがっておいた。最近の物価上昇で、いずれ、訂正せずばなるまいが。

銕三郎は、3両のうちの2両を〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)の掌(てのひら)へのせて、
「あまったら、お須賀(すが)どのと、芝居へでも行くたしにしてください」
「こんなにいただいちまっちゃあ、申しわけありやせん。せめてこれで、於嘉根(かね 2歳)さまへ髪かざりでも---」
返そうとする1両を、さえぎって、
「そちらは、母上がこころがけてくださっているから---」

〔盗人酒屋〕と親しくなる手はずを、あれこれ案じてみた銕三郎は、権七にひと役買ってもらうのがもっとも自然にいけるとの結論に達したのである。

が、権七の住まい兼呑み屋である〔須賀〕から、四ッ目の〔盗人酒屋〕へは、20丁(2kmほど)はある。
ちょっと気に入ったから立ち寄ってみた---という口実は使えない。

それで、腹をこわして寝ている銕三郎から、押上の春慶寺へ寄宿している岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)への届けものをした帰り道に、行灯看板が目にとまったので入ってみて、気にいったという筋書きにした。

参照】[岸井左馬之助] (1) (2)[岸井左馬之助とふさ]

もちろん、その口実は、〔盗人酒屋〕の主(あるじ)のほうから訊いてくるまで、言いだすものではない。

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(北本所の図 尾張屋板)

最初の夕刻は、2合の酒と、あわびの大洗(だいせん)煮をとり、小半刻(こはんとき)で引きあげた。
2日おいて、また、酒2合と、あわびの大洗煮を注文したら、10歳ほどの、目のぱっちりした小女から、
「きょうは、大洗煮はありません」
と言われた。
「それゃあ残念。おすすめは---?」
「おすすめというのではなく、あるのは、あわびのわたの煮込みと、胡瓜もみだけです」
「わたの煮込みでいこう。ここのむすめさんかい?」
まさです。板場にいるのが、お父(と)っつぁんです」

参照】 [女密偵おまさ]
 [おまさの年譜]
[おまさが事件の発端]
 [テレビ化で生まれたおまさ]

忠助と名のった40がらみの主(あるじ)は、5尺8寸(1m75cm)はありそうな、鶴をおもわせる長身の男であった。

参照】  [〔鶴(たずがね)〕の忠助] 

「わたの煮込みに、味醂がほどよく効いている」
権七のお世辞にも、ちらっとうなずいただけであった。

3日おいて、こんどは、店に入る前に麻地暖簾を割って、
おまささん。きょうは、あわびの大洗煮はあるかな?」
先に声をかけてみた。
おまさが首を横にふったので、
「あすは?」
忠助がうなずいた。
「では、あす」
そのまま、帰った。

翌日、権七は、銕三郎左馬之助を伴ってあらわれた。2人とも浪人風に着流しである。

「あわびの大洗煮を、ぜひ、この2人に味あわせたくてね」
忠助がはじめて笑顔を見せた。
出されたあわびを箸でつまんだ銕三郎が訊いた。
「どこのあわびですか?」
「浦安の浜です」
「浦安にも海女が?」
「はい。お武家さまは、どこで海女をご覧になりましたか?」
「東海道の倉沢でした」

参照】2008年1月12日[与詩を迎えに] (23)

「ああ。あのあたりは海女が名物です」
「ご存じで?」
「はい。若いころに、上り下りしたもので」

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(北斎「倉沢の海女」)

権七左馬之助は、話にくわわらないで、もっぱら、呑み、かつ、食べている。
おまさが、父親と銕三郎の会話を、目をかがやかせて聞いている。

----と、瀬戸物が割れる音ととともに、人が転び、大きな砂袋が落ちたような鈍く腹にこたえる音がした。

参照】 [〔盗人酒場〕の忠助] (2) (3) (4) (5) (6) (7)


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2008.04.28

ちゅうすけのひとり言(11)

長谷川平蔵宣以---いわゆる鬼平---の20歳のころ、といえば、明和2年(1765)だが。
そのころ、盗賊たちはどうしていたかを見るために、まず、〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへえ)と〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ)を登場させてみた。

基準としたのは、火盗改メの任に就いていた時の、平蔵の年譜である。

天明6年(1786)
     7月26日 (41歳)先手弓組頭
 〃7年(1787)
     9月19日 (42歳)火付盗賊改メ(助役)
 〃8年(1788)
     4月28日 (43歳)火付盗賊改メ(助役)免
 〃  10月 2日     再び火付盗賊改メ(本役)
 〃  12月23日     長男:辰蔵、お目見
寛政2年(1790)
    10月16日 (45歳)捕盗そのまま勤むべし
 〃  11月14日  人足寄場発議の件で時服2領、黄金3枚賜る
 〃3年(1791)
    10月21日 (46歳)捕盗、明10月まで勤めよ
 〃4年(1792)
     6月 4日 (47歳)人足寄場免。
             捕盗はそのまま。黄金5枚。
 〃  10月19日  捕盗加役、明3月まで勤めよ。
 〃5年(1793)
    10月12日 (48歳)捕盗、明10月まで勤めよ。
 〃6年(1794)
    10月13日…(49歳)火賊捕盗命ぜらる。
 〃  10月29日……時服3領を賜る。
 〃7年(1795)
     4月   (50歳)病に倒れる。
     5月 6日 家斉、側衆加納遠江守を経て高貴薬・瓊玉膏を賜
            う。
           辰蔵が受領に加納屋敷へ。
          実母死。
     5月 8日 辰蔵、父のお蔭もて両番となる。
     5月10日 薨じたが喪を秘す。海雲院殿光遠日耀居士。
     5月14日 同役彦坂九兵衛岩本石見守を名代として
         お役御免を願う。
     5月16日 勤続を賞して黄金3枚と時服1領を賜る。
     5月19日 喪を発する。

ご覧のように、42歳の秋から翌春までが助役(すけやく)。この時の本役は堀帯刀秀隆(ひでたか)。
平蔵は、43歳の初冬から50歳の5月まで、あしかけ8年間、本役。
当ブログのいまは、20歳の銕三郎(てつさぶろう)時代だから、小説の時代背景から22年から30年差し引いた時代になる。

さて、『鬼平犯科帳』を読んでいて〔舟形〕の宗平について、いくつかの疑問点が出てきた。

【参照】 〔舟形(ふながた)〕の宗平

鬼平ファンなら、宗平は、文庫巻4[(かたき)]p257 新装版p269で、目黒村で〔初鹿野〕の音松の盗人宿の番人をしていたところへ、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が訪ねていって面談したところが初登場であることは百もご存じ。

五郎蔵は、なつかしさで胸がいっぱいになった。舟形の宗平は、むかし、五郎蔵と同じ蓑火一味で、若いころの五郎蔵は何かにつけて、宗平の厄介になったものである。
いまの宗平は、たしか、七十をこえているはずだ。 新装版p270

五郎蔵は50をこえている。
]は、平蔵が火盗改メの本役について丸1年経つか経たないかという寛政元年(1789)の晩夏から晩秋へかけての事件である。天明9年が改元されて寛政になった。
疑問は、そういう細事ではない。
盗人宿の番人が、首領に断りなく密偵になっていいものか---という宗平側のことでもない。

宗平が突然に任務を放棄し、姿を消してしまったことを、首領および配下が、見逃してしまっていいものかということである。
盗人宿の地下室には、支度金も隠してあるかもしれない。それも消えていたら、音松はともかく、現役の右腕、左腕が黙っていたのだろうか。
草の根をわけても捜しだすのではなかろうか。

文庫巻7[泥鰌の和助始末]は、寛政4年(1792)の事件なのに、「六十をこえた」p193 新装版 と、10歳も若返っているのは、ほころびとして気にとめない

疑問は、もう一つある。
文庫巻9[雨引の文五郎]p21 新装版 p22 に、

舟形の宗平は、かつて初鹿野(はじかの)の音松の〔軍師〕などといわれたこともある老盗賊であったが---

この1行を拡大解釈して、ぼくは〔初鹿野〕の音松と宗平の20数年前を推定した。

【ちゅうすけ注】2008年3月31日~[〔初鹿野〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
2008年4月16日~[十如是] (1) (2) (3) (4)
2008年4月20日~[〔笹や〕のお熊〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
2008年4月26日~[(耳より)の紋次] (1) (2)

ところが、文庫巻12[見張りの見張り]に、こんなふうに書かれている。

むかし、二人(宗平と五郎蔵)は大盗賊・蓑火の喜之助のもとで、みっちりと本格の盗みばたらきを修行し、宗平は五郎蔵の面倒(めんどう)をよく見てやったからだ。
のちに、五郎蔵はひとかどの〔お頭(かしら)〕となり、宗平は老(お)い果(は)てて、盗賊・初鹿野(はじかの)の音松の盗人宿(ぬすっとやど)の番人となった。p114 新装版p120

軍師〕と盗人宿の番人とでは、まるで格がちがう。
70をすぎても、記憶力もしっかりしている〔舟形〕の宗平に、ぼくは〔軍師〕の残影を見た。
それで、〔軍者(ぐんしゃ)〕時代の宗平を報告した。
軍者とは、江戸時代の軍師の別称である。

ついでに記しておくと、[見張りの見張り]は寛政7年(1795)春の事件で、史実の平蔵は、このころから体調がすぐれなくなり、この年の5月10日に歿したのは、上の年譜のとおりである。
その最後の4日前の姿は、

2006年6月25日[寛政7年5月6日の長谷川家]

に記した。まもなく、新暦の5月6日がやってくる。ぜひ、偲んでいただきたい。

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2008.04.27

〔耳より〕の紋次(その2)

(てつ)や。この[読みうり]の、盗(と)られた金高が40両というのは、どういうことだ?」
一番町の本家の大伯父---というより、この場合は、火盗改メ方のお頭(かしら)・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石余)というほうが適切であろう、そのお頭が、笑いながら訊いた。
そばに控えている次席与力・高遠(たかとう)弥大夫(やたゆう 41歳)も笑いをこらえている。

きのう、銕三郎が両国・広小路の橋番小屋で、〔耳より〕の紋次に話したことが、もう[読みうり]に刷られて売られていたのである。
先手・弓の7番手の、用向きででかけていた小者が、九段坂上で1枚せしめてきて、当番与力に届けた。
小者は、袖口に火盗改メの長谷川家を示す文様を染めた法被(はっぴ)を着ているから、[読みうり]売り人は、心得ていて、代金をとらない。

記事の見出しは、
「竪川(たてかわ)北道は、盗賊どもがまた来た道に。
料亭の美人女中たちの悲鳴に、ついうっとりして---

先月晦日(みそか)深夜に緑2丁目の高級料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕をおそい、集金してきたばかりの400両近い大金をごっそり奪った灰色強盗の一味は、女将・おさんをはじめ、美人の女中ばかりがそろっていたのに味をしめたらしく、昨日の夜、またも襲った。
集金日ではなかったから、獲物は40両たらずだったが、胸や腰にさらわられることに慣れてはいる美人女中たちだが、相手は盗賊でいつもと違って手荒だから、おもいっきりあげた阿鼻叫喚の悲鳴。それをたっぷり愉しみながら縛りあげ、さるぐつわをかけているうちに、首領(しゅりょう)とおぼしい〔舟形(ふながた)〕という名の小男が、不覚にも常づかいの紅花(べにはな)染めの手ぬぐいを使ってしまった。
舟形は、羽前の高峰・舟形山の水を集めて流れる最上川(もがみかわ)に沿った小村落で、ほとんどの家は上方へ送る紅花を栽培して暮らしているから、この盗賊たちもこのあたりの産の一味とおもわれる。山家育ちの男どものこと、江戸の水でみがきたてられた美人女中たちの素肌が触られなかったのがせめてもの幸い。
手がかりはこの紅花染めの手ぬぐいだけだが、盗賊たちの出生地が割れたからには、火盗改メによる逮捕も近いとおもわれる。(紋次記)
  弁天の 五丁ひがしに 金(かね)ヶ渕  
                   抜佐久(ぬけさく)

記事のほうは解説を要しないほど簡潔に記されている。
川柳もどきの弁天は、一ッ目之橋の南詰にあった、弁天前・八郎兵衛屋舗の5軒の、金猫銀猫といわれていたた私娼屋を指している。

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(本所・一ッ目の弁天 『風俗画報』明治41年10月20日刊)

世をしのぶ商売なので、猫(私娼)を呼ぶのにも手をたたくのをはばかって禁じており、畳を拳(こぶし)でとんとんと叩いたという。
 弁天の 客は拳に 畳だこ
 金の猫 一時(とき)1分 目が変わり
揚げ代は一ト切りが一分(4分の1両)であった。

7丁ひがし」には、〔古都舞喜(ことぶき)郎〕があった。

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(赤○=一ッ目弁天社 緑○=古都舞喜楼 近江屋板)

「金ヶ渕」とは、〔古都舞喜楼〕の飲食代などが、金猫銀猫より料金が高かったことを皮肉ったつもりらしい。
ほんものの鐘ヶ渕(かねがふち)は、『剣客商売』の秋山小兵衛とおはるの棲家のあったところだが、一ッ目弁天から北へほぼ30丁(約3km)。

「お頭に、申しあげます」
銕三郎がまじめな声で言うと、
「悪ふざけもほどほどにせい」
太郎兵衛がたしなめたので、遠山与力は、たまらずふきだしてしまった。

「きのう、その「読みうり」の紋次(もんじ 22歳)という男にあいました。[読みうり]屋というので、2つばかり餌針を仕掛けておきました」
「それが、40両と紅花染めの手ぬぐいだな?」
「さようです。40両じゃあないって申してでるものはいないでしょうが、呑み屋あたりでじつは120両だったという者があらわれれば、たぐれます。また、紅花染めは、〔舟形(ふながた)〕の宗平が、そんなはずはないのだがと疑心暗鬼にやなるかとおもいまして---」
「そう、うまく、素人の仕掛けた餌針に食いつくかな?」
「もともと、です」
銕三郎はけろりとしたものだ。

(今回は、食いついてこなくてもいい。紋次のお手なみが知れただけでいいのだ)

ちゅうすけ注】長谷川平蔵宣以(のぶため)---すなわち、鬼平だが---史実の平蔵宣以を調べてみると、いくつかの特徴的な資質というか、幕府の番方(ばんかた 武官系)とはおもえない異才が目立つ。
その一つは、コスト意識である。これと経済意識については、稿をあらためて詳しく述べる。
もう一つが、いま風の用語でいうとパブリシティ---当時の言葉ではお披露目(ひろめ)であろうか。要するに、宣伝上手であったこと。

たとえば、「おれは拷問なんかしない。拷問しなくても、すらすらと白状してくれる」と高言したと、史料にある。
訊問上手であるが、それは父・宣雄から教わったと言っているのだが、ぼくが感心しているのは、そのことを盗賊世界にひろめた手腕のほうである。
どういうルートを使ったのか、一つや二つではないとおもうが、この「拷問」をしないということがひろまった結果、「おなじに捕まるなら、下手に町奉行所などで拷問されるよりも、拷問をしないといっている長谷川平蔵さまのところへ自首したほうがいい」といって、多くの小盗賊が自身から名乗りでたということが記録されている。

これは、コスト意識にもつながることで、捜査コストの低減をもたらすのだが、このことは改めてと---さっき書いたばかりである。

お披露目ルートの一つが、〔耳より〕の紋次であったろう、と考察しているのだが---。

話を戻して---。

太郎兵衛正直が指示した。
よ。本所の四ッ目に〔盗人(ぬすっと)酒屋〕などという看板をだしておる不埒(ふらち)な店があるそうな。探ってみてくれないか。少ないが、軍資金だ」
紙包には3両はいっていた。

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2008.04.26

〔耳より〕の紋次

「あっしは、紋次(もんじ 22歳)って者(もん)です。ちょっと、お話を聞かせていただきたくて---」
声をかけてきた鋭い目つきの、若い男が言った。

紋次どのとやら、先刻からずっと、拙たちの後をつけていたね?」
にやりと笑った銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が、一歩、切りこむ。
「露見(ばれ)ておりやしたか。そいつはどうも。決して怪しい者(もん)ではございません」
紋次も、けろっとして、
「[読みうり]のネタ探しを身すぎにしておりやすんで、世間では、〔耳より〕の紋次と呼んでくれておりやす」

「その〔耳より〕の紋次どのが、何用で---?」
「ここではなんですから、そこの橋番所までご足労いただけやせんでしょうか?」
「ほかに聞かれたら困ることかな?」
「お武家さま。ほら、もう、このように、この茶店のお客衆が聞き耳をたてておられます」
「拙たちは、一向にかまわぬが---」
「お(ふく)さんがおかまいになるんでは---?」

は、緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕の女将(おかみ)で、2度も盗賊に襲われている。
(やはり、そうか。緑町から尾行していたが、昨夜の盗賊のことであったか)

「この〔読みうり〕を刷ったのも、紋次どのの一味か?」
「一味---だなんて、人聞きの悪い。版元とか、刷り師とか、ネタ集め人とか、売り手とか、それぞれ分かれてやってますんで---」
「それは、悪かった。紋次どのは、ネタ集め人か?」
「へい。さ、お話は、橋番所で---」

(ここで、紋次をむげにあしらっては、何を書かれるかわかったものではない。それに、ここで逆らって、客たちに顔を覚えられるのも不都合だ)
銕三郎は、不満顔の〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)をうながして、先に立った。

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(緑○=両国橋・橋番所 池波さん愛用の近江屋板切絵図)

両国橋の橋番所は、広小路側---橋の西詰にある。

「さて。何が訊きたい? 〔耳より〕の---」
「お武家さんは、火盗改メ方のお役人さまで---?」
「違う」
「でも、〔古都舞喜楼〕では、火盗の与力と親しげに話していやしたではないですか?」
「覗いていたのか?」
「いえ。声だけで---。耳がいいんで〔耳より〕の紋次なんでさあ」
「それで?」
「盗人は、やっぱり、〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ)一味でしたか?」
「違う」
「それじゃあ。なんていう盗賊なんで?」
「火盗改メが、それを取り調べておる」

「二度もおんなじ盗賊が---」
「待った。同じ盗賊と、誰が決めた?」
「違いますんで?」
「取り調べておる---と言ったはずだ」
「盗まれた金高は?」
「それも、いま、取り調べておる」
「120両じゃあ、ねえんですかい?」
「それは女将の言い分だ。盗まれた側は、多めに言いがちなものなのだ」

紋次の、いかにも抜け目のなさそうな顔つきを見ているうちに、銕三郎は、ガセ・ネタの効用をおもいついた。
事実をすこし曲げて[読みうり]に書かせた場合、盗賊たちがどう反応するかを見てみるのも一興だろうと。

「まあ、拙の感じでは、3分の1の、40両そこそこではないのかな」

(これが[読みうり]でばらまかれると、盗賊だけでなく、お、〔加納屋〕善兵衛、〔舟形(ふながた)〕の宗平がどうでてくるだろう?)

「盗賊だがな、だいたいの推量はついておる。一味の首領格は、羽前生まれの男だ」
「どうして、そうと分かりましたんで---」
「これは、火盗改メの秘密だから、だれが話したかは、書かれると困るのだが、その首領格が、うっかり、紅花染めの手ぬぐい落としていったのを、火盗改メ方がひろった」

(これで、このことを火盗改メの大林同心に告げたおの身の安全が保てるし、〔舟形〕の宗平を疑心暗鬼にさせられる)

「盗(と)られたなあ、金だけでやすか?」
「ほかに、なにがある?」
「女の躰とか---」
「馬鹿ッ! そうおもうお前は、首領格に命を狙われるぞ。あ奴らにだって誇りはある」

「取り消します。ところで、お役人さまのお名前を。お初にお目にかかりましたので---」
紋次の請求に、銕三郎は咄嗟に判断した
「言うわけにはいかぬ」と応えかけ、
(いや、のちのちも付きあうやも知れぬ---)
考えなおし、懐紙に、[初瀬川]と書いてわたした。
礼をいって受け取った紋次は、幸い、黙読しただけで、口にだして読まなかった。
かなり、文章に馴れている。

初瀬川]を、紋次は、こちらのおもわくどおりに、
はつせがわ
とおもったらしいが、じつは、
はせがわ
と読む。
銕三郎の祖先が大和の初瀬川沿いの集落の土豪であったころの呼称だから、ウソではない。のちに、地元の[長谷寺]に倣って[長谷川]に変えた。

紋次どの。姓は渡したが、今回は、記事には書かないと約束してくれ」
「なして、です---?」
「事件のことを漏らしたことが上に知れると、職が危ない。失ったら、〔耳より〕の紋次どの、わが一家の面倒を見てくれるか?」
「とんでもございません。分かりやした。男と男の約束、守りやしょう」

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2008.04.25

〔笹や〕のお熊(その6)

長谷川さま。お婆ぁさんの用心棒も、これでご用ずみでやすね」
「そうなってほしいが---」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が、こころもとなげに〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)に応える。

「しっかりなさっておくんなさいよ。姥桜(うばざくら)ってえのは、長谷川さまみたいに精がありあまってるのに、あの技(て)この手筋を教えこんで、自分も法楽にしびれようってんでさあ---今朝のお婆ぁさんの顔つきだと、ゆうべあたり、気を引いてみたってことが、見え見えでやしたが---」
権七の観察眼は鋭い。

【参考】2008年4月20日~[〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3) (4) (5)

「一味は甲州とか駿州とかへ引き上げた---と火盗改メ方がいっているのを口実にして、お屋敷へお帰りなさいまし」
「頼んでみよう」
長谷川さま。まさか、花びらももう残ってねえような姥桜に、数奇(すき)ごころをお持ちになっちまったんではねえでやしょう?」
「それは、ありません」
そう断言してみた銕三郎だが、昨夜、湯文字も取りすてて素裸で抱きつかれた時の肉(しし)置きのゆたかな腰や胸の重量感には、まったく無反応だったわけではなかった。
が手をのばしてきて探りあてていたら、逃げ口上が通じなかったかもしれない。

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(国芳『逢悦弥誠』部分 イメージ)

阿記(あき 23歳)の面影に加えて、母・(たえ 40歳)より齢上の女(の)とそのようなことになっては、親不幸の最たるもの---と、理にならないことを自分にいいきかせていたのであった。

両国橋をわたる。
大川の川面(かわも)が、初夏を告げるきらきらした陽を照り返している。
両国西詰・広小路に達した。
昼前にはまだ間があるというのに、あいかわらずの人出で、見世物小屋の呼び込みの声もあちこちから、かしましい。さすがに江都いちばんの賑わいどころだ。

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(両国橋西詰 広小路の賑わい 『江戸名所図会』部分)

とりあえず、水茶屋へ腰を落ちつけてから、〔加納屋〕善兵衛(ぜんべい 60台半ば)に逢ってみるつもりである。
まだ、15,6歳の美形の茶汲みむすめが茶をはこんできても、2人は視線を向けもしない。

この春はじめ、谷中(やなか)の天王寺門前の茶店〔かぎや〕に出た看板むすめ・おせんの評判があまりに高いので、学而塾の悪童連とひやかしに行った銕三郎だったのだが。

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(春信「笠森おせん」 イメージ)

ことのついでに書いておくと、庭番の頭(かしら)格・馬場家(100俵)のむすめであったおせん(14歳)は、ほどなく、同じ庭番・倉地政之助萬済(まずみ 25歳 60俵)に嫁ぎ、店から姿を消した。

2人は、〔初鹿野(はじかの)〕一味のことを、声をひそめて話しあう。
まわりの客が耳にいれても意味が通じないように、名前や事件を伏せている。

「寸前に着替える---ということでした。線香の匂いは、置いてある時に滲(し)みこんだものでしょう。為造の小屋に長く置かれていたのでしょう」
「水油は---?」
「横道にみちびくために、わざと付けたのかも---」
「こんど、付けなかったのは---?」
「そらす気がなかった---ことがなり次第、江戸を離れる算段をしていた」
「忘れたってことは---・?」
「いや。そんな手抜かりをする相手では---」
「ブツが入ったってことは---」
「見張っていたのでしょう」
「どっちを---?」
「双方を。配当がもらえるかどうかの際(きわ)です。みんな、やったでしょう」

「内通(つなぎ)は? 羽前同士とか---」
どの---なかったとおもいます。 それより、通いが---」
「日光の杉並木じゃなくって---と」
「東海道の松並木---」
「そう。松並木でやした」
「住まいなども聞き漏らしたままです。いまも、いるのか、どうか---」

その時、2人に声をかけてきた目つきの鋭い、若い男が、
「お話中、失礼さんですが---」


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2008.04.24

〔笹や〕のお熊(その5)

銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が、裏手の井戸で顔を洗っていると、お(くま 43歳)が酒器の洗いものを持ってあらわれた。
笑顔で寄ってきて、銕三郎の尻をぽんとたたき、
「まんざらでもなかったって顔だね。汁っけもたっぷりだったろう?」

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(北斎『させもが露』部分 イメージ)

銕三郎は、おの誤解のままにしておくことにした。そのほうが、おに恥をかかさないですむ。

鬼平犯科帳』のファンを自認なさっている方ほど、
「おかしいじゃないか。酒気ふんぷんたる素っ裸のおに、布団の中へもぐりこまれて、さすがの銕三郎もあわてふためいて、青くなって逃げ出したのではなかったのか」

それを平蔵から持ちだされるたびに、70すぎのおが、たもとを顔にあて、
「恥ずかしいでねえかよ」
と舞台で演ずれば、観客はどっと笑う場面である。
たしかに、話としてはうまくできている。

しかし、である。
まず、銕三郎が〔笹や〕に泊まったのは、小説では、深川・本所でぐれていた時となっている。
17歳まで巣鴨の大百姓・三沢家で育てられおり、父のもとへ帰ると継母の嫌がらせ---それで家にも寄りつかなくなった。

とはいえ、何度も書いたように、史実では、継母は、銕三郎が5歳の時に病歿しており、生母は以前も以後もずっ長谷川家にいたのである。
さらに、銕三郎の20歳前後には、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 50歳半ば)が火盗改メの任に就いている。甥の銕三郎がぐれているわけにはいかないのである。

---ということで、苦労して、〔笹や〕に泊まる口実をこしらえた。
40代の前半で後家になったおは、孤閨にたえかね、たしかに、素っ裸で銕三郎に抱きついた。
が、銕三郎とすれば、据え膳をくうわけにはいかない。
ここのところは、池波さんの考えに同感---池波さんも、年上の女性は、若い男に手ほどきしてやるものという立場であるらしい---。
吉原があった時代の人だから、そういう体験もふまえての、助言とみたい。

が、ぼくが設定した銕三郎の立場では、おに恥をかかさないことのほうに力点をおかざるをえなかった。
池波少年だって、吉原での相手との年齢差は、10歳と離れていなかったようだ。

銕三郎の[ヰタ・セクスアリス]も書かないと、エンドレスのこのブログが持たないということもある。
で、おには、昨夜は酔いつぶれて夢の中で銕三郎と楽しんだとおもわせておくことにした。
問題は、収束の仕方である。
銕三郎は、おの用心棒にやとわれているのだ。さりげなく、任を解いておかないといけない。

朝食のあいだも、おは微笑をたやさない。
(これから先が、おもいやられる。いつも、昨夜のテで逃げられはしまい)
銕三郎とすれば、飯の味がしない。

食後も思案しているところへ、〔風速(かざはや)〕の権七がやってきた。
長谷川さま。[読みうり]をご覧になりましたか?」
「いや」
「これです」

なんと、昨夜、盗賊がまたも、ここから近い竪川(たてかわ)の向こう岸、緑町2丁目の---こともあろうに、〔古都舞喜(ことぶき)楼〕を襲っていたのだ。

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(お熊の〔笹や〕・〔古都舞喜(ことぶき)楼」 近江屋板)

行ってみると、火盗改メ方の次席与力・高遠(たかとう)弥大夫(やたゆう 46歳 200俵)と掛かり同心・大林源吾(げんご 30俵2人扶持)が出張って訊き書きをつくっていた。

高遠さま、大林さま。お役目ご苦労さまでございます」
「やあ。長谷川の若どの。お耳がはやい」
「こちらの〔風速〕の権七どのに教えられたのです。いかがですか? 賊は、やはり、〔初鹿野(はじかの)〕一味ですか?」
「灰色装束に身を固めていたから、たぶん、そうでしょう。ただ、前回より少なく、5人ほどだったようで---」
「首領の音松(おとまつ 38歳)は?」
「いなかったようです。差配は、小男の---〔舟形(ふながた〕)の宗平(そうへえ 47歳)とおもわれるのがやっていた」
「被害はいかほど?」
「120両ばかり。あと、板場の男が、逆らって腕を傷つけられました」

「おなじ店を2度襲うとは、奴らも、よほどにせっぱつまったんでやしょう」
言った権七に、大林同心が、
「火盗改メの裏をかいたのよ。エサを2度噛むとは、ふつうは考えないし、〔初鹿野〕一味としても、初めての手口だ」

高遠与力と大林同心、それにつきそっている小者たちが引きあげたあと、銕三郎は、女将・(ふく 38歳)と女中頭・(とめ 32歳)にのこってもらった。
「女将どの。前回と異なっていたのは、大男の首領(かしら)の代わりに小男が差配をとったことのほかに、ほら、小男の水油(みずあぶら)の匂いは?」
「あ、そういえば、消えていました」
「やっぱり---。どの。紅花の手拭いをつかいましたか?」
「いいえ。昨夜は、鼻をかみませんでした」

「女将どの。差しつかえなければ、盗(と)られた120両は、いつ手元にきた金か、教えてもらうわけにはまいらぬかな?」
「一昨日に」
「なんのための金で?」
「支払いをするためでございます」
「どこから?」
「------」
「言えませぬか? 両国広小路あたりですかな?」
「さあ---」

帰り道、銕三郎権七に謎解きをしてみせた。
「あの120両は、手切れ金だったのかも」
「〔加納屋〕の?」
「あの料亭も、これから保(も)たせていくのが、たいへんです」

【参考】2008年4月20日~[〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3) (4)


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2008.04.23

〔笹や〕のお熊(その4)

えもいわれぬ微笑で見つめたお(くま 43歳)は、いきなり、湯文字を取りすてると、銕三郎(てつさぶろう 20歳)にむしゃぶりついてきた。
長谷川の若よぉ。久しぶりなんだよう。味をみておくれ」
息が酒くさい。

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(国芳『逢悦弥誠』部分 イメージ)

「おどの。お待ちください。拙の支度ができておりませぬ」
「支度なら、あっちの部屋に敷いてあるよう」

(どう、切りぬければ、おどのに恥をかかさないですまされるか)
銕三郎が考えていたのは、そればかりであった。
は、抱きしめた手をゆるめない。
40女の脂肪ぶとりした重い躰が、銕三郎の動きを奪っている。

「おどの。拙も飲まないと、恥ずかしい」
「女と男がすることに、恥ずかしいことなど、あるものか」
「拙は、経験がない。恥ずかし」
「筆おろしなのかい。法悦々々。うれしいねぇ」

「じゃ、飲もう。それから、いろはの書き方を、腰でたっぷりと教えてやる」
は、素裸のまま、隣の部屋で、酒をととのえはじめた。
足元がそうとうにふらついている。

鬼平犯科帳』でのお熊は、70歳を超えており、傘の骨みたいに脂肪が抜けたしなびた躰つきとなっているが、この時は43歳の姥桜(うばざくら)である。みっしりと肉(しし)置きがあり、汁っけも十分。
ものの本によると、「姥桜」とは、歯(葉)のない老女にかけたとも、盛りをすぎても魅力が失せていない女とも、ある。おは、後者ということにしておこう。

2人は、のべられている寝床の脇で、呑みはじめた。
銕三郎は、裸のままであぐらをかいているおの下腹の茂みを、なるべく見ないようにしながら、言った。
「おどの。口うつしで飲ませてあげましょうか」
「おお、口をあわせてくれるのかい」

銕三郎は、いっぱいにふくんで、おの口へ移す。
3回ほどもそうしているうちに、銕三郎は酔いをおぼえ、困ったことに---と、一瞬、あきらめ、阿記(あき 23歳 お嘉根(かね)の母)に(すまぬ)とつぶやいた。

参照】2008年3月19日~[お嘉根という女の子] (1) (2) (3) (4)
2008年4月11日~[妙の見た阿記] (1) (2) (3) (4) (5)

「わか、なんか、ゆうた、---かえ?」
「いや」
「そろ---そろ、い・ろ・は---書いて---みよう---よ。 おい---で、初---筆---の---わ---か」
ごろり布団に躰を投げたとおもうと、はだかのまま太股をおっぴろげ、大の字になったおは、いびきをかきはじめたのである。
そして、夢うつつの中で銕三郎の口を吸っているのか、唇が風にそよぐ花びらのように微妙にふるえる。そのたびに、唇の両端の小皺がでたり消えたり---。

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(国芳『葉奈伊嘉多』[口絵] イメージ)

銕三郎は、上布団をよそってやり、酔いがまわった手で酒器を流しへはこぶと、隣の部屋で床をのべたとたんに倒れこみ、衣服も脱がずに眠ってしまった。

参考】2008年4月20日~[〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3)

翌朝---。

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2008.04.22

〔笹や〕のお熊(その3)

「お(くま)女将(おかみ 43歳)どの。その2人がこの茶店に来たことは、他の誰にも話してはなりませぬ。もし、2人の耳にそのことがはいると、女将どのの身によくないことがふりかかってくるやもしれませぬ」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)は、〔笹や〕のおの口達者に危険を感じたのである。知恵者〔舟形(ふながた)〕の宗平のことだ、どこに手をうっているか、知れたものではない。

「亭主がおっ死(ち)んじまったから、もう、怖いものはないし、見てのとおりの貧乏茶店だから、盗(と)られて惜しいものはなんにもないけど、長谷川の若が、せっかく言ってくれるんだから、口に錠をかけとくよ」

(しかし、蛙(かわず)の面(つら)つきをした30男を解き放したらしいところが、どうも解(げ)せない)

茶代を、〔風速(かざはや)〕の権七が払おうとすると、おが断った。
長谷川の若と知り合えたんだから、きょうのところは、貰わなくて、いいよ」
「それでは、あんまり---」
「なに、いいんだよ。ところで、長谷川の若よ。ヤットウの腕は、どうだね?」
「出村町の道場で稽古しております」
「強いのかね?」
「まあ---」
「どうだろう、2人組からの悪だくらみが消えるまで、このおさんの用心棒に雇われてくれないかね?」
「用心棒といいますと?」
「昼間は、見たとおりに人通りが多いから襲ってはこれまい。夜、泊まりこんでくれるわけにはいかないかね?」

そういう次第で、半月ほど、銕三郎は〔笹や〕から高杉道場と学而塾へ通うことになった。
は、若い男と差し向かいで食事ができるので、
「お(ささ)がすすむよ」
と、よろこんだ。
しかし、家では晩酌の習慣のない銕三郎は、さっさと食事をすまして、奥の部屋でお目見(めみえ)の予審のための下読みにとりかかる。

参照】お目見(みえ)のための予審 2008年4月17日[十如是] (2)

武事(ぶじ)あるものは必ず文備(ぶんそなえ)あり(司馬遷『史記』)
軍備だけでは片手落ちというもので、学問にも通じておかねばならない。

耳が痛い。
そんなとき、本多侍従(じじゅう)正珍(まさよし 56歳 駿州・田中藩 4万石 前藩主)のところで会った、善立寺(ぜんりゅうじ)の日顕(にっけん)から教わった十如是(じゅうにょぜ)を反芻(はんすう)する。

如是相(にょぜそう)---表から見える相
如是性(にょぜしょう)--内がわの本性
如是体(にょぜたい)---相や性をあらわす本体
如是力(にょぜりき)---動作としてあらわすための力
如是作(にょぜさ)-----あらわされた動作
如是因(にょぜいん)---そうなるための原因
如是縁(にょぜえん)---因を補う条件
如是果(にょぜか)----そうなった結果
如是報(にょぜほう)---その結果の後日
如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)
            ---その結果の実相

参照】2008年4月16日~[十如是] (1) (2) (3) (4)

蛙(かわず)の面つきの男は、別の一味から借りた者らしい。
その男を帰したということは?

一つには、つぎの仕事は、〔古都舞喜(ことぶき)楼での成果が少なかったために、配下から不満が出そうなので、その埋め合わせの補金だから、人数はできるだけ少ないほうが、分け前が多くなる。

それなら、首魁の〔初鹿野(はじかの)〕の音松が、つぎの支度金を取らなければ、あるいは〔舟形(ふながた)〕の宗平も、自分たち首脳陣が取り分を差し控えれば、多く分けられる。
が、一度でもそうした別の配分の例をつくってしまうと、あとあと、押さえがきかなくならないだろうか。

も一つ考えられるのは、人手が少なくても、十分にまかなえる先を襲う。
ということは、襲う先に寝泊りしている人数が少ないところとなろうか。とりわけ、男手が---。

その一軒に、鼈甲櫛笄の〔加納屋〕を置いてみた。
〔加納屋〕なら、両国広小路に面した米沢町だから、辻番所の前を通らなくても---いや、待て。盗賊たちは、森下町の長慶寺や入谷(いりや)の正洞院の隠れ家を引きはらっている。とすると、両国橋をわたるとはきまっていない。

のこされている手がかりは、水油の匂いだけだ。

参照】2008年3月31日~[〔初鹿野〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)

その時であった。
銕三郎が寝泊りしている部屋の襖が開き、湯文字一つのおが入ってきたのは---。

参照】『鬼平犯科帳』巻7[寒月六間堀]p217 新装版p228
巻10[お熊と茂平]p262 新装版p275

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(国芳『華古与見』部分 イメージ)


【参考】2008年4月20日~[〔笹や〕のお熊] (1) (2)

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2008.04.21

〔笹や〕のお熊(その2)

「おどの。その〔加納屋〕のことを、もすこし、教えてください」
銕三郎(てつさぶろう 20歳)のために、先に座っていた〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)が腰をずらせて、席をつくった。
長谷川さま。とりあえず、お掛けください。女将(おかみ)。新しいお茶を---」

茶を入れかえてきたおは、得意げに話しはじめた。
〔加納屋〕善兵衛(ぜんべえ)---当主だった時代は伊兵衛(いへえ)といったが、なにしろ、いまは、上は大奥のお局(つぼね)さまから、下は裏長屋の嬶(かかあ)まで、髪飾りをつけない女はいないってくらいの世の中になってきているから、商売は順調---。
とりわけ、〔加納屋〕の鼈甲は上品という評判がたったからたまらない。

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(歌麿『絵本笑上戸』の髪飾り)

「というのも、男と女の秘めごとを書きちらしている枕草子(まくらぞうし)の、なんとやらいう名のある絵描きが伊兵衛とは幼(おさな)馴染みでね。〔加納屋〕の創案した意匠の鼈甲櫛や簪(かんざし)を髪に飾った大奥の女たちが、いとやんごとなきことにはげんでいる絵入りの草子が売れに売れたのが、もとらしい。髪飾りをつけたままで極楽へいくもねえもんだ。のたうちゃ、みんなはずれちまわあな」

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(北斎『ついの雛形』部分 イメージ)

お熊の辛らつな口調は、癖なのだ。
(〔加納屋〕は、お披露目(ひろめ)の奥義(コツ)をこころえておるようだが---)

たいていは、ねだられた男が買って与える。
高価なものから売れていくっていうのも奇妙な女ごころで、伊兵衛は笑いがとまらない。
男に金があまってくれば、とうぜん、使い道は女か道楽となる。
東両国の尾上町のさる料亭で仲居をしていたお(ふく 28歳=当時)とできて、竪川(たてかわ)・緑町2丁目で売りにでていた〔古都舞喜(ことぶき)の女将に据えたのが10年前。
そのあと、店と屋号と継ぎ名を息子に譲って暇になった善兵衛はまだ50代の半ばだったから、2日とあけずに泊まっていたが、いまでは、あまり顔も見せないとか。
かんじんのものがいうことをきかなくなってきているって、おがこれという客にはこぼしているらしい。

「おの術(て)ですよ。そう言われた男客は、気があるのかなって自惚(うぬぼ)れるけど、このお熊さんに言わせりゃ、おは、客の懐中の小判か南鐐(なんりょう 二朱銀)に誘いをかけているだけなんだけどね」
お熊どの。くわしいですね」
感心する銕三郎に、
「本所・深川のことなら、なんだっておさんの地獄耳にはいるのさ」
40すぎ女のそれだが、それでも嫣然と笑ったときに、奥歯がほとんど抜け落ちてしまっているのが見えた。

「で、〔古都舞喜楼〕は繁盛しているんですかい?」
権七が訊いた。
「そこそこだってさ」

「お女将の出は?」
「近在の葛西(かさい)の、どこかって聞いたね。親は花づくりもしている小百姓とか」
「〔加納屋〕さんは?」
「先々代が、美濃の加納宿---商人(あきんど)の多い、中山道の宿場だそうな」

「甲斐につながる線はありやせんね」
権七どの。〔軍者(ぐんしゃ)〕は、〔舟形(ふながた〕の、と割れました。羽前だそうです。紅花染めの手拭いを懐中にしているとか---」
聞きとがめたおが、
長谷川の若さまよ。なんだね、その紅花染めの手拭いって?」
「羽前生まれの舟形って通り名の男が、懐中にしている---」
「---手拭いは分かった。その男がどうかしたのかね?」

軍者---つまり、知恵者(ちえしゃ)って呼ばれている---」
〔手っとりばやくいうと、軍師だね」
「そういうことです」
「何の軍師だね?」
「盗賊の---」
「〔古都舞喜楼〕へ押し入った?」
「そうです」

「こいつぁ、おったまげた。その軍師なら、ここで茶を飲んだよ」
「何時です?」
「5日ほど前になるかなあ。雨もよいの日だったよ。〔古都舞喜楼〕が賊に襲われた2日あとだ」

の話は、こういう次第であった。
どちらも5尺(1m50cm)そこそこの男が、〔笹や〕の縁台でお茶を飲んだ。
50がらみの男が、蛙によく似た面(つら)つきの30歳前後とおぼしい男に、
「ちょうすけ(長助)どん。助っ人、ありがとうよ。かんざき(神崎)のに、あっしがよろしくと言っていたと伝えておくんなさい」
「これをお返しいたしやす」
受け取った小さな包みと入れ替わりに、風呂敷包みを押しやり、
「〔軍者〕さん、このたびのお勤め、おみごとでやした。また、声をかけてやってくだせえ。ずいぶんとお達者で---」
その時、〔軍者〕と呼ばれた50がらみのほうが、大きなくしゃみをして、あわてて懐から黄味がかった淡紅色の手拭いをだして、口をぬぐった。

お熊どの。その〔軍者〕と呼ばれた男は、どちらへ去りました?」
「二ッ目之橋のほうさ」

ちゅうすけ注】そう、お察しのとおり、面が蛙に似ているのは、文庫巻10の1篇で題名にもなつている[(かわず)の長助]にまちがいない。〔神崎〕の、といわれたのは、長助のお頭の〔神崎」の伊之助。万事にはしっこかった長助が助っ人に借りられたのである。p69 新装板p64

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2008.04.20

〔笹や〕のお熊

〔五鉄〕の前を素通りした銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)は、竪川(たてかわ)に架かる二ッ目ノ橋を南へ渡った。
竪川は、一ッ目ノ橋の西で大川(隅田川)につながり、逆に東は中川に注ぐ運河である。
幅8間余(16m)、江戸城に対して縦(たて)に本所を貫いているために、竪川の名がついた。
深川の小名木川(おなぎがわ)の補助として、家康が開通を命じた。
小名木川は、浦安からの塩を江戸城へ運びこむための運河として設計されたと伝わる。
海に面していない甲州の武田信玄が塩を絶たれて困った故事を、家康がおそれたのだと諸書にある。

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(両国橋の東=〔五鉄〕・〔古都舞喜楼]・〔笹や〕・弥勒寺・五間堀など)

竪川には、一ッ目から四ッ目まで橋が架かっており、その先は渡しである。
銕三郎がわたった二ッ目ノ橋の向こう、左手には広大な境内をもつ弥勒寺(みろくじ)の山門が見える。
ものの本に、

真言新義の触頭(ふれがしら)、江戸四箇寺(しかじ)の一室なり。

とある。
弥勒寺の山門は、二ッ目ノ橋の通り(二之橋通りともいう)に面している。

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([本所・弥勒寺] 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

ある自称・鬼平通のホームページに、弥勒寺の塔頭(たっちゅう)から、いまは独立している3寺の中の一つ---竜光院の五間堀に面した山門の前に、お(くま)婆ぁの〔笹や〕を置いた地図が描かれていたが、文庫巻10[お熊と茂平]の読みちがいでしかない。

師走(しわす)の雪の晩に、五間堀の前の、寺の小さな門のところへ行(ゆ)き倒(たお)れになっているのを、弥勒寺の坊さんが助けてやったのが縁(えん)で、住みついたのさ---(p269 新装版p282)

このころは、竜光院は広大な弥勒寺の境内にある塔頭の一つでしかなかった、と史料にある。

池波さんは、ほとんど毎日、『江戸名所図会(ずえ)』をひもといて、飽きることがなかった。
お熊婆ぁの〔笹や〕は、文庫巻7[寒月六間堀]ではじめて登場するが、

お熊の茶店の南どなりは〔植半〕という大きな植木屋であった。その向こうに弥勒寺橋が見える。(p218 新装版p228)

この植木屋の垣根へ、老武士・市口瀬兵衛(いちぐちせへい)が倒れこむところから事件が推移する。

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(弥勒寺門前の板庇の〔笹や〕と赤○=植木や)

江戸名所図会』の[本所・弥勒寺]と題された長谷川雪旦(せったん)の挿絵は、竪川・二之橋通りに面して山門があり、そのすこし手前(二ッ目之橋寄り)---辻番の木戸に接して、板庇(いたびさし)の民家が描かれている。
池波さんが、雪旦の挿絵からお熊の茶店に見たてた。
そう推断するのは、挿絵で、その南どなりに「植木や」(赤○)とのただし書きがふられているからである。
庭石なども散在させている見本置き場の庭への枝折戸(しおりど)も見える。
こういう風景を目にすると、眼前に江戸の下町がありありと浮き上がってくる。

ちゅうすけ注】〔植半〕の屋号は、向島・綾瀬川べりの木母寺(もくぼじ)境内の一角で、『鬼平犯科帳』の時代からすこしあと、植木商いから料理店も開いた植木屋半右衛門こと、植半に負っているとみる。
木母寺には、いまでも「植半」と彫られた奉納石灯篭が2基のこっている。
引用の『江戸買物独案内』の左側の〔武蔵屋〕は、鯉料理で有名。鯉濃(こいこく)は精がつくと。

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(向島・木母境内の料亭〔植半〕 『江戸買物独案内』 1824刊)

鬼平犯科帳』を10倍楽しむ、愉しみ方の一つが、池波さんがそうしていたように『江戸名所図会』の挿絵を、小説の場面々々にあわせて詳細に観察し、推理することであろう。
長くつづけていた〔鬼平〕クラスでは、細部まで目がとどくように、また独自の発見を期待して、雪旦の挿絵を塗り絵に使った。
その成果が、ブログ[わたし彩(いろ)の『江戸名所図会』] http://otonanonurie.image.coocan.jp/である。

弥勒寺の門前---といっても斜向(はすむか)いだが---茶店を開いたのは亡夫・伊三郎で、お熊は看板女房だったのかも知れない。もっとも、お熊が生粋の本所・深川っ娘(こ)であったことはまちがいなかろう。
伊三郎が逝ったのは、いま書いている年号である明和2年(1765)の初夏から、6ヶ月ほど前であったろう。
明和2年---お熊は43,4歳の、出来たて後家であった。
もちろん、きょうの場合、銕三郎は、まだ、お熊とは出会っていない。出会う必然性がなかった。

鬼平犯科帳』では、本所・深川でぐれていた銕三郎に、酒などをふるまってやったことになっているが、本家の大伯父が火盗改メに2度も任じられているというのに、その甥っ子がいかがわしい場所に出入りしていていいものか。
しかも、ぐれの原因の一つであった継母・波津(はつ)は、史実では、銕三郎が5歳の時に死んでしまっていて、この世にはいなかった。

も一つ史実に沿うと、長谷川家が鉄砲洲・湊町から南本所・三ッ目通りへ引っ越してきたのは、銕三郎が19歳の暮れである。
それから、まだ、何ヶ月も経っていない。

さて、明和2年の某日の午後の、銕三郎へ戻ろう。

茶店〔笹や〕の前を通りすぎようとすると、
長谷川さま、長谷川さま」
と、声がかかった。なんと、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)であった。

「どうして、ここへ?」
縁台に腰かけてお茶を呑み終わっている権七の横に、銕三郎が立つ。
「足が衰(な)えないようにと、この前の弥勒寺(みろくじ)さんのご本尊・川上(かわかみ)薬師さんを拝みにきた帰りの一服でさあ」
権七の口ぶりは、大分に遠慮がなくなってきている。

茶店の女将がお茶をもってあらわれた。
「あ、女将(おかみ)どの。持ちあわせがないのもので---」
立ったままの銕三郎に、
「わたしゃあ、お熊さんってんだけど、初めて見る顔だねえ」
「この南の五間堀の堀留めの東---三ッ目通りに越してきたばかりの、長谷川です」
「道理で。まだ、部屋住みだね。いやさ、とって食おうとはいわねえから、これからも、せいぜい、その若々しい顔を見せとくれ」
40女の無遠慮な目つきで、しげしげと銕三郎の品さだめをしている。

長谷川さまこそ、どちらへ?」
権七が問いかけた。
〔古都舞喜(ことぶき)楼〕の女将の話をたしかめに---と言ったのを聞きつけたお熊が、割って入った。
「〔古都舞喜楼〕って、先だって盗人に入られた料亭だろう? おって女将は、旦那が老(ふ)けて足が遠のいたもんで、若い侍(の)を見ると、舌なめずりするって評判だよ」
お熊は、自分のことは神棚にあげている。

「お女将どのの旦那というのは---?」
「西両国・米沢町の鼈甲櫛笄(べっこう・くし・こうがい)細工所の〔加納屋〕の、いま隠居してる伊兵衛爺さんだよ。そうか、店と名を息子にゆずって、善兵衛になったんだった」

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(〔加納屋〕鼈甲櫛笄細工所 『江戸買物独案内』 1824刊)

(両国広小路!)
銕三郎には、なにか、ぴんとくるものがあった。

[〔笹や〕のお熊] (2) (3) (4) (5) (6)

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2008.04.19

十如是(じゅうにょぜ)(その4)

「女将(おかみ)どの。この近くに、灯油(ともしあぶら)を商っている店はどこかな?」
本所・緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕の女将・(ふく 38歳)に訊いているのは、火盗改メ・同心の大林源吾(51歳)とともに訪れた銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)である。

からは、賊のうち、首領株とみえる男からは線香の、〔軍者(ぐんしゃ)〕からは水油(みずあぶら 灯油(ともしあぶら)とも)の匂いがしていたことをおもいださせた。

女中頭で、天童育ちの(とめ 32歳)からは、小男の〔軍者〕が紅花染めの手拭いをいつも携えていることを訊きだした。

下谷(したや)の日蓮宗の善立寺の日顕師(にっけん 40歳がらみ)から、『法華経』の「十如是」(じゅうにょぜ)を教えられたことがきっかけで、料亭〔古都舞喜楼〕楼の事件を返訊(かえしき)きとりを申しでた成果である。

「うちは、商売がら、灯油(ともしあぶら)の遣いおししみをしませんもので、深川・油堀の中ノ橋ぎわに店のある水油仲買・大和屋さんから届けてもらっていますが、このあたりのしもた屋は、どこで求めているのでしょうねえ。おさん、ご存じかい?」
「さあ。私は通いではないので、存じません」
「通いは、おさんだけだった。宵の口にならないと来ないのだよね」

女たちのらちもない話につきあってなんかいられないとばかりに、大林同心が腰をあげる。
「いや、大儀であった。なにかおもいだしたら、役宅のほうへ届けてくれ。存じておろうが、一番町新道の長谷川正直(まさなお)さまのお屋敷だ。こちらは、長谷川さまの甥ごさまだ」

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(火盗改メ役宅=一番町新道・長谷川太郎兵衛正直・屋敷)

「これからも、お話をうかがいに寄せていただくので、よろしく」
銕三郎がすかさず、約束をとりかわす。

「火盗のお頭(かしら)の甥ごさまですか。私は、また、ずいぶんとお若いのに、お役目熱心なお役人さまと、感心申しあげておりました。こんごとも、ご贔屓にお願いいたします---あら、ご挨拶をまちがえました。火盗のお役人さまには、もう、ご贔屓にはなりたくはございません。どうぞ、お気兼ねなく、お遊びにいらっしゃってくださいませ」
また、ちろりと舌の先で上唇の端をなめる。商売がら、媚(こび)をふりまくのがくせになっているようだ。

(いずれ、金主(きんしゅ)の男がいるのだろうに、あまり可愛がられていないとみえる。まあ、女性(にょうしょう)もこの齢あたりが、化粧(けわい)で魅(み)せる、ぎりぎりかもな)
若い銕三郎には、女将・の年齢は、母・(たえ)とどっこいどっこいに見える。
若い男の目は、大年増に対して残酷なほどきびしい。

とはいえ、きょうの銕三郎は、「十如是(じゅうにょぜ)」のつづきが頭の中をしめている。
如是力(にょぜりき)---動作としてあらわすための力
如是作(にょぜさ)-----あらわされた動作
如是因(にょぜいん)---そうなるための原因
如是縁(にょぜえん)---因を補う条件
如是果(にょぜか)----そうなった結果

大林源吾同心には、丁寧に礼を言ってから、二ッ目之橋のたもとで別れた。

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(被害店〔古都舞喜楼〕から、〔五鉄〕=二之橋北東詰)

銕三郎は、〔五鉄〕へ寄って、このあたりで水油を売っている店を、三次郎(さんじろう)にたしかめてみようかとおもったが、すぐに考えなおした。

もし、盗賊・〔初鹿野(はじかの)〕一味の参謀格〔軍者(ぐんしゃ)〕こと、〔舟形(ふながた)〕の宗平の耳へ、銕三郎が灯油(ともしあぶら)のことを訊きまわっていることが入ったら、かねてからの心配ごと---類が〔五鉄〕へおよばないともかぎらない。

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2008.04.18

十如是(じゅうにょぜ)(その3)

「女将(おかみ)さん。もう一度、奴らが入ってきた時のことを、順を追って話してくれないか」
〔古都舞喜(ことぶき)楼〕の女将・(ふく 38歳)に言いつけたのは、こんどの1件の掛かり同心・大林源吾(げんご 51歳)である。

銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が、本家の大伯父---というより、先手・弓の7番手組頭で、火盗改メ・本役を命じられている長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石)に、現場の再調査を頼みこんだのである。

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(本所・深川 〔古都舞喜楼〕)

女将の言い分を手短にまとめると、枕をけられたので目をあけてみると、抜き身を突きつけた灰色装束の2人が楓の間へ行けという。
寝着の上から着物をひっかけるようにして、ふるえる足で、言われた楓の間へ入った。

「女将どのは一人で寝ていたのですか?」
銕三郎がたしかめ.る。
「お役人さま、嫌でございますよ。誰と寝ているとおもいになったのでございますか?」
ちろりと舌の先で上唇をなめて、上目で見つめてきた。大年増だが、さすがに艶っぽい

つぎつぎと、使用人たちが、刀でおどされて楓の間へ連れてこられ、縛りあげられ、猿ぐつわをつけてころがされた。
男衆5人と仲居女中・下働き女が7人の総勢13人が、である。
首領らしい大男と小男、あと2人に監視されているうちに、家中、金がありそうなところが半刻(はんとき 1時間)ほど探された。

集金してきた金とあわせた有り金が、女将の寝室の化粧鏡台の引き出しに入っていたのが見つかったらしく、賊たちは、一同を監禁していた部屋の入り口の廊下に棘菱(とげびし)のようにものを打ち込んで引きあげた。

「口惜しいじゃございませんか。一人がなんとか縛り紐を解き、順にみんなのもほどいてくれたのですが、棘菱に畳をかぶせれば歩けると思いついたのは、賊たちが去って、小半刻(30分)もしてからだったのです。助けを求めたころには、あたりには人っ子ひとりいやしませんでした」

「抜き身でみなさんをおどしていた監視役の者たちは、棘菱を打ち込む前に、廊下にでたとおもうのですが---」
「いいえ。一人がのこっておどしつづけていました」
「その一人は、どうやって部屋から引きあげたのですか?」
「棘菱の上を歩いてでてゆきました」
「上を歩いて?」
「草鞋の裏に鉄の板を貼り付けていたような、耳ざわりな音がしました」

大林さま。その棘菱は、役宅に保管してありますか?」
「あります」

「廊下には、棘菱の爪あとがありませぬな」
「客商売なものですから、すぐに張替えをいたしました。いけなかったのでございますか?」
「いや。取り替えた廊下板は?」
「棟梁が炊きつけにと置いていったので、燃してしまって---」

「女将どの。賊たちがかわした言葉を聞かせてください」
「『楓の間へゆけ』といったきり、あとは口をききませんでした」
「引きあげる時も---」
「配下らしい者たちに顎で合図をしただけです」

「匂いはどうでしょう?」
「あ、そう言われるてみると、大男からはかすかに線香のような匂いがしていたような---」
「小男からは?」
「あれは水油(みずあぶら)の匂いでしょうか---」
「水油?」
「はい。行灯(あんどん)に使う菜種(なたね)油です。灯油(ともしあぶら)とも言いますが---」

「あのう---」
女将の横にひかえていた女中頭のお(とめ 32歳)が、口をはさんだ。
「その小男が、鼻をかみました」
「それで---」
と、面倒くさげに大林同心がうながすのを、銕三郎が引きとって、
「ほう。おどの、よく思い出してくださった。鼻をかんだあと、どうしたのかな?」
「いえ。紅花(べにはな)染めの手拭いを使ったのです」

「なぜ、紅花染めとわかったのかな?」
「私は、羽前(うぜん)の天童の近郊の成生(なりう)村(現・天童市成生)の生まれです。あのあたりでは紅花をひろく栽培しています。ところの家々では、くず花でいろいろなものを染めます。下着とか手拭いとか。それで見慣れているのです」

くず花で染めるから、黄味のある淡紅色にしか染まらない。小男が使ったのは、たしかにその淡紅色の手拭いだったと、おは言った。

「くず花染めでぐず鼻をかんだなど、しゃれにもならぬわ」
大林同心が言うのを、手で制した銕三郎は、
大林さま。〔初鹿野(はじかの)〕の一味に、出羽---羽前(うぜん)か羽後(うご)の里名(さとな)を通り名にしておる配下はおりませぬか?」
「む。羽前か羽後---? 〔舟形(ふながた)〕の---宗平
「舟形というのは?」
認められて喜んだおが応えた。
「新庄の南にある郷(さと)です」

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(緑○=舟形 淡紅〇=新庄 水色=最上川 江戸期に近い明治22年頃)

(如是相(にょぜそう)、如是性(にょぜしょう)、如是体(にょぜたい)---相や性をあらわす本体---これだな。日顕師(にっけん)のお教えは---)

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2008.04.17

十如是(じゅうにょぜ)(その2)

「住職さま、お教え、ありがとうございます。学而(がくし)塾でも、[往(おう 過去)を彰(あき)らかにして來(らい 将来)を察す。顕を微(ほのか)にして幽(ゆう 原理)を闡(ひら)く](易経)---闡幽(せんゆう)は、隠れているものを明らかにすると教わりました」
「おみごと」
善立寺(ぜんりゅうじ)の日顕師(にっけん 40すぎ)は、口ではほめたが、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)のさかしらげともいえる応答に、一抹の危惧を感じていた。

父・宣雄(のぶお 47歳 先手・弓の組頭)が気づいて、
「方丈さま。お許しを。銕三郎めは、予審のことに追われておりまして---」
「いまの答辞なれば、予選はまちがいなしでござろうよ」
「ご寛恕、かたじけのう---」 
宣雄は、ほっとして、頭をさげた。

幕臣の子の予審とは、将軍にお目見(めみえ)する前に、若年寄の出座のもとにおこなわれる口頭試問と武芸の筋をはかられる予備試験のようなものである。
銕三郎は、それを理想主義がすぎる観念論と軽視しきってきており、なかんずく、儒書の解義を不得手としていた。

銕三郎はお目見がまだであったな。齢からいうと、ちと、のんびりであるな。ま、予審もあろうが、暇をつくって、日顕師から学ぶがよかろう」
本多侍従正珍(まさよし)は、とりつくろってやり、
「先刻の盗人のことだが、捕縛の手がかりは、なにか、考察がついておるのかの?」
「善立寺のご住職のお教えの、最初の如是相(にょぜそう)---自分ではあたっておりませぬ。火盗改メのお頭に頼んで、押しいられた緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼から、ことのありていを、じかに訊きとってみようかとおもいつきました」
「いまの火盗改メの頭(かしら)は、銕三郎の本家の仁じゃったな?」

宣雄が恐縮して応える。
「先手・弓の7番手の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石)でございます。お見知りでございましょうか?」
「会ったことはないとおもう。田中城の元城主の子孫ということで、いちど、引見しておきたいものよのう」
銕三郎が、ここぞと口をはさんだ。
「大伯父も、よろこびましょう」

日顕師は、善立寺の墓域に葬られている若くして逝った側室の年忌の日取りを決めると、退出した。
帰りぎわに、
長谷川の若どの。いつにてもお待ちしておりますぞ」
と、お世辞を忘れなかった。

ふと思いついた銕三郎が老公に訊く。
本多家の香華寺は、門跡(東本願寺)の塔頭(たっちゅう)の徳本寺では?」
「菩提寺が一つでなければならぬということもあるまい。内室が側室と同じ墓域に眠ることを嫌うこともある。は、ははは」

ちゅうすけ注】本多家の菩提寺は、銕三郎が指摘したとおり、浅草の東本願寺の塔頭(たっちゅう)の一つであった徳本寺(現・台東区西浅草1丁目)であったが、墓は、いまは青山墓地に移っている。徳本寺には、田沼山城守意知(おきとも)を斬傷させて死にいたらしめた佐野善左衛門政言(まさこと)の墓もある。
なお、池波さんが葬られている西光寺(現・台東区西浅草1丁目)も、元は東本願寺の塔頭であった。


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2008.04.16

十如是(じゅうにょぜ)

「こなたは、下谷(したや)の大光山善立寺(ぜんりゅうじ)の住職・日顕(にっけん)におわす」
本多侍従(じじゅう)正珍(まさよし 56歳)が、中年の寺僧を紹介した。
正珍侯は、駿州・田中藩(4万石)の前藩主で、老中も勤めていたが、7年前に、ある事件の余波をうけて罷免・隠居を命じられていた。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が西丸の書院番士から小十人(こじゅうにん)の組頭(役高1000石)に抜擢されたのは、正珍がまだ宿老職に就いていた宝暦8年(1758 40歳=当時)であった。
その恩を忘れていない宣雄は、芝・二葉町の隠居所として使っている中屋敷を、銕三郎(てつさぶろう のちの鬼平)をともなって訪れ、話相手をしている。

宣雄たちが、日顕師に会ったのは初めてであった。
まだ40歳代だろうに、太い両眉の尻毛が長くたれて、修行によるとおもわれる温顔を、一層に助けている。

ひととおりの挨拶がすむと、正珍侯が訊いた。
銕三郎よ。このごろ、奇特な話題は?」

善立寺が甲州・身延山の久遠寺の末とわかり、曹洞宗ではなかったので、安心して、先日の本所・緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕へ押し入った〔初鹿野(はじかの)〕の音松一味による盗難を話題にのせた。

参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)

久遠寺が武田信玄の庇護を受けていたことは、長谷川家の菩提寺で、四谷・新寺町の法華宗・戒行寺の住職から教えられていた。

「ほう。いまだに秘法を伝えておる武田流の草の根(忍者)の末裔が、な?」
正珍侯が、意外な---といった表情を見せた。
「ほとんどが紀州の薬込め衆に組み込まれたとおもっていたが---」

「侯。そのことより、銕三郎が案じておりますのは、その盗賊ども一味が手に入れた金高がすくなすぎたゆえ、ご府内で再度の仕事をするのではないかと---」
銕三郎よ。申してみよ」

銕三郎は、盗賊一人あたりの分け前が、裏長屋の一家の主の1年分の実入りほどしかなかったことを、数字をあげて告げた。

【参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (9)

銕三郎どのとやら。愚僧が申すのもおこがましいが、『法華経』の[方便品(ほうべんほん)]に、[十如是(じゅうにょぜ)]という教えがござっての。愚僧などがものごとを推しはかる時には、かならず、照覧しております」
日顕師が言葉をはさんだ。

十如是とは、
如是相(にょぜそう)---表から見える相
如是性(にょぜしょう)--内がわの本性
如是体(にょぜたい)---相や性をあらわす本体
如是力(にょぜりき)---動作としてあらわすための力
如是作(にょぜさ)-----あらわされた動作
如是因(にょぜいん)---そうなるための原因
如是縁(にょぜえん)---因を補う条件
如是果(にょぜか)----そうなった結果
如是報(にょぜほう)---その結果の後日
如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)
            ---その結果の実相
と、日顕師は教えた。

銕三郎どの。ま、推しはかりの手順とでもおぼしめされ」

ちゅうすけ注】この十如是を、岩本 裕さん『法華経』(ワイド版岩波文庫 1991.6.26)の口語訳は、「それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらがいかなる本質を持つか、ということである。それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかになるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているかということは、如来だけが知っているのだ」

善立寺のことを、『鬼平犯科帳』の鋭い読み手なら「ああ、文庫巻4の[夜鷹殺し]で、夜鷹の一人が境内で殺されていた寺だね p274 新装版p288」と合点するはず。

善立寺は、大正の大震災まで、明治以後の町名---永住町にあった。池波さんが小学生時代を送った町である。昭和の初期に足立区梅田1丁目へ移転。

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(昭和の初年まで、浅草・永住町にあった善立寺 近江屋板)

秋元茂陽さん『江戸大名墓総覧』(金融界社 1998.6.30)に、善立寺には、駿州・田中藩の江戸藩邸で歿した各藩主の妻子の墓碑があり、七代藩主・正珍の側室として、法名にの字がつけられ、慈行公二女(元禄12卯年1699 7月26日)とあるが、正珍侯が生まれたのはその日付よりも11年後の宝永7年(1710)だから、誤植であろう。

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2008.04.15

妙の見た阿記(その5)

「殿さまが阿記(あき 23歳)さまにお会いになるのは、なにも心配することはないのです。むしろ、祖父として、於嘉根(かね 2歳)を抱いてやっていただきたいと、阿記さまも願わしゅうおもっておいででしょう。こんな立派な祖父さまですもの」
「わしもできれば、そうしてやりたいが---」
(たえ 40歳)は、すこし眉根を寄せて、夫・宣雄(のぶお 47歳)に言う。

「気がかりは、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)のほうでございます。いまは、ご本家のご当主・太郎兵衛(57歳 火盗改メ・本役)さまのお手伝いに余念がないようですが、いつ、気が変わって、阿記さまとよりが戻るかと---」
「江戸と箱根では、よりを戻したくても、手がとどくまい」
「いえ、阿記さまは、銕三郎が声をかければ、すぐにも、箱根から於嘉根ともども、上府なさるおつもりのように見受けました」
「それほどに慕われて、銕三郎も幸せ者よのう。ふっ、ふふ」
「殿さまらしくもない---笑いことではございませぬでしょう。大権現(家康)さま以来のお旗本の長谷川家に、跡継ぎの男子を産む嫁がきてくれるかどうかの、重大事でございます」
も、大げさな。嫁の来手がなければ、その阿記とやらに、もう一人、つぎは男の子を産ませれば解決しないでもない」

「殿さまはやはり、殿方らしいお考えをなさいます。嫡子と庶子では、お上(おみ)の扱いが異なりましょう? 庶子を産まされる阿記さまのお気持ちもお察しになってくださいませ」

幕臣の場合、早く生まれた男の庶子がいても、家督の権利は、嫡男に優先権があることを、が言っている。

「待て待て。なにも、阿記鉄三郎の男の庶子のを孕んでいるというわけではあるまい。そういうこともあろう---と言ってみただけのことではないか」
「仮のお話でも、そうなった時の阿記さまの気持ちをおもうと---」
「これ、。まだ、どうもなっていないことを想像して、そなたが涙ぐむというのも、おかしいぞ」
阿記さまと、私とは、実の母子のように、こころが結ばれたのでございます」
「困った---妙なことになりおった。お、ここは、笑えぬ」

は、宣雄がまだ厄介者であったのに、婚儀もあげないで、銕三郎を孕んでしまった時の20年前の自分に、阿記を重ねているつもりであろうが、じつは、銕三郎をいつまでも「わが子」という母親の目でかばっていることには気づいていない。
この感情は、自然のもので、もつれると解きようがない。 

自室で切絵図を広げている銕三郎は、宣雄・妙の父母のあいだで、自分と阿記・於嘉根をめぐっての会話が交わされていようとは、つゆ、おもっていない。

ひろげているのは、北と南の本所、深川、そして下谷(したや)と入谷(いりや)・三ノ輪(みのわ)の彩色切絵図である。
当時の価格で1枚1分をこしていた。1両は4分、そして1両は学者たちによって10万円に換算されている(2008年4月現在)。
銕三郎の目は、とりわけ、深川・北森下町の長慶寺、本所の〔五鉄〕と緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)〕、入谷の正洞院に目をとめては、その道筋を念入りにたどる。

〔五鉄〕から竪川ぞいに元町をぬけて右に折れて両国橋をわたる。
それから、神田川ぞいに柳原堤を和泉橋までたどる。
(しかし、ここで橋をわたったのでは、ほとんど武家屋敷と寺だ)

武家屋敷には、要所々々に辻番所が置かれており、盗賊一味が通りぬけるのはむずかしい。

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(神田川北側から下谷一帯の武家の辻番所=青〇)

(筋違(すじかい)門まで足をのばしてわたり、お成道を上野へ向かうとどうなる?)
やはり、辻番所を避けて入谷へ達することはできない。
(ということは、両国橋西詰か内神田---うん?)

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2008.04.14

妙の見た阿記(その4)

いうまでもなく、平蔵宣雄(のぶお 47歳 家禄400石 先手・弓の8番手組頭)は、妻女同様の(たえ 40歳)に感謝していることをかくさない。

そもそも、長谷川家の四代目・伊兵衛宣就(のぶなり)の三男として生まれた平蔵宣雄の父・藤八郎宣有(のぶあり)は、生来病弱で養子にも出されないで、宣就の厄介者のままで、宝暦13年(1763)に一生を終えた。享年は推定ではあるが70歳をはるかに超えていた。

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(四代目・宣就から八代平蔵宣以など。 参考=本家・正直)

その宣有が30歳のころ、看護にきていたむすめとねんごろになった。牟弥(むね)というむすめは、平蔵(のちの宣雄)を産んだ。
牟弥の父は、備中・松山藩の浪人・三原七郎右衛門であった。
浪人する羽目になったのは、藩主に家督相続の手つづきの手落ちがあり、取りつぶされたからである。
浪人とはいえ、元は100石の馬廻役という主要な藩士であったから、牟礼はしっかりした教育を受けており、平蔵をみっちり仕込んだ。

参照】2007年5月21日~[平蔵宣雄が受けた図形学習] (1) (2)
2007年5月22日~[平蔵宣雄が受けた『論語』学習] (1)  (2) 2007年5月25日[平蔵と権太郎の分際(ぶんざい)]

牟祢もよくできた武家育ちのおんなであり、宣雄は受けた教育をありがたいといまでも感謝している。もっとも。史実には、その後の牟礼の行方をたしかめる手がかりはない。浪人のむすめとして市井にうもれていったのであろうか。それとも、長谷川家の厄介者の看護者であり、さらなるや厄介者(---平蔵宣雄)の母親として、長谷川家の片隅で一生を終えたのであろうか。

いっぽうのは、知行地の山家(やまが)育ちのむすめとはいえ、銕三郎の実母であり、のちにはstrong>長谷川家の主婦代理として献身的につとめた。
老いた病人の宣有ばかりでなく、臥せていることのほうが多かった六代当主・権十郎宣尹(のぶただ)、さらには夫の平蔵宣雄の正妻であり家つきだが、歿するまでの10数年間、起きあがりえたことのない波津の下(しも)の世話まで、時にはこなしたのである。

宣雄が、に頭があがらないのは当然だし、もっと感心するのは、歴代当主たちは女ぐせがいいとはいえなかった長谷川家で、銕三郎を産んで以後、その悪癖をぴたりと止めたのである。
(もっとも、銕三郎のお芙沙阿記のことは、例外である。まあ、家系なんだから、しばらくは修(おさ)るまいとおもうが)

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(英泉『浮世風俗美女競』部分 阿記のイメージ)

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(英泉『美麗仙女香』部分 お芙沙のイメージ)

これは、他人が類推することではないが、は、躰によほどの自信をもっていたのであろう。

「そなたは、阿記という女性(にょしょう)は、武家の奥には美形すぎると申したが、それほどの美人なれば、いちど、会ってみたいものよのう」
「殿さま。お齢(とし)をお考えさないませ」
「まだ、側室を持ってもおかしくはない齢だぞ」
「お持ちになりますか?」
「冗談だ。言ってみただけよ」
「よろしいのでございますよ、お持ちになっても---」

「なに、一はやらず、二はやめずという。持ったとしても、そちらまで、気がまわらぬであろうから、宝の持ちぐされになろう」
「宝のようなおなごが、おりましようか?」
「おるぞ。目の前に、一人な」
「お世辞も、ほどほどになさいませぬと、効きが薄れます」
「は、ははは」
「ほ、ほほほ」

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2008.04.13

妙の見た阿記(その3)

与詩(よし 8歳 養女)が、於嘉根(かね 2歳)がきたら、自分が使っていたおむつを、あててやるなどと申しているのでございますよ」
「は、ははは。女の子だの」
夕餉(ゆうげ)をすませ、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が自分の部屋へ戻ったあと、(たえ 40歳)は、平蔵宣雄(のぶお 47歳)に茶を注ぎながら告げた。

銕三郎の子を産んだ、なんといったかな、その---」
阿記(あき)さまです」
「そうであったな。このごろ、新しく知った人の名が、どうも、覚えきれぬ---齢(とし)だな」
「なにを仰せられます、殿さま。50歳には、まだ数年ございます」
「いや、役目の上でのお人なら、覚えるべく努めるから、まあ、不覚はとらないのだが、そうでないお人の名が、どうもいかぬ。あ、このこと、他言するでないぞ」

「その阿記さまでございますが、いかがいたしましょう? 銕三郎は、急に未練たっぷりになってきたようでございますが---」
「女性(にょしょう)との縁が、このところ、薄いようだから、過ぎた日の女性が恋しくなっているのであろうよ」
阿記さまは、武家の奥には、美しすぎます。最初のお嫁入り先は、平塚の太物(木綿衣類)屋の看板むすめとして望まれたらしゅうございます」
長谷川家の容貌(みめ)改良になったやも、しれなかったかな」
「まあ、殿さま。そのことに資(し)さないで、悪うございましたこと」
「許せ。つい、口がすべったわ」
「よけいに、傷つきました」
「は、ははは」
「ほ、ほほほ」

「そうか。銕三郎は、付きあう女性の容貌(みめ)にこだわる年齢を、まだ、抜けておらぬか?」
「殿方は、いくつになっても---」
「いや、そうではないぞ。見た目よりも、賢さ、やさしさぞ」

ちゅうすけ注】宣雄は口にこそしなかったが、いまなら、「テレビの時代劇の女性たちがそろいもそろってそれなりに美人なのは、江戸の実情を反映しておらぬ」と言ったかもしれない。
まあ、あれは虚構の世界のことだが。

「その、なんといった---そうそう、阿記であったな。うん、阿記於嘉根という子とともに実家をでて、江戸か近在ででも独り暮らしをするようにでもなったら、再婚先が見つかるまで、当家としても放ってはおけまい。何がしかの手当てをせねば、な」
「そうなさっていただけると、阿記さまも安心でございましょう」
「ただし、(てつ)には内緒にな」
「心得ております」

「美形というほかに、見てとったことは?」
「親馬鹿とおっしゃられるかもしれませんが、一と目で銕三郎の器量を見抜いた女性でございます、それはもう、若いに似合わず、しっかりなさっていて---」
「そこは、そなたと同じだな。冷や飯食らいのわしの器量を見抜いて、銕三郎を身ごもった---」
「あら。帯に手をおかけになったのは、殿さまのほうだったではございませぬか」
「たしかに指は触れた、が、解いたのは、が自分の手で---」
「20年も昔のことになりました。もう、忘れてしまいました」
「とぼけるでない。こまかなところまで覚えているくせに---」
「ほ、ほほほ」
「は、ははは」

は、『寛政譜』などでは、正妻としては記録されていない。側室という立場でもない。
宣雄が30歳、23歳、銕三郎3歳の寛延元年(1748)正月10日、かねて病床にあった六代目・権十郎宣尹(のぶただ)が34歳で歿した。
親類一統の手配で、急遽、宣尹の妹の養女願いが伺われ、認可されるや、つづいて宣雄との養子縁組が申請された。
それらの手続きがすべて終わり、公けに宣尹喪が発されたのは2月8日であった
もっとも、『寛政譜』のための「先祖書」の呈出は、半世紀後の寛政11年(1799)であったから、宣尹の入寂月日は菩提寺・戒行寺の霊位簿にしたがって申告された。

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(四谷・戒行寺 『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

戒行寺の霊位簿をいうと、宣雄が入り婿養子となった、『鬼平犯科帳』の鬼平の義母---波津(はつ)は、これまで幾度も記してきたように、婚儀の2年後の寛延3年(1750)7月15日に亡くなったことになっている。銕三郎5歳の年である。

それで想像しているのだが、波津は、20歳のころから病床にあって30歳をすぎてもふつうの嫁入りができず、宣雄との婚儀後も、いちども起き上がることはなかったであろうと。
だから、実際に家政を取り仕切っていたのは、であったろう。

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(戒行寺 長谷川平蔵供養碑)

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2008.04.12

妙の見た阿記(その2)

「母上。明日、左馬(さまのすけ 20歳)が、印旛沼の蓮根(れんこん)持参で、食事にまいります。馳走してやってください」
銕三郎(てつさぶろう)は、都合が悪いことは、すぐに、そうやってごまかします」
(たえ 40歳)は、いつものことと、あきらめたように苦笑した。
笑うと、目じりの皺(しわ)が深まり、目立つ。
(母上も、お齢をおとりになったのに、こんどの箱根行きでは、ご苦労をかけてしまった)

にしてみれば、気苦労どころか、初孫・於嘉根(かね 2歳)を抱いたり、阿記(あき 23歳)という一生の話相手ができたりで、若やいだ気分でいることを、銕三郎は見ぬけない。

岸井さまのご実家は、臼井で積荷船問屋も兼ねていらっしゃるのでしたね?」
「そのように聞いております」
「それゆえ、郷士のご身分なのに、商人のようにお気がまわるのです。ところの採れものの蓮根を江戸へ届けておけば、左馬さまが世話になっている家々へ配ることができると」
「言ってやりました。道場隣の、ふさどのの桜屋敷へも、蓮根を届けておくようにと」
阿記さまが、早く江戸へお住みになれば、蓮根を煮た時などには、持っていってあげられるのに。於嘉根は、もう、歯がはえてきているから、柔らかく煮れば、あの子も食べられる」
「抱いてやりたいな」
「なりませぬ。嫁にきてくださるお人のお許しがなければ、近寄ってはなりませぬ」
「心得ました」

阿記さまに似て、それは、それは、器量よしの女の子なのですよ」
「拙に似なくてよかった、とおっしゃっておられるようにも、受け取れますが---。ま、母上だけがお会いになって、拙も父上もまだ、顔も見ておりませぬ」

そこへ、与詩(よし 8歳 養女)が女手習所(おんな・てならいどころ)から戻ってきた。

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(春信『歳旦の錦絵』与詩のイメージ)

長谷川邸のある三ッ目通りをはさんた東西両側は旗本の屋敷ばかりだから、与詩が通っている菊川橋西詰の手習所は、師匠も女性なら、手習い子もすべて女の子。
つまり、武士の子は、男女7歳にして席を同じゅうせず---を生真面目に守っているのである。
「母上。ただいま、もどりました。きょうも、きちんと、お習字ができました。かね(嘉根ちゃんは、きました---まいられましたか?」
於嘉根が来ると、誰から聞きましたか?」

「きのう、母上が、父上に、もうしておられました。かねをひきとれたらと---。かねちゃんがきたら---まいられたら、わたくし、おむつをかえてあげます。わたくしのおむつ、のこしてありますね?」
「それは殊勝なおこころがけです。おむつは大切に仕舞ってありますよ。与詩のお嫁入りの荷物の中に入れてあげるつもりです。6歳までお寝しょのくせがあったと、お婿さまにお教えするために---」
「いやでございます---うそでしょう?」
「はい。うそ、うそ。でも、於嘉根は、ここへまいりませんよ」
「どこにゆけばあえますか? かねちゃんは、与詩のいもうとでしょう? そうですね? 兄上?」

「む。そういうことになるのかな---いや、そうでもあり、そうでなくもあり---」
銕三郎は言葉につまった。
正確にいうと、与詩には姪にあたる。

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2008.04.11

妙の見た阿記

阿記(あき)さまは、銕三郎(てつさぶろう)などより、よほど、大人です」
箱根から帰ってきた(たえ 40歳)が、ことあるごとに、そういってはばからないのに、銕三郎(20歳 のちの鬼平)は閉口した。

阿記(23歳)は、箱根・芦ノ湯村の湯治宿〔めうが屋次右衛門のむすめである。
嫁入り前は〔芦ノ湯小町〕とはやされていたが、18歳のむすめざかりの時、親類の実力者・茗荷屋畑右衛門夫妻の口ききで、平塚の太物舗〔越中屋〕幸兵衛(こうべえ 22歳=結婚時)に嫁いだが、姑とのおりあいが悪く、夫は姑の言いなりで、しかも嫁(か)して3年子ができなかったので、縁切りのつもりで里帰りの途中、銕三郎(18歳=当時)と出会い、実家の離れでしぜんに躰をあわせた。

参照】2008年1月1日~[与詩を迎えに]  (12) (13) (14) (15)

鎌倉の尼寺・東慶寺に駆けこみ、み仏のお情けで嫁家との縁が切れるのを待っているうちに、女児を産んだ。銕三郎の子である。

参照】2008年2月1日[与詩を迎えに] (38)
2008年3月20日[於嘉根(おかね)という名の女の子] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

銕三郎は、箱根からの旅籠賃を、阿記さまに払わせなかったそうですね」
「そのう、まあ、分けるもの水くさいとおもいましたので---」
「藤沢宿から江ノ島、鎌倉は、阿記さまの都合で遠まわりしていただいたのだから、せめて、この分だけでもと、2年間包んでおいて、時がくれば---と、お待ちになっていたのです。さすがに商家育ちのお人、お金のけじめをきちんおつけになる」
「はあ---?」
「人と人が付きあっていくおり、金銭はきちんとしないと、長つづきしません。私は、農家といっても山持ちの家育ちですが、山の木は、育つのに何十年もかかります。気が遠くなるほどの長い目でやらないないと、やっていけません。人との付きあいも2代、3代と長くつづく場合のことを考えて仕切ります」
「------}
「お武家は、金銭のことは避けておくほうが潔いと考えていらっしゃいます。そのくせ、役についた時のご挨拶のご招待のお料理がどうとか、お土産の菓子舗の格がどうとか---金銭というものへの考え方が、どこか平衡を欠いておられます」
「------」
「そなたのお父上は、私の父のところに滞在なされて、新田開墾にもお立会いになり、山の植林も体験なさって、諸掛かり費用と実り成果ということをたえず勘案なさっておられました。ふつうのお侍のようではありませんでした。これは、損得勘定に似ていますが、まったく違ったこころ根です。私は、そなたのお父上のそういうお考え方を、尊敬申しあげてきました」
「------」
阿記さまにも、そなたのお父上と同じような考えのところがありました。お金のことを考えることを避けてとおらないし、お金を汚いものともおもわない---お父上が阿記どのにお会いなると、一と目でお気に入りになるとおもいます」
「さようですか」

「でも、阿記さまは、於嘉根を独りで育てるとお決めになっております。ほんとうに、こころ根のすわった、しっかりしたお人です」
「母上もお気に入ってくださいましたか」
「話そうとしているのは、そういうことではありませぬ。銕三郎は、将軍家へのお目見(みえ)がすむと、嫁迎えが待っております。その時、妻となるお人に、於嘉根のことを打ち明け、のちのちまで、長谷川家で面倒を見ることの許しを得ておかねばなりませぬ」
「はい」
「覚悟はできておりますね?」
「はい」
阿記さまを、2度とお抱きしないという決心も---?」
「しかし、母上。阿記どのから抱いてほしいと望まれたら?」
「馬鹿をお言いでないッ!」


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2008.04.10

岸井左馬之助とふさ

「どうした? 左馬さん。食う気がおきないのか?」
手の草餅を、悲しそうな目でじっと眺めている岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)に、食べ終わった銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が不審げに訊いた。

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いつもなら、こういう時、真っ先にかぶりつく左馬之助なのである。
草餅は、ついいましがた、道場の隣家で出村町一帯の名主・田坂家の孫むすめ・ふさ(17歳)が、横川べりで話しこんでいる2人のために、わざわざ、持ってきてくれたものである。
ふさは、草餅を手わたすと、余計な口にはきかないで、さっさと屋敷へもどっていった。

左馬がかすかに首をふる。食い気がないわけでないらしい。
ふさどのの左馬さんに対する好意だ。おれまでご相伴(しようばん)にあずかった」
「ちがう」
「え?」
ふさどのは、花びらを載っけたほうをっつぁんにわたした」
「花びら?」
「草餅に載せてあった」
「気がつかなかったぞ。胃の腑に入ってしまったものは、たしかめようがないが、ほんとうに花びらがついていたのか?」
「ついていたのではない。載せてあったのだ。それを、ふさどのはっあんに手わたした。ふさどのはっあんが好きなのだ」
「じょ、冗談は、よしてくれ。ふさどのが好意をもっているのは、左馬さんのほうだ」

そういえば、先日、銕三郎が道場の井戸端で、稽古の汗をぬぐっていると、走るようにやってきた左馬が、
ふさどのが髪を洗っている」
一大事でも告げるように言った。
「天女(てんにょ)じゃあるましい、生身のおんなだ、髪ぐらい洗うさ」
「も、双肌(もろはだ)脱いでだぞ」

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(春信『髪すき』部分)

「着物を着たままで髪を洗うおんながどこにいる。ふさどのだって、芋を食えば屁(へ)だってぶっぱなすさ」
そう言ったばっかりに、左馬は口をきいてくれなくなった。
もっとも、4日目には、立会い稽古を催促されたが---。

S_2だいたい、左馬は、17歳の時に下総(しもうさ)・印旛郡(いんばこおり)臼井宿から、同郷の高杉銀平師をたよって上府してき、押上(おしあげ)村・春慶寺の庫裡の離れで独り暮らしをしている。
国許では男兄弟3人で、姉妹はいないまま育ったから、姉妹がはばかりで音を立てていばりをするところなぞにでくわしていない。
いちばん手近な年ごろのむすめというと、田坂家のふさになる。
始末が悪いのは、想像ばかりしているから、ふさを天女ででもあるかのようにあこがれてしまう。
まあ、未体験の若い男性にはありがちなことだが。

「とにかく、花びらのことは、おれは気にもとめていない。ふさどのにしてもそうだとおもう。ここへ運んでくるあいだに、風にのってくっついてしまったに違いない」
「うん」
無理やりに合点したらしく、左馬は草餅を口にした。

「ところで、母上が箱根から帰ってみえた。左馬さんに食事においでとのことだ」
「かたじけない。明日にでも伺う。さいわい、故郷(くにもと)から水蓮の根がとどいている。それを持って行こう」
「わが家に持ってきてくれるのはありがたいが、ふさどのの屋敷へもおすそわけするんだな」
「うん」

っあん。おぬし、ほんとうに、ふさどのに惹(ひ)かれてはいないのだな?」
左馬さん。考えてもみよ。わが家は、400石とはいえ、かりそめにも直参だぞ。しかも、父上は、先手・弓の組頭(役高1500石)を勤めておる。その世嗣(よつぎ)たるおれが、草分(くさわけ)名主とはいえ、幕臣でもない家のむすめを嫁にできるはずがなかろう?」
「理屈はそうだが---」
「武士に二言(にごん)はないッ!」
「このごろの武士は、値打ちが落ちておるからなあ」
「はっ、ははは」
「はっ、ははは」

参照】2008年3月24日~[盟友・岸井左馬之助] () (
2006年9月20日[岸井左馬之助の年譜
2006年9月21日[左馬之助、鬼平と再会す]
2007年4月1日[『堀部安兵衛』と岸井左馬之助
HP(井戸掘り人のリポート) [岸井左馬之助と春慶寺]


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2008.04.09

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(9)

横川に架かる法恩寺橋の北側の土手に腰をおろした2人の若者が話しあっている。
長谷川銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)と岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)であった。
うしろは、桜屋敷と呼ばれている草分(くさわけ)名主・田坂直右衛門の敷地だ。

銕三郎は、〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ 35歳)と〔軍者(ぐんしゃ)〕(47歳)を、しゃも鍋〔五鉄〕で見かけた晩、音松は深川森下町あたりに隠れているとおもいながら、長慶寺の参道前を疑いもしないで通りぎたことを悔やんでいた。

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(〔五鉄〕からの帰り道、伊予橋の手前左手が長慶寺への参道。
池波さんがつねに愛用していた近江屋板切絵図)

「大伯父---いや、火盗改メのお頭(かしら)をはじめ、与力・同心衆も、〔初鹿野〕の音松が、まさか、墓守小屋にひそんでいたとはおもいもよらなかったらしい」
「寺は、寺社奉行の支配だからな」
左馬さん。火盗改メは、僧侶神職であろうと、幕臣であろうと、引っくくっていいことになっている。それなのに、見逃した」
「墓守の---なんと言った?」
徳造(とくぞう 42歳)」
「その徳造が消えたことを、長慶寺が寺社方(じしゃかた)にとどけでてはじめて、音松という首領が徳造の小屋で寝起きしていたことがわかったということなんだ」

「それは、すんだことだから、いまさらいっても仕方がない」
銕三郎が気にしているのは、〔初鹿野〕の一味が押し入った料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕での獲物が300両とちょっとだったことである。
押し入ったのは、掛取りの集金日のその晩で、料亭側が納入先への支払いをすませていないところを狙った。
手わけして掛取りにまわった店の者たちは、「ご苦労さん」酒に、いい気分で熟睡中だつたという。

「8人で押しいって、300両では、あやつらにしては無駄働き同然だろう」
っあん。1人35両の収穫だよ。1家が3年は暮らしてゆける」
左馬さん。ちがうんだよ。300両の3分の1---100両は次の仕事の仕掛け金として初手(はな)から除かれる。さらに、首領の音松がまず、50両は取ろう。〔軍者〕が30両。あとを1人10両平均---」
「120両を6人で割ると---」
「押しいったのは8人でも、見張りや舟方もいようし、徳造のような陰の者もいるから10人で分けてみる。10両そこそこでは、長屋の亭主のかせぎと変わらない」
っあんは、まるで、盗賊の首領みたいに考えている---」
「そうでないと、あやつらの考え方についていけない。こんどの仕事の分け前がすくないといって不平がでると、一味の結束が弱まる。そこで、とりあえずの解散前に、もう一と仕事やるだろう」

料亭側の板場や女中で一件のあとに辞めていったものはいないから、内部で手引きをしたと思える者がいなかったことは、錠前あけの名手が一味の中にいることを暗示している。武田くずれの草の根(忍者)の末裔とおもわれる。ということは、次の仕事は、さしたる仕込みをしていなくてもやれるところを狙うとみていい。

「どこらだとおもう?」
「〔軍者〕次第だな」
「小男のことか?」
「侮れないよ。外見は非力そうだが、まさかの時には、2人や3人は殺してでもやりぬく肝っ玉をそなえている」
「で、その〔軍者〕の狙いをっあんはどう読んだ---?」
「うん---」
銕三郎がなにかいおうとした時、
「あら、お2人、ここにいらっしゃったのですね。いま道場へ草餅をお持ちしたんですよ。これ、余りものなんです、召しあがれ」
玉をころがすような若い声の主は、田坂名主の孫むすめ・ふさであった。

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春信 ふさのイメージ)

左馬が、たちまち、かしこまった。

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ちゅうすけ注】ふさのイメージに、春信をあてたのは、時代的にみて、ふさわしいとおもうからである。春信が初めて多色刷りの錦絵美人画を発表したのは明和2年(1765)。ということは、銕三郎が20歳の時の美人は、史実をふんでいうと春信風でなければならない。
歌麿北斎も、銕三郎平蔵宣以を称してから以降である。まあ、小説が史実ばかりでないように、浮世絵も史実をふむ必要はないのかもしれないが。

参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)


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2008.04.08

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(8)

3日ほどおいて、六間堀と五間堀に面した深川の町々---北森下町、森下町、六間堀町、元町、三間町などの大家(おおや)たちが、時刻差をつけて、こっそりと大番屋(おおばんや 深川では蛸番屋といわれた)へ呼ばれた。

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(緑○=大家たちが大番屋へ呼ばれた深川の町々 黄〇=長慶寺)

一つには、この5年間に代替わりした店(たな)を書き出さすため。
も一つは、それらの店舗に、身の丈6尺(1m80cm)前後、30歳から40歳とおぼしい男が寄宿していおる様子はないか---を言上させるためであった。

呼びつけた役人は、火盗改メ・本役に任じている先手・弓の7番手組の与力・門田紋三郎(35歳)と同心・大林源吾(51歳)と名乗った。
聞き役となったのは大林同心で、役人らしからず、おだやかな笑顔を絶やさないで応対した。

弥勒寺橋南詰の大家・庄兵衛(60歳)が、自分が長年差配してきている表店(おもてだな)のうち、3年前に、履物屋から小間物やへ代替わりしたのがあるけれど、
「お話のあった大男が寄留しているかどうかまでは知りません。うちのばあさんは町内でも地獄耳といわれております。帰ってたしかめて---」
「あいや、庄兵衛。はじめに申したごとく、これはごくごく内密のお調べであるゆえ、帰宅してからも、漏らしてもらっては困るのである---というよりか、困るのはお身たちでな。火盗改メ方が探しているぐらいだから、凶悪な悪党ということでないでもない。お身たちの中のだれかが差(さ)したとその者どもが知れば、一家みな殺しの報復にでるやも知れぬ。くれぐれも他言は無用である」

庄兵衛はもとより、同席していた大家たちがふるえあがって口をとざしたのを見渡した大林同心は、
「繰り返す。口にしっかりと戸締りを、な」
と引きさがらせ、次の組を呼びこむ手配をした。

そうやって、3軒の代替わりの店が報告された。
代替わりが少なかったのは、この5年間、六間堀町や五軒堀ぞいの町々に大火がなかったせいもある。深川あたりの小商いの店は、火事にでもあうと、もう立ち上がれない店が多かった。

大家たちが報告した3軒は、火盗改メの手でひそかに見張られたが、大男が寄宿している気配はなかったので、早々と監視の手配が解かれた。

そのあとすぐに、竪川ぞい、〔五鉄〕から2丁ほど東の緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕が灰色の装束に身をつつんだ盗賊の一団に押し入られた。
首領は、大男であった。小男もしたがっていた。

火盗改メ方のその後の調べで、深川東森下町の曹洞宗・長慶寺(切絵図の黄〇)に2年前から住み込んでいた寺男・徳造(とくぞう 42歳)が、犯罪後に行方知れずになったことが寺社方に届けられていることがわかかった。
寺側の申し立てによると、1ヶ月ほど前から、身長6尺たっぷりの従弟と称する30男が、徳造に与えられていた墓場の南隅の寺男小屋にとまっていたという。
徳造を紹介したのは、同じ曹洞宗で入谷(いりや)の正洞院の寺侍であったらしいが、火盗改メが行った時には、この男も姿を消していた。

ちゅうすけ注】深川森下町の長慶寺を、尾張屋板の切絵図は〔長桂寺〕としている。そのわけを解説しているのが平岩弓枝さんの『御宿かわせみ』(文春文庫)巻17『雨月』収録の[雨月]である。

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(青〇=長桂寺と弥勒寺 尾張屋板切絵図)

【参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6) (7)

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2008.04.07

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(7)

(それにしても、凄い迫力であった)
人通りがまったく絶えている北森下町を東へ、自宅のある三ッ目通りのほうへあゆみながら、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)はあらためて、〔軍者(ぐんしゃ)と呼ばれている小男のことをおもっていた。

先刻の〔五鉄〕でのことである。
先に帰る大男の〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ)を見送ってから戻ってきて、調理場へ、
「雪隠をお借りしますぜ」
じろりと入れ込みを見回してから、奥へ抜けた。
その時の5尺(1m50cm)そこそこの小男が、とつぜん、6尺(1m80cm)にも見えたのである。

道場主の高杉銀平師が、真剣勝負で怖がると、相手が巨大に見えてくる---だから、技(わざ)以上に肝(きも)を鍛えよ、と言うわけが、今日こそ、のみこめたと銕三郎はおもった。
銕三郎は、北国なまりのあるその小男の〔軍者〕が、20数年後に、密偵となってくれた〔舟形(たながた)〕の宗平だとは、まったく予想もしていない
もっとも、銕三郎が火盗改メに任じられた時、〔舟形〕の宗平は70歳を越していて、人柄も練れつくし、殺気など胸の中に閉じこめて外には見せないようになっていたが。

(あの迫力は、生きるか死ぬかの修羅場を、いくどもくぐってきた者だけが会得できるのであろう)
これから修行をつむ励みができた、と銕三郎はおもった。

そして、 〔軍者〕が経てきた人生を想像してみる。
北の国---というけれど、どのあたりであろう?
通り名が〔舟形〕と知っていれば、そういう地名を、あとで、父・宣雄か、火盗改メの高遠(たかとう 41歳)次席与力にでも訊くことができるのだが。

貧しい寒村の貧農の育ちであろう。
生きて産まれたことのほうが不思議と言ってもよいような境遇だったろう。
あの小男ぶりでは、幼いころから、ろくろくに食べさせてもらえなかったと見る。
吉宗が将軍になってから、財政立て直しをはかっての天領と呼ばれる幕府直轄地の年貢(ねんぐ)の取立てがきびしくなった。捨田離農も禁止された。
次男・三男は、そのかぎりではなかったから、気の利いたのは、悪の道に走った。
そうした連中の中で、〔軍者〕と呼ばれるまでにのしあがるには、人一倍ものの本を読み、人間観察を積み、知恵もめぐらせたろう。
とりわけ、あのとおりの小ぶりの躰なんだから。

(あの男、オオカミの牙と、キツネの知恵をもっているのだろうな。知恵くらべの相手として不足はない)

Photo
(〔五鉄〕から長谷川邸(切絵図は遠山左衛門尉) 途中、五間堀に架かる弥勒寺橋、伊予橋。池波さん愛用の近江屋板)

銕三郎は、五間堀にかかっている伊予橋をわたったことにも気づかないほど、小男に感情を移入しかかっている自分に、ぎょっとした。

(さて、どう仕掛けたものか---)

【参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6)

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2008.04.06

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(6)

(さぶ)どの。気疲れたであろうが、よくやってくれて、ありがとうよ」
「〔軍者(ぐんしゃ)〕の帰っていった方角を見そこないました」
「いや。拙たちでさえ、身動きができなかった。まだ若いどのには、無理であたりまえですよ」
銕三郎(てつさぶろう)は、板場へ入ってゆき、しゃもをさばいている〔五鉄〕の亭主・伝兵衛(でんべえ 40歳)に気をつかいながら、その息子・三次郎(さんじろう 15歳)と話している。

長谷川さま。先ほどのお勘定の、おつりです」
「先刻も申したとおり、それは、火盗改メの職をいただいている番町の大伯父からの、どのへのご褒美だから、遠慮はいらぬ。とっておきなさい。ご亭主。よろしいでしょう?」
亭主・伝兵衛の返事はそっけなかった。
「このたびかぎりにしておいくだせえ。三次は店のでえじな跡継ぎなんでね。岡っ引きの下働きをしている暇に、しゃものさばき方の手をあげてもらいてえんでね」
苦笑した銕三郎は、首をすくめている三次郎と顔を見合わせた。

(親父(おやじ)どのというのは、どの家でも、息子はあぶなっつかしいものときめている)

「〔初鹿野(はじかの)〕の音松は、この二ッ目之橋をわたって弥勒(みろく)寺のほうへ行ったということでやしたが、江戸での寝ぐらを、長谷川さまは、どこらあたりと推しおはかりで?」
〔五鉄〕を、三次郎に見送られてですぐ左、竪川(たてかわ)に架かる二ッ目之橋をわたりながら、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)が問いかけた。

竪川の水面(みずも)に浮いた月がゆれている。

小田原宿から箱根山道へのとば口、須雲川に架かる箱根石橋の川下の村---風速で生まれ育った権七は、村名を通り名にしている。
持ち前の度胸と知恵で、箱根山路の荷運び雲助の頭格にまでなっていたが、〔荒神(こうじん)〕の助太郎一味3名に大金で口説かれて関所抜けをさせた。
そのために箱根へいられなくなり、情婦(いろ)の須賀とともに2ヶ月前に江戸へきて、須賀に永代橋東詰で呑み屋をやらせているが、府内の地理にはまだ不案内である。

「〔軍者が従って行かなかったところからすると、そう遠くはなさそう---弥勒寺橋をわたった北森下町---というと、拙の学而塾の近くということになるが---そのすしこし先の南六間堀町あたりか。小名木(おなぎ)川向こうではあるまい。そこまで遠くだと、〔軍者〕が供をして行く」
「六間堀の北の八名川町とかは?」
「六間堀とか五間堀のような舟の便がある町とおもっておいたほうがいいようにおもうが---」

「〔軍者〕も一つところでやしょうか?」
「そうはおもえないのですよ。一つところに起居していれば、なにも〔五鉄〕へきてまで、打ちあわせることはない」
「そうしやすと、〔軍者〕は〔軍者〕で、〔初鹿野〕のとは別のところへひそんでいるとみてかかったほうが---」
「そうです。連絡がとりやすいということから考えると、竪川ぞいの相生町とか緑町かなあ。それはそれとして、日をおかずに2度も〔五鉄〕の2階で決めごとをしたということは、仕事の日が近いと見ておいて、間違いない」
「それまでに、きやつらの寝くらを見つけられるといいんでやすが---」
「なに。これから先は、火盗改メがする仕事ということですよ」

Photo
(二之橋北詰の赤○=〔五鉄〕 右緑○=五間堀の弥勒寺橋 
上緑○=六間堀に架かる北ノ橋 下緑○=五間堀の伊予橋
切絵図は上が西、下が東。左が南、右が北)

2人は、弥勒寺橋を渡って先の辻で別れた。
銕三郎は左へ、まっすぐに東行き、横川を目指してあゆむ。
権七は右への道をとり、六間堀に架かる北ノ橋をわたって堀ぞいに小名木川。そこから大川へ。
十三夜の月の光が道を白々と照らし、〔五鉄〕が借りた提灯の灯はなくてもよさそうな夜であった。


【参照】[〔初鹿野(初鹿野)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5)

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2008.04.05

ちゅうすけのひとり言(10)

静岡の〔鬼平クラス〕---SBS学苑パルシェ(JR静岡駅ビル7階で毎月第1日曜日午後1時から)で、ともに学んでいる安池欣一さんから、またまた貴重な資料をいただいた。

徳川林政史研究所 研究紀要昭和52年(1977)度分に寄稿された、深井雅海(まさうみ)さんの[紀州藩士の幕臣化と享保改革]の全文コピーがそれである。

この研究発表は、当ブログで2007年8月12日から、11回にわたって掲出した、同氏著『徳川将軍権力の研究』(吉川弘文館 1991.5,10)の第3章として収録されたものの元原稿である。

参照】2007年8月12日~『徳川将軍権力の研究』 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) 

ただ、あの時は、長谷川平蔵宣雄(のぶお)、平蔵宣以(のぶため)の栄進に深くかかわったとおもえる田沼主殿頭意次(おきつぐ)という大政治家が、飛騨・郡上八幡藩の農民一揆の仕置に参加することによって幕閣内で力を得ていった経過を読むのと、田中城との因縁から、その遺児ともいえる宣雄の引き立てに一役買ったとおもわれる元老中・本多伯耆守正珍(まさよし)の失脚に観察の主眼を置いた。
つまり、前掲書の第5章を中心にして読みこんだ。
徳川将軍権力の研究』を示唆してくれた学兄氏の指導がそこにあったからである。

_150安池さんからのコピーは、上掲書の第3章におかれていたものと同文であったから、こんどは、あちこち、ほかに気を散らすことなく、吉宗の江戸城入りにしたがった200余名の紀州藩士に視線を集中した---といっても、200余名の『寛政重修諸家譜』を全部抽出するところまでは、いまのところ、手がまわっていない。

寄稿者の深井雅海さんは、統計的手法で政治権力の移動と強化を見ることのほうに力点をおいている。
もちろん、吉宗体制の枢要な御側---加納久道(ひさみち)は「おおらかにつつしみふか」く、有馬氏倫(うじのり)は「さえかしこく、かどかどしき所ある」といった性格観察もなされてはいるとしても---。

参照有馬氏倫の「諸家譜」の個人譜
加納久道の「諸家譜」の個人譜

彼らと長谷川宣雄との、直接の接点はいまのところ、見つかってもいないし、見つかるとも予想していない。
とはいえ、紀州藩士から幕臣化した200余名全員の『寛政譜』を抽出・並列させれば、意外な発見があるかもしれない。時間との闘いになるだろう。
そういう観点を得ただけでも、安池さんからいただいた抜きコピーは、有用であった。

こんど、新しい視点を得たことが、もう一つある。
[第4節 井沢弥惣兵衛と年貢増徴策]に記されている、紀州藩の治水農政家・井沢弥惣兵衛為永(ためなが)という人物である。
寛文12年(1672)、紀伊国那賀郡野上荘溝口村生まれ。
宝永7年(1710) 49歳 紀州名草郡多田郷坂井村の亀池を築造する。
享保7年(1722) 61歳 紀州伝法蔵奉行を勤役中、幕府に召されて在方普請御用を命じられ、勘定所に出仕する。
以後、各地の用水路、新田開発などを指揮。報告は吉宗へ。
元文2年(1737)  73歳 病により美濃郡代を免職。のち寄合となり、翌年歿。享年76歳。

この行動派が実行した用水路の敷設、新田開拓の手法に注意が向いている。

というのは、宣雄の寛延元年(1748)、30歳までの冷飯時代、知行地の一つ(220石余)---上総国武射郡(むしゃこおり)寺崎で新田開墾を指揮・指導して100石ばかりを拓いた知識・技術は、年代はずれるが、間接的に、井沢為永に学んでいるのではないかと推察したからである。あるいは、当時輩出したほかの農政家たちからだったかも知れないが。

また一つ、手がけてみたいことがふえてしまった。喜ぶべきなんであろうな。

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(為永・嫡男の正房の個人譜)

ちゅうすけ注】〔寛政譜〕は歿年を85歳としているが、平凡社版『日本人名大辞典』(1937)がとっている76歳説に、とりあえずしたがっておいた。要確認事項である。

】これまでの[ちゆうすけのひとり言] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) 
 

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2008.04.04

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(5)

(さぶ)どの。これは、このあいだの勘定、それと、きょうの分。つりはとっときなさい」
とっさに、三次郎(さんじろう 15歳)が、指を唇に、つづいて、2階に向けた。
1両を懐紙につつんでさしだした銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)も、その意味を察して、うなづく。
風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)も、〔初鹿野(はじかの)〕の音松と〔軍者(ぐんしゃ)〕と呼ばれている小男が〔五鉄〕にあらわれるようになっていることは知っているから、事態をすぐに悟り、緊張した。

2階に、さっきまで話のたねにしていた2人の盗賊が来ているというのである。
銕三郎が声をひそめてささやく。
権七どの。ふだんのとおりに振る舞うこと。あの者らが降りてきても見ない。きょう、尾行(つ)けるのはよしましょう。バレると、この店に迷惑がかかります」
合点とうなづく。

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(〔五鉄のパース 絵師:建築家・知久秀章 拡大図←クリック)

2人は、わざと、芦の湯村小町だったころの阿記の評判を話しあうようにしたが、会話はとぎれがちであった。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[おぼこ娘])

(いかぬ。こういう時にそなえて、肝をきたえておくことだ)

ちゅうすけ注】権七は、阿記の芦ノ湯小町時代を、箱根山道の荷運び雲助として実際に見ているので、その姿はたちまちよみがえる。
が、銕三郎のほうは、そうはいかない。阿記の実家である〔めうが屋〕の離れの浴槽に入ってき、そのあと、いっしょに臥せった赤襦袢姿が、先におもいうかぶ。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[恍惚])

(あ、なんと---袴の奥が熱くなっている)

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(国芳『華古与見』[あられもなく])

(ますますもって---!)

その時である、2階から2人が降りてきた。
三次郎が、
「毎度、ご贔屓さまです」
と、つり銭を渡したらしい。
入れ込みの2人も緊張したが、動きにはそれをだない。

大男と小男が出ていった。
三次郎が戸口の外まで見送ってでた。

入れ込みの2人は、肩で大きく息をする。

もどってきた三次郎が、
「尾行(つ)けなくてよろしかったのです」
とだけ言い、すっと調理場へ消えた。

と、あいたままになっていた戸障子から、小男が戻ってき、調理場へ、
「雪隠をお借りしますぜ」
じろりと入れ込みを見回してから、奥へ抜けた。
銕三郎の目に、5尺(1m50cm)の小男の背丈1尺(30cm)も伸びたように感じられた。
権七は、首筋をひやりとしたものが触れたようにな気分だったと、あとになって告白した。

小男が出て行ってからも、2人はしばらく口をきかなかった。いや、きけなかった。
(あやつとの知恵比べになるのだ)

やってきた三次郎が、卓を片付けるふりでつぶやくように、
「いけません、いけません。外まで見送りにでたはいいけれど、大男が二之橋を弥勒寺のほうへわたりきるまで、後ろ姿に小男が目くばりをしていて、その上もどってきて、雪隠をお借りしますぜ---でしょう。とてもじゃないけど、油断がなりません」

戸口に向いて座っていた銕三郎は、入れ込みの客の中に動く者がいないか、確かめるだけの、こころのゆとりをとり戻していた。
(あやつが、〔軍者(ぐんしゃ)〕か)
なぜだか、
(負ける気がしない)
気づかれもしていない自信もあった。

袴の内側は、すっかり平静さを取りもどしていた。

しかし、ハッと気づいた。
武家姿の自分と軽子(ちから仕事人)風の権七のとりあわせが異様なことに---。

参照】[〔初鹿野(初鹿野)〕の音松] (1)  (2) (3) (4)

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2008.04.03

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(4)

「どうも、気にくわねえ」
半蔵濠(ぼり)へさしかかった時、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)か独りごちたのを、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が聞きとがめた。
左は半蔵濠、右手は新宿、八王子へと通じている甲州路(こうしゅうじ)がなまった町名となったといわれている麹町の通りである。
「なにが気にくわぬのですか?」
銕三郎が訊く。

「〔初鹿野(はじかの)〕の音松って盗人でさあ。仕事を終えて甲州へ帰るのに、わざと甲州路を避けて、箱根越えをして三島宿から北へたどるってえのが気にくわねえのですよ。甲州道中を避けるだけなら、道はいろいろあります。そのうちの一つを言いやすと、長谷川さまもお会いになった〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛の馬入川(別名・相模川)をさかのぼったっていいわけでやす。それをわざわざ、関所を通って三島宿を経るってえなぁ、〔荒神(こうじん)〕の助太郎と同じで---」
「おんな---か?」
「さいで」

足は、桜田濠のほとりへさしかかっている。
長谷川さま。もしかして、わっちたちは、〔初鹿野〕って通り名にこだわりすぎているのかもしれやせん」
「というと?」
「〔初鹿野〕とくるから甲州---に結びつけてしめえます。監察の目をそうさせるために、わざわざつけたってことはありやせんですかね?」
「ふむ」
「その、身の丈5尺(1m50cm)の〔軍者(ぐんしゃ)って奴の考えそうな詐術(さじゆつ)かも---」
「---?」
「三島宿から北行きって考える逆をついて、南に囲っているのかも---」
「えらいッ!」

「南だけじゃなく、西もありやす。南なら、長伏(ながぶせ)って地名がぴったり」
「そんな名の村があるのですか?」
「ありやす(現・三島市長伏)。三島宿の問屋場から30丁(約3km)そこそこ。北なら徳倉(とくら 現・三島市徳倉)あたり。西なら沼津の手前とみて八幡(やはた 現・沼津市八幡町)か黄瀬川(きせがわ 現・沼津市大岡)。ですが、留守がちの〔初鹿野〕の音松が、情婦(おんな)に退屈しのぎの小さな店でもやらせているとすると、三島宿の内でやすな」

_360
(赤○=三島宿 緑○=上から、徳倉、八幡・黄瀬川、長伏 
明治20年(1887) 参謀本部陸地測量部 東海道線未敷設で江戸後期にもっとも近い地図)

「その推量の基(もと)は?」
「〔初鹿野〕は、男客が店へ近寄らない商売を選ぶはずでやしょう。子どもの手遊び(玩具)屋か雛人形屋、あとはお六櫛(おろくぐし)屋あたり---しかし、そういうものを商う店は、宿場町の内でねえと、おかしい」
「冴えてますな」
「売れは期待していなくとも、隣近所の手前、きちんと毎日、店を開けてないと疑われる」

「ほかに、男客が来ない商いというと---?」
「女髪結いと甘いもの屋だが、これはないでやしょう」
「ふくろもの屋は?」
「流行(はやり)りすたりが早えから、仕入れがたいへんだぁ」

「手遊び屋と人形屋、お六櫛屋で、それらしい店があるか、本陣・〔樋口〕のお芙沙どのに問いあわせの文をやります」
長谷川さま。芙沙女将とあんまり親しくなさっちゃあ、芦の湯のほうに悪うかねえですかい?」

銕三郎の頭を、2年前の芙沙の顔がさっと横切った。

(できることなら、6年前のあの夜の湯殿姿のお芙沙がいい)

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(歌麿『入浴美人』 お芙沙の湯殿でのイメージ)

ちゅうすけのひとり言】困った銕三郎どのだなあ。いま、お母上は、阿記さんに会っているんですよ。阿記さんとの睦みごとをおもいだすべきでしょうが---。

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(英泉『絵本玉の茎』[水中流泳 阿記の湯桶でのシメージ)

長谷川さま。冗談がすぎやした。許してやってくだせえ」
権七は、自分の頭をごつんと叩いた。
道行く人が笑いながら通りすぎる。

「権七どの。しゃも鍋をつきあいませんか。その前に、〔須賀〕へ寄って断り、拙の家にも断りを言ってからくりこみましょう」
長谷川さま。〔五鉄〕へしゃも鍋をつつきに行くのに、くりこむはありませんぜ。それは、吉原(なか)へ行く時の台詞(せりふ)でやしょう」
権七どのは、吉原へくりこんだことがありますか?」
「とんでもねえ。いまのところは、お須賀だけで手いっぺえです」
2人は、笑いあった。

【参照】[〔初鹿野(初鹿野)〕の音松] (1)  (2) (3)

 


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2008.04.02

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(3)

「お頭(かしら)。北のお奉行・依田(よだ)和泉守政次(まさつぐ 63歳 600石)さまのご三男・又八信興(のぶおき 23歳)どのが養子にお入りになった初鹿野家(1200石)と、盗賊の〔初鹿野(はじかの)〕の音松とは?」
高遠(たかとう)次席与力が与力衆の勤め部屋へ引きさがったあと、自分より3歳年長の寛保3年(1743)生まれということもあって、信興に関心があるらしい銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が、大伯父の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 先手・弓の7番手組頭 火盗改メ・本役)に訊いた。

「これ。盗人と町奉行どのの縁家とを、いっしょにするか。外に聞こえたらどうする。それにしても、依田どののことをよく存じているな」
本多侯のつながりです」
本多侯とは、駿州・田中藩の前のご藩主だった伯耆守さまか?」
「はい。今川時代に、わが長谷川家のご先祖がお守りになっていたところ、武田方に攻略され落とされたあとの、田中城のご城主でした。勝頼公の自刃(じじん)で、守っておられた依田どのはついに降伏なされたということもあり、伯耆守正珍(まさよし)侯が田中城をしのぶ会を催そうとお考えになったのですが、なぜか、沙汰止みになりました。実現していれば、いの一番に大伯父上にお声がかかったはずです。残念でした」

銕三郎は、大伯父をいい気にさせることも怠らない。権七が笑いをかみしめている。

参照】田中城と依田家については、2007年6月1日[田中城の攻防] (1) (2)

もし、これが平蔵宣雄(のぶお 47歳 先手・弓の8番手組頭)だったら、田沼意次(おきつぐ)がお側の身分で、飛騨・郡上八幡藩の農民一揆の処置の評定に着席したとき、北町奉行として評定所の出座していた和泉守政次をおもい浮かべたろう。

参照】北町奉行として評定にかかわった依田和泉守政次のことは、2007年8月12日~ [徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)

「盗人の〔初鹿野〕の音松は、出生が甲斐国山梨郡(やまなしこおり)初鹿野村あたりということで、そう称しているのであろうが、博徒はともかく、盗人が出生村を通り名にするというのも、おかしなものよのう。火盗改メは、監察の初手を、通り名の村からはじめよう。わざわざ、調べてくださいと言っているようなものよ」

ちゅうすけ注】太郎兵衛どの。それは、池波さんへ言ってくれ。盗賊たちに地名を冠したのは池波さんなんだから。そりゃあ、〔蓑火みのひ〕)の喜之助(文庫巻1[老盗の夢])とか、〔墓火はかび)〕の秀五郎(文庫巻2[谷中・いろは茶屋])のように、鳥山石燕(せきえん)『画図百鬼夜行』からとった名をつけたり、〔血頭ちがしら)〕の丹兵衛(文庫巻1。題名)とか、〔夜兎ようさぎ)〕の角右衛門(文庫巻5[山吹屋お勝])などのように、1篇1篇で造語していたのではたまったものではない。地名ならご愛用の吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治33~)で無限といえるほど拾える。それでちゅうすけは、盗賊の出生地リストを作成して、当ブログにあげた)

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「初鹿野和泉守どのの姓は、その姓が絶えるのを惜しんだ武田信玄公からたまわったものらしい。もっとも、武田の家臣であった初鹿野家は、山梨郡に土地を給されてはいたらしいが、初鹿野村ではなかったと聞いた」
「由緒ある姓を、盗賊につかわれたのでは、たまったものではない」

ちゆうすけ注】これ、銕三郎どのまで、勇み足をするぅ! 『鬼平犯科帳』の盗賊の通り名は、池波さんの手になるものがほとんどで、実在したのは〔葵小僧〕だけですよ。
そんなことより。銕三郎と同年代の初鹿野河内守信興は、のちに北町奉行時代に、平蔵宣以に銭相場の件で利用され、それを苦にしたのか、その年の暮れに48歳で病死した史実を読んでほしい。
2006年7月4日[北町奉行 初鹿野河内守]

銕三郎は、権七にちょっと待つように言い、同心部屋から顔見知りの高井半蔵から紙と筆を借りて、三島宿の本陣・〔樋口〕のお芙沙あての用件を、さらさらと認めた。
権七が、感心したように、筆運びを眺めている。
仙次の盗人宿の見張りを解いて金1両を渡すこと、用立ててもらった金子の返済分ともどもで3両同封したこと、盗人宿を訪れる者があったかどうかは、近所の人に頼んで気をつけてもらうこと---書き終わると小判を包んで密封し、高井同心に、公用の行嚢(こうのう)に入れる手配を頼んだ。

辞去しようとした時、太郎兵衛正直が入ってきて、
銕三郎。ご苦労であった。これは、わしからのお礼だ。少ないが受け取ってくれ。それから、高遠与力が言ったことは、、組下の者たちに倹約を言いわたしている手前の表向きの話だから、気にしないで、いろいろ探ってみてくれ。報告は、じかにわしに頼む」

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(依田家からは、幾人も初鹿野家に養子がはいっている 『寛政譜』)

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(依田政次の三男で初鹿野家に養子に入った信興の人生における不幸・不運については、項をあらためて見てみたい。とりあえず、嫡男の自死に注目を)

参照】[マイナーな武将---初鹿野伝左衛門]

参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (1)  (2) 

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2008.04.01

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(2)

「大伯父上---もとい、お頭(かしら)。〔初鹿野〕という怪しい者に、お心あたりがございますか?」
銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)は、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)とともに、火盗改メの頭・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石余)の番町の屋敷へきている。

高杉銀平道場の帰り、ちょっとまわり道して、本所を東西に割っている竪川(たてかわ)に架かる二ッ目之橋北詰のしゃも鍋屋〔五鉄〕に立ち寄り、店主・伝兵衛(でんべえ)の長男・三次郎(さんじろう 15歳)から耳打ちされた、「〔初鹿野〕の」と呼ばれた男と、〔軍者(ぐんしゃ)〕という男のことを、報告にきたのである。
その通り道なので、永代橋東詰の呑み屋〔須賀〕で、権七に声をかけていっしょに参上したというわけである。

権七も、銕三郎の密偵もどきに付きあっている。
元・箱根山道の荷運び雲助だった権七とすれば、1450石の幕臣の屋敷の書院へ通されるなど、まったくもって望外のことと言ってよい。

高遠(たかとう)。そこもとは、いま銕三郎が申した者のこと、存じおるかの?」
太郎兵衛正直が、先手・弓の7番手・次席与力の高遠弥大夫(やたゆう 46歳 200石)をかえりみた。
「はい。甲州・山梨郡初鹿野村生まれの盗賊です。先役・本多讃岐守昌忠(まさただ 54歳 500石)さまの組から、本職を引き継ぎました時、留意の盗賊とあった10人のうちの1人です」

讃岐守昌忠は、この年---明和2年(1764)4月1日付で、先手・弓の8番手の組頭から小普請奉行(役高2000石)へ栄進し、火盗改メの職務を、弓の7番手の太郎兵衛正直へ渡した。
ついでにいうと、讃岐守が就いていた先手・弓の8番手の組頭の席は、銕三郎の父・平蔵宣雄(のぶお 47歳)が小十人頭(役高1000石)から栄進して埋めた。

ちゅうすけ注】本多讃岐守昌忠については、2008年3月8日[明和2年の銕三郎](その5)を参照。

「〔初鹿野〕と申す盗賊は、盗みの仕様に、その者と分かる特徴でもあるのかな?」
太郎兵衛正直お頭の問いかけに、高遠与力が答えた。

一味の頭領を〔初鹿野〕の音松といい、人相や入墨、衣類の柄が手がかりにならないように、面も衣類も、揃いの灰色の頭巾、上衣、手脚絆、軽袗(かるさん)、足袋で蔽っていること。
その衣装も侵入直前に装い、仕事を終えると脱ぐらしく、辻番所では見つけられない。
店の者を一と部屋へ集めてしばるが、殺傷はしない。
武田ながれの草の者(忍者)の家系が配下にいるらしく、厳重な錠前でもかるがるとあけて、小判を奪って逃げるという。
去る時に、とじこめた部屋の前の廊下や畳に、棘が八方に突きでている鉄製の菱茨(ひしいばら)と呼ばれるものを、無数、打ちこむので、縄をほどいても、容易に助けを求めに走れない。
身の丈6尺と2寸(1m85cm)の大男が首領の〔初鹿野〕の音松らしく、そのそばに、5尺(1m50cm)の小男がついていて、ほとんどの指示は、この男が大男に耳打ちしている。

ざっと、こんなことが知られていると。

「お頭。その首領株らしい2人組が、素顔で本所にあらわれました。しかし、その家の者が差(さ)したと分かると、その店にも店の者にも危険がせまりますゆえ、その名は明かせません。それより、こちらの権七どのの話をお聞きください」
「申しあげやす。その2人組は、甲州へ帰るのに、甲州路ではなく、遠回りして三島からの道を使うらこともあるらしく、時々、箱根の関所を通っておりやす。関所へ網を張れば、召し捕りもたやすいかとおもわれやすです」

ついでに、銕三郎は、〔荒神(こうじん)〕の助太郎の盗人宿の一つが三島にあるらしいので、見張らせているため、その手当てを3両頂戴したい。なお、三島の本陣・〔樋口伝左衛門方に仮の本拠を置いたので、今後の連絡には、幕府公用の飛脚便を使わせてほしい。これまで、町の飛脚をつかったが、とても拙の小遣いでは飛脚便代がまかなえない、と訴えた。

太郎兵衛は苦笑しながら、高遠与力に、
「聞いたとおりだ。勘定方の同心に言って、銕三郎に5両、渡すように---」
銕三郎は、内心で舌をだし、3両は文につけて三島宿の〔樋口〕のお芙沙へ公用行李で送り、2両は返却分、1両は見張りの仙次の日当、1両は権次、残りは〔五鉄〕への支払いと(さぶ)へのお礼---と腹づもりした。

勘定方のいる同心部屋から戻ってきた高遠与力が、包んだ金子を銕三郎の前におきながら、権七のほうを見て、
権七とやら。われわれの組は、この4月朔日から当役の本役をつとめることになってな。その前は1昨年----宝暦13年(1763)10月から半年ばかり、助役(すけやく)を拝命したものの、組としては、それが60年ぶりのお役であったので、火盗改メの職をじっさいに経験した組下が一人もおらず、いろいろとまごついたものだ。まごつきは、いまだにつづいておってな。お主のすすめてくれた箱根関所へ同心を張りつかせる案な、いつあらわれるか見込みもつかない者を待つ---そのようなゆとりなど、ありそうもない。どうであろう、箱根関所の小田原藩の衆で、その2人組を捕らえることはできそうかな?」
「さあ。あっしは捕り方の経験はまったくありやせんので、なんとも、お返事いたしかねやすです」
「そうであろうな。では、関所へ、通達だけはしておこう」

「それから、銕三郎どの。三島宿の盗人宿の見張りでござるが、見張り人の費用は、これから先はでないとお考えおきくだされ。いま組は、ご府内の検察だけで手一杯、勝手(予算)のほうもぎりぎりでしてな」
太郎兵衛正直の前で、ぬけぬけと言ったものである。

(また、お役人の言いわけが始まった。番方(ばんかた 武官系)が役方(行政・事務方系)のような言いわけをするようになっては、世も末だわ)
銕三郎は、かしこまったふりをして話題を変えるしかなかった。

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