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2008.02.15

ちゅうすけのひとり言(8)

紀伊藩主・吉宗(よしむね 33歳)が将軍職を継いだとき、従って江戸城へ入り、ご家人の身分を得、その後、しかるべき家禄を付された藩士たちの、あれこれを調べている。
というのも、田沼意次(おきつぐ)がらみであることは、2008年2月13日[ちゅうすけのひとり言]で述べた。

4歳で七代将軍職についた家継(いえつぐ 8歳)は、正徳6年(1716)の4月のなかばから病床にあった。

4年前の正徳2年(1712)10月、自分の死を悟った前将軍・家宣(いえのぶ 51歳)は、3家の当主---尾張の吉通(よしみち 24歳)、紀伊の吉宗(29歳)、水戸の綱条(つなえだ 57歳)に、家継の後見をくれぐれも頼んでいた。

正徳6年4月30日。吉宗が紀州藩の中屋敷(現・赤坂迎賓館)で弓を射ていると、江戸城から急ぎの呼び出しがかかった。
登城してほどなく、家継の喪がつげられ、天英院(落飾した家宣夫人・近衛家出)から、将軍職を継ぐようにとの要請を受けた。
吉宗は、家格からいえば尾張の現当主・継友(つぐとも 25歳 故・吉道の弟)、年配なら綱条(61歳)と再三辞退したと、『徳川実紀』の有徳院(吉宗)付録は記している。
三顧の礼---逆にいうと、二度固辞してから受けるところがいかにも日本的といえる。
(三顧の礼をつくすとは、劉玄徳がその住まいに三度通って諸葛亮孔明を慫慂した故事による)
天英院は退(ひ)かず、「天下万民のため」と、口説いた。ついに吉宗は承諾したとある。
『実紀』はさらに言う。吉宗は、夕刻、そのまま、供奉(ぐぶ)の藩士たちとともにニの丸へ入り、ふたたび藩邸へ戻ることはなかったと。

そのことを記した『実記』の文章は、興味深い。

(家継が死去し)尾張・水戸の両殿は退出したのに、紀伊殿はとどまられると告げられ、控え室で待っていた供の者たちは拝伏して聞いたが、理由がわからない。おのおの、不審顔を見合わせるのみ。
やがて、また出てきた目付の者が「紀伊殿の乗り物、長刀、などすべての調度をこちらへお渡しあれ」と言ったが、紀州の藩士たちは、理由を説明されないので従わなかった。
そこへ、お供をしてきていた小姓・内藤一郎大夫が奥から出てきて、「殿の仰せである。速やかに本城の方々へ渡せ」と声高に言ったので、ようやくそれに従った。
そうしているうちに、日も暮れてきたので、灯火に導かれてみな本城へ上り、厨前をふるまわれた。
吉宗がニの丸へ入るというので、こんどは、輿を玄関へ乗りいれ、本城の役人たちの先導でニの丸へ向かった。
その夜は、供の者たち全員が吉宗を護衛して夜をあかした。
次の日になって、有章院(家継)殿が薨じられたので、公を上様と称し奉るようにと触れがでた。

深井雅海さん『江戸城御庭番』(中公新書 1992.4.25)は、こう書いている。

○正徳六年四月晦日----七代将軍家継死去。吉宗、家宣の遺命により、江戸城ニの丸に入る。紀州藩年寄小笠原主膳胤次(たねつぐ 60歳)・御用役兼番頭有馬四郎右衛門氏倫(うじのり 48歳)・同加納角兵衛久通(ひさみち 32歳)をはじめ紀州藩士九十六名が供奉する。

参考】有馬四郎右衛門氏倫の個人譜 2007年8月18日[徳川将軍政治権力の研究](4)

上記の、氏名が記されていない93名の中に田沼意次(おきつぐ)の父・専右衛門意行(もとゆき)が入っていたかどうかは不明だが、『寛政譜』はこう書いている。

有徳院(吉宗)殿に仕へたてまつり、享保元年(正徳6年 1716 が改元)本城にいらせたまふのとき御供の列にありて御家人に加へられ---

どちらともとれる文章ではある。

この重役3人にしても、供奉した93人にしても、たまたま江戸詰だったために幕臣になりえたともいえるが、子孫にとってみれば、幕臣になって江戸に根づき、故郷を失ったことがよかったかどうか。運なんてものは、長い目でみると、どうとも決着しかねる。
長谷川平蔵の子孫の行方がいまだに不詳なのも、人生の不可思議な様相といえるかなぁ)。

吉宗の親衛隊ともなる紀州藩からのあとの選抜は、小笠原有馬加納の3重役で行われたと推量されている。
このほか、吉宗の長子・長福(のちの将軍・家重)が西丸へ入った8月4日に従った紀伊藩士42名もご家人となった。
享保3年(1718)5月1日。吉宗の生母・浄円院が和歌山から江戸城西丸へ移ったときに供奉してきた藩士23名も幕臣として遇されている(『江戸城御庭番』)。

小笠原有馬加納の3名は、吉宗の御側となるが、小笠原胤次は2年後に62歳で卒したので家禄は4500石どまり。有馬加納は御側用人の格である1万石の小大名となった。

_360
(加納角兵衛久通の個人譜)

_360_2
(小笠原主膳胤次の個人譜)

ちなみに、小笠原胤次は、礼法の小笠原家の出とはいえない。
その祖は、信濃国の小笠原修理大夫貞朝(さだとも)の長男・長高として生まれたが、次男を生んだ側妾がわが子を継嗣にするべく讒言をしたため、信濃を出て尾張国で織田家つながりの武衛家を頼り、のち三河へ行って吉良家に寓居。のち今川氏親に属し、遠江国浅羽庄(現・袋井市)を領し、馬伏(まぶし)城主となる。

*馬伏城から、池波さんは、 『鬼平犯科帳』文庫巻11[穴]の、いまは京扇店〔平野屋〕の番頭・茂兵衛こと元盗賊の首領・〔帯川〕の源助の右腕の〔馬伏〕の茂兵衛の呼び名をえている。

今川の滅亡後、子孫は徳川に従い、頼宣(よりのり)につけられて紀州藩士となった。
胤次は、家柄と才能と人柄で、吉宗の御用役(総務部長)をつとめていたのであろう。


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