« ちゅうすけのひとり言(6) | トップページ | ちゅうすけのひとり言(8) »

2008.02.14

ちゅうすけのひとり言(7)

長谷川家を調べていて、田沼意次(おきつぐ)とのかかわりあいに視線がむいた最初は、平蔵宣以(のぶため 小説の鬼平)についての、『よしの冊子(ぞうし)』2007年9月5日(4)の、天明8年(1788)11月6日火事の項を読んだ時である。
読んだ直後は、平蔵の老中・田沼意次へのごますりと断じていた。

しかし、史料をいろいろあたっていくうちに、両家の関係は、もっと深そうだと思えてきた。
その1.は、平蔵宣以の先手組頭への抜擢が、ふつう以上に速かったこと。徒(かち)の頭(かしら)を1年半ほどですましている。

2.は、父・平蔵宣雄(のぶお)の書院番士からの小十人頭への昇進である。
長谷川家は、両番(小姓組番と書院番士)の家柄とはいえ、宣雄までの人たちはすべて、ヒラ番士のまま終わっていた。それが、宣雄の代になって、とつぜんの頭への抜擢である。
その裏に、なにかある---と思案しているうちに、宝暦9年(1758)における、老中・本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主)がらみの、郡上八幡藩の公事(くじ)事件の裁定を指揮したのが、側御用取次・田沼意次とわかり、深入りすることになった。

【参考】2007年8月12日[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)   (11)

記したように、本多伯耆守正珍は、駿州・益津郡(ますづこおり)田中城主である。今川時代末期の城主は、長谷川紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)といい、平蔵たちの祖であった。
そうした因縁から、宣雄は、本多正珍にも面識があったろうと推定した。

田沼意次は、本多正珍に邪意があって老中罷免という処置をとったのではなく、法を適用しただけ---というより、一揆処罰のみせしめの感なきにしもあらずである。隠居ですましたのがそのしるし。

というわけで、田沼意次という紀州藩士出身の男に興味をもった。
田沼は、大名として、相良藩を領した。
だから、静岡市のSBS学苑パルシェで講じている〔鬼平〕クラスでは、しばしば、田沼に言及したし、クラスの人たちと相良探訪もした。

【参考】2007年11月7日[相良の般若寺
2007年11月8日[相良の大沢寺]
2007年11月10日[相良史料館]
2007年11月12日[田沼意次の肖像画]など

そんなこんなで、〔鬼平〕クラスで、田沼家『寛政譜』を配布したついでに、意次の父・意行(もとゆき)の紀州藩での身分などの謎に触れた。

それを、クラスの安池さんが律儀に、リサーチしてくださったので、そのまま、紹介する。
安池さん、ありがとうございました。ご苦労さまでした。さらなる、リサーチを待っています。


1.将軍になる前の吉宗の所在について
『南紀徳川史』によれば吉宗の紀州藩主の期間は10年7ヶ月、その内紀州に在国したのはおよそ2年4ヶ月と考えられます。(表「吉宗の紀州藩在国調」及び「南紀徳川史」の一部---2008年2月12日[ちゅうすけのひとり言]に紹介)
将軍になる直前は正徳5年3月に参勤交代で江戸に来て、そのまま滞在し、正徳6年5月に将軍家を継承しています。
ですから、後藤一朗氏が『田沼意次』のなかで、「吉宗が江戸へ行くときそれに伴して旗本に取り立てられた」と書かれているのは、厳密な意味合いからすれば適当ではないということでしょうか。

2.吉宗が将軍になったときの田沼専左衛門意行について
『南紀徳川史』に「当日お供にて、そのまま居残、また、その夜俄かに召された面々」として「御小姓 50石 田代七右衛門養子 田沼専左衛門」とありますから、吉宗が将軍になるとき従っていて、一緒に二丸へも行ったと考えられます。
『南紀徳川史』に記載されている、この時のメンバーをみると、若年寄・御用役番頭・御伴番頭・御用達御小姓頭・御用達・中ノ間番頭・小十人頭の偉い人10名以外は御膳番・奥之番・御近習番・御小姓・御医師など32名ですから普段から側近く仕えていた人たちが従っていたのでしょうか。もっとも、深井雅海氏によると、正徳6年4月晦日吉宗が、家宣の遺命により江戸城二丸に入った際供奉した紀州藩士は96名としています。
(和歌山にいた小姓5名、中屋敷にいた小姓10名はこれとは別に後から召抱えられています。)

3.吉宗が将軍になったとき、紀州藩からつれて行った藩士について
これについては、深井雅海氏の論文「紀州藩士の幕臣化と享保改革」をみつけました。これによると、人選は吉宗有馬氏倫・加納久通であったのではないかと考えられます。

4.田沼意行の先祖が紀州藩に奉公した時期について
これについては難航しております。いままでの調査結果は以下の通りです。

・後藤一朗氏は『田沼意次』のなかで、
「二代目吉次は、鉄砲の射撃の天才的妙手といわれた。当時彼の主人佐野氏が大阪務めに出た時それにつて行き、その地にいるうち、彼の特技が紀州藩の耳にはいり、召抱えたいという交渉をうけた。・・・
・主人の同意を得て勤務替えをし、そのまま和歌山に住みついた。1615年(慶長20)5月のことというから、大阪夏の陣のころである。」
と書かれていますが、大阪夏の陣のとき、紀州藩の藩主は誰であったのかという疑問があります。

・和歌山県史によりますとこの前後の藩主は以下の通りです。
ア、慶長5年10月(あるいは11月) 関が原の戦いのあと、浅野幸長が紀州藩主として甲斐(21万5千石)から37万4千石で転封されてくる。
イ、元和5年(1619年)7月 福島正則改易のあと、浅野氏は広島へ5万石加増で転封。ですから、大阪夏の陣のときの紀州藩主は浅野氏であったわけです。
ウ、元和5年7月浅野氏のあとへ徳川頼宣が紀州へ入国となっており、鉄砲の名人が慶長20年に紀州藩に奉公したのなら、浅野氏であり、紀州徳川家に奉公したのなら、元和5年以降ということになります。
資料によりますと、浅野氏は紀州入国当時、加増されたこともあり家臣を大幅に増加させております。また、広島へ転封後も増加させており、浅野氏に奉公したのなら、当然広島へ行ったと考えられます。また、徳川頼宣も紀州へ入国後、多くの家臣を増強しております。鉄砲の妙手ならどちらにも奉公するチャンスはあったようです。

・そこで、和歌山県史の資料集にあたってみました。
ア、「国初御家中知行高」(寛永初年―1624年より前の編纂のようです)には田沼次右衛門の名前は記載されておりませんでした。もし、150石程度なら載っていると思いますが。
イ、「和歌山分限帳 全」(延宝5~6年頃―1677~1678年時点)には、「150石 左京様属 田沼次右衛門」と記載されています。左京様は寛文10年(1670年)に伊予西条藩の初代藩主となった松平左京太夫頼純のことでしょうか。
後藤氏が和歌山の金龍寺で確認したところでは
田沼次右衛門吉次  寛文12年(1672年)没
田沼次右衛門吉重  延宝8年(1680年)没
すると、この時の田沼次右衛門は吉重のことでしょうか。田沼次右衛門吉次の奉公時期は寛永初年から寛文12年までの間ということでしょうがこの間48年もあり、もう少し絞り込みたいものです。
ウ、やむなく和歌山県史人物を見たところ田沼意行の箇所に以下のように書かれています。
「田沼意行 たぬま もとゆき
1688~1734 近世中期の家臣・幕臣 重之助・専左衛門・主殿頭・良裕・重意  菅沼半兵衛の倅。田代七右衛門重章の養子となる。田代の田と菅沼の沼とを取り田沼と名乗るよう命ぜられる。50石の小姓。享保元年6月25日将軍となった吉宗に従い、幕府小姓となり、廩米300表を与えられる。・・・・・・・」

こういうことで、田沼を名乗り、菅沼の由緒書あるいは田代の由緒書とは関係なく田沼の先祖を自分の先祖として自分の由緒書に記載することが行われていたのでしょうか。
エ、上記ウを念頭におきながら田沼『寛政譜』を見てみますと
「・・・・男次右衛門吉次はじめて紀伊頼宣卿につかえ、其子次右衛門吉重、其子次右衛門義房相継て紀伊家に歴任し、義房のち病により、辞して和歌山城下の民間に閑居す、これを意行が父とす。
重之助 専左衛門 主殿頭 従五位下
父次右衛門義房仕官を辞するの時、意行は叔父田代七右衛門高近が許に養はれ、後紀伊家に於て召れて有徳院殿(吉宗)に仕えたてまつり、享保元年本城にいらせたまふのとき・・・・」

「これを意行が父とす。」という表現は「父である。」とは違って、「父ということにする。」という意味にもとれますね。養子ですから、本来は田代を名乗るべきでしょうか。
オ、意行は菅沼半兵衛の倅なのでしょうか。
和歌山県史によりますと徳川幕府が『寛政譜』を作成したとき、「紀州藩でも寛政8年2月お目見以下より格式が上の家臣に由緒書(和歌山県立図書館蔵)を差し出させた。」とありますので図書館でその由緒書をあたってもらいました。菅沼家は代々半兵衛を名乗っているようで、由緒書も虫食いがあって見辛いということで今現在確認できておりません。

どっちでもいいことかもしれませんが、意行が田沼次右衛門の倅なのか、菅沼半兵衛の倅なのか知りたい気持になっております。今後の調査方法としては
・和歌山県々史編纂委員会に問合せる。
・菅沼半兵衛の由緒書を他の資料で探す。
・叔父田代七右衛門高近がどういう叔父なのか調べる。
ということでしょうか。

_120大きな宿題をいただいてしまった感じだ。
今日から、解読にとりかからねば。
とりあえず、辻 達也さん『徳川吉宗』(吉川弘文館 1958.12.25)を借り出してきた。
歴史書の老舗の吉川弘文館の[人物叢書]のシリーズの1冊として、もう、50年も前に上梓されたもの。
その後、新装版となって、いまなお生命を保っている。
この学会はさら新しい発見・史料・見解が加わっているはず。安池さんが参考にした深井雅海さんの研究などもその一つ。

|

« ちゅうすけのひとり言(6) | トップページ | ちゅうすけのひとり言(8) »

200ちゅうすけのひとり言」カテゴリの記事

コメント

SBS学苑パルシェの安池様の田沼意次の祖についてさまざまな資料を基にしてのリサーチ大変興味深く拝見いたしました。

これからも疑問点が益々解明されますことを期待しております。


投稿: みやこのお豊 | 2008.02.14 23:05

みやこのお豊さま
有難うございます。いろいろ資料は見ているのですが、課題で必要なところだけ拾い読みです。全部見ているなんて思はないで下さい。でも、課題を追っているうちに、いつか全部みることになるといいのですが。

投稿: SBS学苑パルシェ安池 | 2008.02.16 20:32

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ちゅうすけのひとり言(6) | トップページ | ちゅうすけのひとり言(8) »