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2007.09.05

『よしの冊子(ぞうし)』(4)


 『よしの冊子』は、門閥派の暗躍で田沼政権が倒れたあと、門閥派プリンスの松平定信が老中の座についたその日から、学友で側近の水野為長が四方八方へ隠密を放って情報を集めたその記録。文が「なんとかのよし」でしめられているので「よしの冊子(ぞうし)」と一般に呼ばれている。
もっとも、最初のうち、隠密たちは反田沼派のところへ行って、定信が喜びそうな噂話を集めたフシがある。

記録は門外不出とされていたのに、ひょんなことから洩れたが、幕府や各藩の上層部についての記述は桑名藩(定信の藩は白河からもともとの桑名藩へ復帰)の家老の手で、意識的に抹消された気配がある。
 
長谷川平蔵に関しては、当初はぼろくそだが、のちに評価が正当になっていくのがおもしろい。定信へ迎合している隠密のバイアスをただしながら読むべきだ。

よしの冊子(天明8年(1788)11月6日より) 

一. (松平(久松))左金吾(定寅 さだとら)が殿中で話すことには、このごろ、天下に学者は一人もいない。武術者もこれまたいない。
歌詠みも天下に一人もいない。歌を詠むなら武者小路実陰卿のように詠むのがよろしい。そのほかの歌は歌ではない。
拙者の娘も先年歌を詠むことになったので、実陰卿のように詠まないのなら無用だといって辞めさせたことだ。
これを聞いた者が、最初から実陰卿のように詠めるものではない、というと、最初から実陰卿のように詠めないでは役に立たない、といい放ったよし。
かつまた、絵描も天下に一人もいない。
いま栄川)などが上手といわれているが、あれは絵ではない、墨をちょっとつけて山だといい帆と見せるような絵は、ほんとうの絵ではない。
絵はものの形をしたためるものだから、舟の帆は帆らしく、山は山らしく見えるように描いたものがほんとうの絵である。
法印でごさる、法眼でござると、名称だけは立派でも、ほんとうの絵が描ける者は天が下に一人もいない、といい放ったよし。
その席に山本伊予守もいたが、言葉に困って一言も発言しなかったよし。伊予守は奥の御絵掛である。

【ちゅうすけ注:】
山本伊予守(茂孫 もちざね。38歳。1,000石。
帯刀の後任の先手弓の1番手の組頭。長谷川平蔵は弓の2番手の組頭。
寛政7年(1795)5月、長谷川平蔵が死ぬと、松平左金吾は弓の2番手の組頭へ組替えしてきて、組の平蔵色の一掃にはげんだほど、平蔵流を嫌悪していた。

一. (左金吾は)すべて何芸でも、ほんとうにできる者は天下になしとつねづね申されているよし。

一. 左金吾は、明け七ツ(午前4時)から六ツ(午前6時)までのあいだを、おもに廻っておられるよし。

一. 左金吾は町方にたいへん悦ばれ、町奉行よりは評判がよろしいので、このあとは町奉行になられるであろうとの声が出ているよし。 (出所:左金吾を「よいしょ」する先手組頭あたりか)

一. 長谷川平蔵も負けずに懸命に勤めている様子。ただ心中が苦しくてなるまい。おれがおれがも出まい。おれが負けぬようにと、勤められるであらうと噂されている。 (出所:上記に同じ)

一. 左金吾のさしている大小は、縁頭は手向茶碗に樒(しきみ)の花、目貫に位牌、鍔はしゃれこうべ、栗形(鞘の下げ緒を通すための半円形のもの)が石塔、小柄は名号(仏の名。ふつうは阿弥陀仏)なりとのこと。

【ちゅうすけ独白】なんと悪趣味!

一. 長谷川(平蔵)は、山師、利口者、謀計者のよし。
この春の加役(火盗改メ・助役)中も、すわ、浅草あたりで出火といえば、筋違御門近辺にも自分の定紋入りの高張りを2張、さらに馬上提灯を4,5張も持たせた人を差し出す。
浅草御門あたりも同様にしておき、自分は火事場へ出張っているが、3か所や4か所に長谷川の提灯が数多く掲げられているから、ここにも平蔵が来ている、あすこにも平蔵が出張っていたというように思って、町人どもはうまくだまされているらしい。
もっともその提灯が高張りして掲げられているところには与力か同心が出張っているのだから、とうぜん御頭もいるように見える。
だから町火消しなどもきちんと指図に従っている。出費をともなうことはまったく意に介さず、ほかの先手の組頭が提灯を30張こしらえるところを長谷川は50も60もこしらえているらしい。
はなはだ冴えすぎたことをする人ゆえ、まかり間違うと危ないと陰でいう者もいないでもない。

一. 先年、神田御門にあった田沼屋敷の近くで火事があったとき、長谷川平蔵は御城へ断って登城せず、自宅からじかに田沼屋敷へ行き、風の方角がよくないから、御奥向きはお立ちのきになられたほうがよろしいと存じます、私がご案内いたしましょう、と下屋敷まで案内したよし。
自宅を出がけに本町の鈴木越後方で餅菓子をあつらえさせ、下屋敷へ到着する頃あいに届くように申しつけておき、早速右の菓子を差しだしたよし。自宅の者へも、もし火事が大火になった時には夜食をつくって田沼の下屋敷へ持参するようにいい残しておいたので、右の夜食も届き、つづいてふるまったそうな。
じつに気くばりの行きとどいたことだと、田沼も感心したとのこと。
他からは一件もまだ届いていないところへ、平蔵からの鈴木越後の餅、自宅からの夜食が届いたように、すべてかくのごとく奇妙に手や気がまわるご仁らしい。

これまでなアーカイブした[よしの冊子](1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)

【ちゅうすけ注:】鈴木越後は、当時、江戸一番との評判の菓子舗。
新しい役に就任したら、同役たちにこの店の菓子を振る舞わないと意地悪をされた。

Photo
(『江戸買物独案内』文政7年 1824刊より)

一. 長谷川(平蔵)も、町々へ、自分の配下の家来が飲食とか無心をしても決して応じることのないよう。断ってもさらに強要された場合は長谷川宅まで召し連れてくるように、との触れを廻したよし。

【ちゅうすけ注:】『鬼平犯科帳』では清水門外が役宅だが、史実は、火盗改メ長官は自宅で執務するしきたり。
与力同心の詰め所や白洲・留置場も自家の敷地内に設けた。 
『鬼平犯科帳』ては、長谷川邸を目白台に置いた池波さんの意図は?
目白台は先手弓の2番手(長谷川組)組屋敷で、史実の長谷川邸は、平蔵が19歳のときから死ぬまで本所三ッ目……都営新宿線〔菊川〕駅の真上の1,238坪。

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(近江屋板・南本所竪川辺 赤○=遠山左衛門尉下屋敷。じつは平蔵の孫の代に遠山家に売却。
右手の緑○=入江町の鐘楼前の長谷川邸が小説で設定された、平蔵とは無縁の長谷川家。

_360_2
天保以後の切絵図はすべて買った遠山左衛門尉になっている。例の「遠山の金さん」である。

_360_5
(都営地下鉄・新宿線菊川駅上の長谷川家居宅跡銘板

長谷川平蔵住居跡
所在 墨田区菊川三丁目十六番
長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三の橋通り菊川の、一二三八坪の邸に移りました。長谷川家は三方ケ原(みかたがはら)の合戦以来の旗本で家禄四〇〇石でしたが、将軍近習(きんじゅう)の御書院番組(ごしょいんばんくみ)の家として続いてきました。天明六年(一七八六)には、かつて父もその職にあった役高(やくだか)一五〇〇石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、加役(かやく)である火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためやく)につきました。火附盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。
 また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場(にんそくよせば)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。寛政七年(一七九五)、病を得てこの地に没しました。この地は孫の四代目平蔵の時、江戸町奉行遠山金四郎の下屋敷ともなりました
平成九年三月  墨田区教育委員会

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(銘板のある菊川駅A3出口)

_360_4
池波さんは「本所三ッ目」をたよりに、切絵図を探して、入江町に見つけたが、偶然同じ400石でも京都出自の長谷川家で、平蔵とは無縁。

一. 本役・加役とも、夜中に召し捕らえた者は自身番へ預けておき、明朝役宅へ連行してくるように申しつけるのが従来からのしきたりなので、大屋や五人組が寝ずの番をしており、囚人が夜中に自身番所で飲食をねだることもあり、それで町内の出費も少なくない。
さて、このたび左金吾が沙汰したのは、夜中に召し捕った者は何時でも役宅へ連行してきてよろしいとのことなので、町々は大悦びのよし。

一. 先日、堀 帯刀が召し出されたので、諸大夫の地位(従五位下)への申し渡しかと思って登城したところ、御(鎗)持だったので大落胆。

一. 堀 帯刀は、栄転先が御持だと、席順はすこし上がるが、役料は(御先手組頭と)同じなので、お役御免で無役でいるよりもかえって物入りで迷惑だといっている。
数年間(火盗改メ)を勤めて極貧になったのに、役料が同じのポストへ仰せつけられるとはむごすぎる、これはお役しくじりと同様の処置になったのはどういうわけかと愚痴っているよし。

【ちゅうすけ注:】堀 帯刀が先手組頭から栄転したのは〔持筒頭(もちつつがしら〕。役料は先手組頭と同じ1500石だから収入増にはならないが、〔持弓頭〕とともに4組ずつしかないので大出世。
先手組の組下は与力10人・同心30人がふつうだが、持筒組は与力10人・同心55人だから、部下の多い分持ち出しも増えると嘆いているのだ。
もっとも、堀帯刀の家禄は1500石で、先手組頭の時にも、役高と家禄の差をうめる足高(たしだか)はなかった。
長谷川平蔵の家禄は 400石だから、先手組頭に抜擢されて1100石の足高が支給された。
松平左金吾の家禄は2000石。したがって先手組頭に任命されるほうが異常。
平蔵の監視役を買ってでた説の根拠である。

一. (先手弓第1組の与力で、組頭が堀帯刀から)、いまは山本伊予守に変っている大森惣右衛門は、人物もいたって堅いよし。
先達て堀 帯刀組に属していたときも、惣右衛門はいささかも賄賂を取らず、たまたま音物が贈られてきてもすぐに送り返していたよし。
帯刀の勤務ぶりの評判がよくなかったことはよく承知していて、帯刀の身分のことを案じていたので、持筒頭を拝命したのは幸せなことといっているよし。

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