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2007.10.05

『よしの冊子(ぞうし)』(33)

『よしの冊子』(寛政3年(1791)9月5日つづき)より

一、長谷川平蔵宣以 のぶため 46歳 400石 先手・弓の2番手組頭 火盗改め方)は転役もできず、いかほど出精してもなんの沙汰もないので大いに嘆息し、もうおれが力は抜け果てた、しかし越中殿(老中首座・松平定信)のお言葉が涙がこぼれるほど恭けないから、そればかりを力に頑張るしかほかに目当てはない、これではもう、酒ばかりをくらって死ぬだろうと、大いに嘆息して同役などへ話しているらしい。
  【ちゅうすけ注:】
  長谷川家の家禄はずっと400石---知行地は、下総国武射郡
  寺崎(現・千葉県山武市寺崎)に220石、同国山辺郡片貝(現・
  千葉県山武郡九十九里町片貝)に180石で、計400石だが、先
  手組頭は1500石格なので、それにたりない足(たし)高1100
  石が支給される(格1500石-家禄400石)。
  足(たし)高がもらえる役職につくことを出世という。
  さらに、火盗改メの組頭には、役料40人扶持を支給される。
  (1人扶持は1日玄米5合)。

一、長谷川平蔵は奇妙な人で、盗賊を召し捕るのは神技といえる。
田沼家の浪人と称して本所で剣術師匠をしながら近隣の貧家に米銭などをほどこしてもいて、賢人と崇められている男を長谷川平蔵が召し捕った。
その節、堺町(芝居町)の役者たちも博奕をしていて、いっしょに捕まった。で、右の浪人は盗賊の首領であったよし。

また旧冬の出火の節、立派な法衣の和尚とりっばな立派ななりの侍が立ち話をしているところを、平蔵が馬上から指図して捕らえたら、案の定、大盗人であったよし。
  【ちゅうすけ注:】
  このエピソードは、父・平蔵宣雄(のぶお)が先手・弓の8番手組
  頭で火盗改メ方の長官をしていた明和9年(1772)に、江戸の半
  分近くを焼いた行人坂大火の放火犯を逮捕した事例を、換骨奪
  胎して平蔵宣以の手柄にした形跡がある。
  父・宣雄の史実では、18歳ほどの若くて素足のかかをヒビ割れ
  をさせている坊主が、ふさわしからぬ高位の僧衣をまとっている
  ので「怪しい」と逮捕してみたら、行人坂の大円寺(現・目黒区
  下目黒1-8-5)の納屋に放火、その騒ぎのどさくさに同寺の住
  職の僧衣などを盗んだものと。  

また火事のあと、家根や火事場へ参って普請の相談をしているところを長谷川が召し捕ったよし。これも大盗だったらしい。
このように奇妙な捕り物がつづくので、町方ではあれほどのお人に褒美がでずご加増もないのはおかしい、あまりといえばあまりなことだ、公儀もよくない、なんぞご褒美がありそうなものだ、もっともご転役では跡をやるものがあるまい、長くいまのお役にとどまっていてほしいものだ、と口々に噂している。
お役人のほうでは、とかく長谷川を憎んで、あれこれいっているよし。いずれ長谷川は一奇物だとの噂がもっぱらだ。

一、火事場見廻りの太田運八郎資同 すけあつ 3000石)は利運(自己主張が強い)の者のよし。
このたび、定火消が郭の外防に出たについて、見廻り出会い相談の節、筆頭の堀孫十郎(不明)と運八郎が口論におよび、孫十郎が悪口を口にしたので、運八郎は切って捨てると脇差を抜いた。座中から大勢が取りかかって運八郎をなだめ、孫十郎を脇へ引かせたとのこと。その後、孫十郎は主張を引き下げたよし。運八郎は引き下がらず、「おれは引かぬ」と自説の優勢さをいいつのっているよし。もっとも論争の利は運八郎のほうにあるやにいわれているよし。
  【ちゅうすけ注:】
  この仁はのちに、長谷川平蔵の冬場の助役(すけやく)として火
  盗改メに任じられたとき、平蔵に教え乞うたら、「そっちはそっち
  でおやりなさい。こっちはこっちでやるから」と言われたと、上層部
  へ泣き言訴えた。
  このことについてかつて、 『夕刊フジ』の連載コラムに[部下を
  信頼する]
と題した私見を記した。

榎本武揚(たけあき)は、オランダで海陸兵制を学んで帰国、幕府の海軍奉行として五稜郭(ごりょうかく)に立てこもった人物として知られている。

武揚と行をともにした陸軍総裁・松平太郎のほうはさほど有名ではない。
五稜郭の開城後、東京へ護送・幽閉され、のち恩赦。
ものの本には「性格は豪放にして機知に富み、意表をつく企画を考え、ものごとにこだわらなかった」とある。

長谷川平蔵の再来みたいだと思っていたら、同名の息子・太郎が大正9年(1920)に出版した名著『江戸時代制度の研究』にこう書いた。

江戸幕府270年を通じて200人近くいた火付盗賊改メで「英才ぶりが広く知られているのは長谷川平蔵中山勘解由(かげゆ)、太田運八郎資統(すけのり)」。
平蔵をいの一番に据えてたのだ。

中山勘解由(3500石)は平蔵より100年むかしの人。
エビ責めの拷問(ごうもん)を考案したり、不良旗本・白柄(しらつか)組と対抗した奴(やっこ)組をこっぴどく取り締まった。

太田運八郎(3000石)のことは太田道潅の末、としか調べがついていない。
父・資同(30歳)が平蔵(47歳)の助役に発令され、教えを乞うたら、
「本役と助役とは競争しあってこそお役目が果たせるというもの。こっちはこっちでやるから、そっちはそっちでおやりになるんですな」
とけんもほろろにあしらわれ、火盗改メを管轄している若年寄へ泣き言を持ちこんだと記録にある。

記録だけを読むと、せっかく着任の挨拶をしにきた父のほうの運八郎平蔵がいじめているみたに思える。
が、事情がわかると平蔵の処置もうなずける。

その1。運八郎は若年寄の執務室へ呼ばれたとき、てっきり西丸の目付(めつけ)に任命されるものと期待して行ったが、先手の組頭だったのでがっくりきた、とまわりへふれまわした。

目付は1000石高、先手組頭は1500石高の役職手当。
ふつうなら後者に発令されるのを喜ぶのに、家禄が3000石で役職手当を超えているために1石もつかない。
そこで彼は、目付を出世コースとして先手組頭より優先させたのだ。先手組頭の平蔵にはカチンくる。

その2。運八郎が就任した先手鉄砲(つつ)11番の組は、それまでの50年(600ヶ月)のあいだに火盗改メに104ヶ月も従事しており、平蔵の組の144か月に次いで経験豊富な組下ぞろい。
盗人逮捕のコツは「おれに教えを乞うより、組の与力同心に聞いてやってこそ、彼らも働き甲斐を感じるというもの」と平蔵は言いたかった。
組の与力同心をやる気にさせるのが組頭の最大の仕事の一つだ。その仕事ぶりを認めてやり、誉めあげ、信頼されていると感じさせることだ。

「自分が望んでいたポストはここではなかった」などと口にしていることを耳にした部下は、
「なんだ、こいつ」
と仕える気もなえ、
長谷川どのはよくぞたしなめてくだされた」
と思う。

一、石川島は長谷川平蔵の担当で直かに計画しているよし。
江戸払いや江戸お構い者でも置くとのこと。石川大隅守正勲 まさよし 4000石 38歳)の家作も長谷川平蔵が買うだろう。鮫ヶ橋で家が売りにでたとき、ほかの者が20両(400万円)前後の値をつけたあとにやってきた長谷川平蔵は、2分(10万円)上積みして買ってしまった。古家までを買いあるいて何にするのだと噂されているよし。
  【ちゅうすけ注:】
  人足寄場の宿舎として解体して運び、プレハプ工法式に早期に
  組み立てた。
  官僚には珍しく機転・応用のきく柔軟な頭脳の持ち主。

一、森山源五郎(孝盛 たかもり 目付)は先日中、引き込んでおり、ようやく出勤したところ、その節、供を減らす書付が出ていたときなので、供を大幅に減らし、歩いて桜田見附を通ると、下座見が拍子木を2つ打ったので、ふだん目付は膝直しばかりで、拍子木は1つ打つのだが、歩行のときは2つ打つことになっているとのこと。
それで見附番の番頭が刀を手に提げて縁側まで出てきたが、どっちへお辞儀をしていいかわからないので、すごすごと上へ引き返したと。
それからこの番頭がお辞儀をしなかったことを咎めたところ、番頭がいうには、目付はただいま馬でお通りになった。たとえ駕籠でもお供のぐあいでどなたが分かるのだが、きょうは徒士でお歩きになった、もともと面躰を存じあげていないし、もちろん下座見も存じてはいない。その上、供を減らすようにとの書付が出ていることも不案内で知らなかったので、お辞儀をしなかったことはけっしてこっちの不調法とはきめつけられないといいはり、一向に謝ろうとしないそれで源五郎の負けで、またまた引き込んでしまったよしの沙汰。

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