『よしの冊子(ぞうし)』(32)
『よしの冊子』(寛政3年(1791)9月5日つづき)より
一、(久松)松平左兵衛佐(康盛 やすもり 32歳 6000石 中奥小姓)殿の元締何某は、4年前に娘を片づけようと、上の用向きと偽り、呉服屋などから反物をおびただしく取り寄せ、かつまた娘方へ道具をやろうして、家内の道具を残らず運び出し、鍋釜とへっついだけを残し、夫婦と娘ともども逃げ去ったよし。
右の元締は先日、本町あたりに料理茶房を拵え、娘で入るを取るもくろみだったが、悪事がばれ、左兵衛殿もお知りになり、(久松)松平左金吾(定寅 さだとら 先手・鉄砲組頭 加役 50歳 2000石)へ内々通じて、召し捕ったよし。およそ1万5,6000両も借金があったよし。
もっとも、この者たちは左金吾が左兵衛殿へ引き渡したよしの沙汰。
【ちゅうすけ注:】
家斉の晩年に西丸側衆をつとめた伊勢守康盛。同属・久松松平
のよしみでもあり康盛は20歳近くも年少でもあり、左金吾のこと
だから、気を利かせたつもりの処置であろうか。
一、経済講釈、経済学など何年稽古、師匠はだれそれなどと書き出すように、中川勘三郎(忠英 ただてる 1000石 目付 のち長崎奉行)、森山源五郎(孝盛 たかもり 目付 300石と廩米100俵)が掛りで仰せだされたよし。
これも清助(?)が進言したことであろう。経学、経済とどうわかるものだ。
清助はとかく要らぬことを進言する、との評判のよし。
一、町奉行には長谷川平蔵(宣以 のぶため 火盗改メ本役 46歳 400石)、しかし、人足寄場はこれまで通りに担当、とのもっぱらの噂。
一方では、松本兵庫頭が町奉行に登用されるらしい、との噂もあるよし。
先日、本多(弾正少弼正籌 まさかず 陸奥・泉藩主 老中格 53歳 2万石)侯へ差し上げた書上げに、御老中方の思し召しにあい適い、こんど町奉行を仰せつけられるとあるよし。
【ちゅうすけ注:】
本多忠籌について、定信は、「経済は泉侯、政治は自分」と頼り
にしていた。
また、長谷川平蔵が火盗改メの助役をみごとにこなした時、わざ
わざ呼んでその労をねぎらったとも『よしの冊子』に記されている。
人足寄場に月3回心学の講師として、中沢道二(どうに)を紹介し
たのもこの人と。
しかし、お咎めをこうむった前歴があるので、いかがなものかと申し上げる者もいたところ、(松平)越中(定信)様のご意向は、以前に遣ったことがあるが、松本も山師同様で人柄がよくないが、才子なので遣い方次第であろうということなので、これは町奉行は間違いなし、と噂されているよし。初鹿野(河内守信興 のぷおき 北町奉行 47歳 1200石)は卒中風との風評があるが、全体は御役筋に不首尾があるゆえに切腹もの、ともっぱらの噂。
【ちゅうすけ注:】
松本兵庫頭といえば、田沼時代に勘定奉行に抜擢された秀持
(ひでもち 田沼失脚に連動して500石から半知)。逼塞は許
されたが、その後、在職中の越後米購入にからんで再び逼塞。
天明8年(1788)に解けているが、まさか町奉行候補とは。
一、町奉行に長谷川平蔵、との沙汰はなかった。中川勘三郎か根岸肥前守(鎮衛 やすもり 勘定奉行 55歳 300石)だろう、との風評がある。もっとも根岸は(勘定奉行の)公事(くじ)方も勤めているので適任かもしれないが、中川はまだ町奉行という器量ではなかろう。そのうえ超選(順序を飛びこえて官位がすすむ)にもなることでもあり、かつこのごろは目付のお役目もいろいろ掛りが多くなっていて手が抜けない時だけに、御下命はあるまい、と。
【ちゅうすけ注:】
中川勘三郎忠英(ただてる) 1000石。目付。徒(かち)の頭だ
ったときに浪人・吉田平十郎を宇垣貞右衛門の弟のように偽っ
て前嶋寅之丞の養子にとりもったことを咎められて、出仕をとめ
られる。
【蛇足】
逢坂 剛さんの時代小説[重蔵始末](講談社文庫)シリーズの
近藤重蔵---そう、蝦夷・サハリン探検をしたあの重蔵が
仕えたのが、この中川勘三郎忠英。
一、松平左金吾殿は、なにかというと「越中(老中:松平定信)へそういいましょう」「越中がこういいました」と、諸事に越中様を鼻にかけるので、仲間衆もそうかと思い、恐れをなし、無理なことでも「はいはい」と返事しているよし。万事、むずかしくいうので、西下(定信)の目明しだともいわれているよしの沙汰。
一、小田切土佐守(直年 なおとし 49歳 2930石。長崎奉行から町奉行。この寛政3年に49歳)を召され、来る16日着のよし。柴田七左衛門(康哉 やすかな 2000石 駿府定番から奈良奉行)も召され、こちらは19日着のよし。小田切は町奉行、柴田は奈良奉行。遠国も折々は勤めるとよい。
(町奉行には)目付からばかり任命されるときまっていてはよくない。小田切も、長崎奉行から抜擢……ぐらいのことはありそうだ、といっていたよし。
一、町奉行は目付を勤めていない者はなれない。だから長谷川平蔵の目は絶対にないだろう、との噂が流れている。
ところがこのたび小田切(土佐守直年)が拝命し、目付の経験のない町奉行が誕生した。
いやいや、以前にも山田肥後守(利延 としのぶ。2500石。作事奉行から寛延3年(49歳)~宝暦3年(53歳)の3年半町奉行)のように目付を経ないで町奉行になった先例もある、などと不自由なことがいわれているが、その任にふさわしい人材がいたら、どこからでも登用したらいいではないか、との声がもっぱらだ。
大坂へは長谷川平蔵が行きそうなものだ、あれもせめて大坂へでも行かなければ、腰が抜けようと噂されている。
総体にお役人は平蔵を憎んでいる様子。
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