徳川将軍政治権力の研究(8)
2007年8月19日[徳川将軍政治権力の研究(5)]に引用した、宝暦8年(1758)10月7日付の『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)』には、もう1項目あった。
一 御用番退出相済候後、田沼主殿殿被出、羽目之間ニ而被逢候、先刻之趣相模守(堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)殿とも被談候処、右之趣ニ而ハ何レニも長門(本多長門守忠央 ただなか 西丸若年寄 事件当時・寺社奉行 遠州・相良藩主 51歳 1万5000石)一存にも無之、一統江咄も有之候得者、長門者引分之分へ入可然候、明日相模守殿内伺致候様被申、左候得者、最初願書消印之義も拘り候と被申候(後略)
I氏が添えてくださった<読み下し>文---。
一 御用番退出相済み候後、田沼主殿どの出でられ、羽目の間にて逢われ候、先刻の趣相模守(堀田正亮)どのとも談ぜられ候処、右の趣にては何れにも長門(本多忠央)一存にもこれにく、一統へ咄もこれあり候ことに候えば、長門は引き分けの分へ入れて然るべく候、明日相模どの内伺いたし候様申され、左候えば最初願書消印の義も拘り候と申され候(後略)。
誤読をおそれず、現代文に置き換える。
老中の方々が退出され、御用部屋へ入っていた田沼主殿頭意次(おきつぐ)どのも出てこられたので、羽目の間で打ち合わせした。主殿頭どのが申されるには、先刻報告を受けた、本多長門守忠央(ただなか )が寺社奉行時代に、八幡藩から相談された、濃州・郡上郡の石徹白の事件のことを、長門守はほかの寺社奉行一統(青山因幡守忠朝 ただとも 51歳 丹後・篠山藩主 5万石と、鳥居伊賀守忠孝 ただたか のち忠意 ただおき 寺社奉行 43歳 下野・壬生藩主 3万石)へも話したかどうかについて阿部伊予守正右(ただすけ 寺社奉行 備後・福山藩主 36歳 10万石)が確かめた結果、一統へも咄をしいるとのことなので長門守は引き分:け分に入れてよかろうと、明日、老中首座・堀田相模守正亮(まさすけ 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)どののお耳にも入れ、伺ってみようと申され、そういうことだから最初の願書の消印の義もこだわると申された(後略)。
上記の文中にも現れた---「引き分け分」とさらに「下附」について、2007年8月19日[徳川将軍政治権力の研究(5)]に意味が不明と端書きをしておいたら、I氏がわざわざメールをくださって、
引き分けは石徹白の一件との切り離し=分離の意味ではないか。この件を切り離せば、罪は軽くなる。下附はよくわからないが、付属の書類のことかも。出来(しゅったい)=完成という言葉からすると書類のようなものが考えられるが?
とのこと。
さて、主殿頭意次が明日内伺いに行く老中首座・堀田相模守正亮の個人譜と、堀田家の『寛政譜』を掲示しておく。家祖は、堀田加賀守正盛(まさもり)の三男(久太郎 のち正俊 まさとし)で、春日局の養子として幼年期を大奥でおくっているほどの有力者。
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