新編物語藩史 八幡藩
田沼主殿頭意次(おきつぐ)が介入した、石徹白(いとしろ)の『白山中居(ちゅうきょ)神社』(岐阜県郡上市白鳥町石徹白2-48 URL)をめぐる紛争の詳細を知るために、岐阜県立中央図書館へ資料を読みに行く計画を立てていた。
地元のことは地元の図書館---という体験を、静岡県立中央図書館で経てきたからである。
ところが、近くの区の図書館で偶然に手にした、『新編物語藩史 第五巻』(新人物往来社 1975.7.1)に、(当時、誠心女子大学助教授)高牧 実さん執筆の[八幡藩]に、知りたかった経緯はほとんど書かれており これですますことに、ずるをきめこんだ。
郡上八幡に農民一揆が発生する寸前の宝暦2,3年(1752,3)ごろ、おなじ金森家の領内・大野郡白鳥村の白山中居神社でも、神主の上村豊前と社家(氏子?)のあいだで紛争が起きていた(先の記事の石徹白豊前は上村豊前に訂正)。
要因は、村人のあいだに浄土真宗の門徒になる家がふえ、村民の寄進による道場を建てようとしたのに対し、神主の豊前が京都の吉田家の後援を請い、村の支配権を確立しようとしたことにある。
豊前から賄賂などを受けた八幡藩寺社奉行・根尾甚左衛門は、「手代・片重半助を石徹白へ派遣し、杉本左近をはじめとする主だった社人に対し、今後は上村豊前に従うようにと命じた」
奉行の支持をうけた豊前は、神社の山林の造営用神木から社家所有の木まで伐採をはじめたので、反豊前派は採伐の停止を藩庁へ嘆願したが聞き入れられなかった。
幕府の寺社奉行・本多長門守忠央(ただなか)へ訴状した左近らは、金森兵部少輔頼錦(よりかね)が藩主の郡上八幡藩へ引きわたされた。
八幡藩は、12月に反対派89軒を飛騨国白川方面へ追放。503名の老弱男女は雪中を放浪の末、飢餓・凍死した者72名におよんだ。
美濃国厚見郡芥見村(現・岐阜市)に潜んで機をねらっていた左近は、宝暦6年(1756)8月、江戸へ下って、登城する老中・松平右近将監武元(たけちか)へ駕籠訴、しかし、管轄は寺社奉行と、本多長門守忠央へ引き渡される結果に終わった。
それでも反豊前派は、箱訴を4度もやるなど初志を貫いた。
箱訴とは、八代将軍・吉宗が創始したという、評定所前の目安箱のことであろう。投書は厳封のものを将軍が直披することになっていた。
(赤○=評定所 近江屋板 池波さんが愛用していたのは、これ)
反豊前派の投書は、とうぜん、側御用の田沼意次の目に触れる。将軍が懸念しているという口実のもとに、本多長門守忠央が調べられる。
[八幡藩]も、「幕府は左近派四度目の箱訴の前日、郡内の農民騒擾および石徹白事件を評定所で取り上げ始めていた」と記している。
こうして、2007年8月12日の[徳川将軍政治権力の研究]につながったのである。
石徹白事件の関係者の結末を引用する。
幕閣側
・本多長門守忠央 当時、寺社奉行 領地召し上げ 預け
忠央の養子・兵庫は改易
八幡藩側
・根尾甚左衛門 家老 死罪
・片重半助 手代 死罪
白山中居神社側
・上村豊前 神主 死罪
社家側
・杉本左近 30日の押込
ほに数名が処罰
幕府にとっては重罪にあたる農民一揆を田沼意次は、悪人というものが存在している石徹白事件の再吟味の形で、側面から端緒をつかむ作戦だったようである。
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コメント
郡上一揆の発端が「石徹白」事件にあったのですね、
内容的にちょっと違うように思うのですが、郡上一揆の処罰者の中に根尾甚左衛門や片岡重助も一緒にはいるのですね。
老中や幕閣、藩主が厳しい採決を受けてますが、やはり農民はもっと過酷な処罰です、駕籠訴、箱訴をした農民は獄門死罪が十数人、100人以上が処分されてます。
これで農民が勝訴したことになるのでしょうか。
結局検見法は行われたようですから。
ちょうど郡上八幡は今、「郡上踊り」の盆踊りで賑わっております、郡上より少し北の白鳥町でも「白鳥踊り」の真っ最中です。
偶然今年は踊りに行かないとかと誘われたのですが、「白鳥おどり」は飛んだり、跳ねたり、駆け出したりと大変アップテンポの元気の良い踊りだと聞いて
ついていけそうもないので辞退しました。
{Who’sWho」 で郡上一揆がこんなに話題になるのでしたら実際に白鳥町へ行くべきでした。
盆踊りの期間にこの一揆を伝えた「宝暦義民太鼓」が演奏されるそうです。
ちょっと引っかかるのが本多長門守忠央が領地没収になりますが、その領地相良は田沼憶次へ与えられるのですね。???
投稿: みやこのお豊 | 2007.08.22 14:05
やっと一つ---石徹白事件が解決したといっても、上村豊前がなぜ、私利に固執したが未詳です。
女に狂って金がひつようになったか、国学に凝って思想的に独善になったか、権力欲にとりつかれたのか---やはり、石徹白村へ行って調べないといけないのかも知れませんね。
人間の欲求は、図りしれません。
投稿: ちゅうすけ | 2007.08.22 18:49