『甲陽軍鑑』(2)
『甲陽軍鑑』から学んだことの第一に、〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 29歳)は、
---将たるものの器量。
をあげた。
たしかに、東海道・六郷の渡しで逢った〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 45歳=当時)お頭の器量は、将たるにふさわしい大きさ、肌あいの柔軟さであった---もっとも、そのときは、銕三郎(てつさぶろう 22歳=当時)は、煙草をすすめてくれた小柄な40男が喜之助とはしらなかったのであるが。
【参照】[明和4年(1767)の銕三郎] (9)
『孫子』にはなんとあったか?
冒頭に、こうある。
将者、智信仁勇厳也。
将たるものは、英智にすぐれ、部下に信頼されており、部下へのおもいやりが篤く、どんな事態にも勇気を忘れず、掟(規律)を守らせる厳しさを備えていなければならない。
〔蓑火〕のお頭が、言いつけを破った〔伊庭いば)〕の紋蔵 (もんぞう)を放逐したのも当然の処分である。
紋蔵にしたがって膝元を去っていった4人が火盗改メに捕縛されるのを、拱手して冷然と見ていたのも、うなずける。
しかし、〔中畑〕のお竜を、いくら盟友とはいえ、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう)へ譲りわたしたのは、どういう考えからであろう。
お竜は、そのことには答えなかったから、銕三郎もあえて、深追いしなかったが---。
ただ、備前・岡山の浪人あがりの栄五郎(えいごろう 30がらみ)という名がお竜の口から洩れたことからの推測だが、その浪人の智力と胆力、それに剣の腕を〔蓑火〕が買っているらしい。
〔殿さま栄五郎〕とまで、尊称されているそうな。
軍者(ぐんしゃ)が3名になったようなものである。
3名はならび立たないと、昔から言われている。
それと、お竜は、お勝(かつ 27歳)のことで、珍しくドジをふんだ。
銕三郎がいた渡船場の茶店〔小浪〕で、うっかり、料亭〔平岩〕を推測させる地名を口走ってしまった。
引きこみにはいっていたお勝の所在を捜していた、銕三郎に〔平岩〕が発覚(バ)れた。
お勝は退(ひ)かざるを得なかった。
お勝は、雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕もしくじっている。
【参照】〔平岩〕の引きこみ失敗---[〔うさぎ人(にん)〕の小浪] (7)
[蓑火(みのひ)のお頭] (8)
お竜は、自分から責(せ)めをとって身を退(ひ)くことを〔蓑火〕へ申し出たのであろう。
〔蓑火」の喜之助としても、掟ての手前、認めるしかなかった。
お竜の言っていた、
---一つ。働きに対する褒章の公平---と。
〔公平〕ということでは、罰もそうでなければなるまい。
しかし、お竜の才智をおしんだ蓑火は、盟友〔狐火〕の勇五郎に、預けるような気持ちでゆずったのではなかろうか。
「これからも、逢えますか?」
と訊くと、お竜は、
「私のほうから、お願いします。〔狐火〕のお頭からも、長谷川さまとの連絡(つなぎ)を絶やさないように、申しつけられております」
お竜は、綾瀬川河口の木母(もくぼ)寺に近い墨田村の、かつてお静が囲われていた寓居に住むようにいわれたらしい。
お勝は、どこかの料亭に職をえるだろうが、あそこから通える料亭というと、木母寺境内の〔植木屋〕半左衛門---略して〔植半〕か〔武蔵屋〕清五郎であろう。
(木母寺境内の料亭〔植半〕と〔武蔵屋〕)
しかし、〔平岩〕の女将・お信(のぶ 45歳)が、すでにしゃべりまくっていると、どことも手びかえるであろう。
(明日にでも、女将に逢って口止めしておかねば。そうだ、ついでに、こんどのお仲(なか 34歳)の月一の紋日に、連れていってご馳走になることを約しておくかな。近くの隅田川の芦の茂みに舟を入れて、春画のとおりのことをやってみて、お仲を喜ばしてやるか)
(栄泉『墨田川』 イメージ)
結句、お勝は、銕三郎の口ぞえで、墨田川際の寺島村から渡しで渡った対岸・橋場の船宿〔水鶏(くいな)屋〕に通うことになった。
【参照】[お静という女] (5)<
【ちゅうすけ注】『甲陽軍鑑』にご興味がやお湧きになったら、大和田哲男さん『甲陽軍鑑入門』(角川ソフィア文庫 2006.11.25)をおすすめする。江戸初期から最近までの『甲陽軍鑑』の史料性についての変化、読みどころなどがやさしく説かれていて、さすが---とおもわせる。
大和田さんの長谷川家についての史料を駆使しての考察もすばらしいが、これは、日を改めて紹介しよう。
| 固定リンク
「219参考図書」カテゴリの記事
- 『孫子 用間篇』(2008.10.01)
- [御所役人に働きかける女スパイ] (2)(2009.09.21)
- 徳川将軍政治権力の研究(9)(2007.08.25)
- 『甲陽軍鑑』(2)(2008.11.02)
- 『翁草』 鳶魚翁のネタ本?(2009.09.24)
コメント