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2008.07.25

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(9) 

銕三郎(てつさぶろう 22歳)が、六郷(ろくごう)の渡しへついたのは、五ッ(午前8時)をまわっていた。
南本所を発(た)ってから、ほとんど速足(はやあし)の歩きづめである。
今夜の宿を、江戸・日本橋から12里12丁(約50km)、藤沢宿を予定していたための急ぎ足であった。

その藤沢宿は、いまの時期は、参勤交代の下り・上りが多いから、暮れないうちについて、泊まれる旅籠をさがさなければならない。
そうおもいながら、渡し舟が岸を離れるのを、じりじりしながら待っていた。

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六郷の渡し場 『江戸名所図会』 塗り絵師]:ちゅうすけ)

その姿がよほどに目立ったのか、45,6歳に見える小柄で温和そうな男が、、
「お若いお武家さま。いま、向こう岸の舟着きで客をおろしている渡舟が、新しい客を乗せて岸を離れないことには、この舟は出ません。お急ぎのご様子ですが---」
「見苦しいところがお目にとまったようで、相すみませぬ」
すなおに頭をさげると、
「手前のほうこそ、余計な口出しをして、お許しを---」

小柄な中年男は、供の若者になにかいいつけた。
供は、げじげじ眉で、もみあげからあごにかけて剃りあとも青あおと濃い若い男で、荷の中から煙草をとりだし、
「お頭から、一服差し上げろとのことです」
差しだした手首も、毛むくじゃらけ。
指の表側にまで長い毛が生えているところをみると、体毛はおしてしるべしだ。

「ご親切、痛み入りますが、不調法で---」
「ほう。いまどきのお若い方にしては珍しい」
お頭と呼ばれた40男が、さも、感心したふうに首をふる。
「柳営は禁煙ゆえ、煙草ぐせのある者は、出仕したときに苦しむと申して、父が許してくれません」
「ご直参の武家方でございましたか。これは、とんだご無礼を---」
「なに、失礼は拙のほうで---」
(供も連れない一人旅の武士、何とおもわれたことか)

舟が岸を離れた。
長助どん。わしも、舟中では煙草はひかえておこう」
「へい」
長助(23歳=当時)と呼ばれた毛むくじゃらは、煙草をしまった。

長助にお頭とうやまわれている40男が、銕三郎をさとすでもなく、ひとりごとのように言った。

「しかし、煙草というのは便利なものですな。いままで存じあげてもいなかった、お逢いしたばかりのお武家さまへ、煙草をおすすめしただけで、こうして話の糸口がほぐれます。あなたさまが煙管におつめになるのは、1文するかしないかの寸量です」
「なるほど。拙のように、不調法な者でも、それなりに会話の糸口にはなりますね」
「泰平の世が100年より、もっとつづきましたから、人びとには、こうして、遠出や旅をたのしむ機会(とき)がふえました。見知らぬご仁とのおつきあいもふえるというものです。その中には、おのれの生き方を変えてしまうような妙案が、ふくまれていることもありましょう」

参照】煙管について---2008年1月29日[ちゅうすけのひとり言] (2)

銕三郎には、この男のものの見方が、天啓の一つとなった。
長谷川家はそうではないが、なるほど、男はもとより、むすめも母親の多くが煙草をたしなむ世の中になっている。それだけ、気をかるくする煙草の効用がみとめられているのだ。
おのれは吸わなくても、煙草を携えて、一服すすめ、つきあいの糸口とするのも悪くない)

ちゅうすけ注】このときの〔蓑火みのひ)〕の喜之助の言葉がよほど銕三郎の記憶にこびりついたのであろう、史書によると、長谷川平蔵=鬼平が江戸の町民から絶大な支持をうけたのは、町の番所が捉えた犯人は、番所にとどめては町会のものいりになるから、時刻かまわず、火盗改メの屋敷へ連行してくるようにと触れた。
実際に連行していくと、当直の同心が、「遠路、ご苦労であった」と、蕎麦の出前をとり、煙草盆をすすめたという。
2007年9月2日[よしの冊子(ぞうし)](隠密はびこる)の最後尾。

対岸の久根崎(現・川崎市川崎区旭町)の舟着きで、会釈をして別かれた2人づれの、品のいい小柄なほうが信州・上田生まれの大盗・〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 45歳=当時)、供の若者は美濃国方県郡(かたがたこおり)の尻毛(しっけ 現・岐阜市尻毛)生まれで、のちに独立をゆるされて〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門(ちょうえもん)と名乗った男とは、銕三郎は知るよしもなかった。

参照】〔蓑火(みのひ)〕の喜之助
〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門

もちろん、〔蓑火〕も〔尻毛〕も、若い武家が、20年後に、火盗改メのお頭となって自分たちに深くかかわった長谷川平蔵宣以(のぶため)とは想像もしなかった。

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(青〇=左:久根崎舟着き 右:六郷舟着き 赤〇=大師河原道印石
道中奉行製作 東海道分間絵図 川崎宿 寛政年間)

舟着きをあがると、すぐ左手へ入る細い道のとっかかりに、親指をつき立てたような大きな自然石に、
〔大師河原道印石(だいしがわら みちしるし いし〕)
と刻んだ柱石が立っている(上の絵図の赤〇)。
厄除(やくよけ)大師堂への参道道である。

銕三郎は、田圃(たんぼ)の中をくねくねとのびているその道へ入った。
前も後ろも参詣人だが、腰痛・膝の関節痛の治癒を願うのであろうか、杖にすがって歩いている男女が目だった。
阿記(あき 25歳)の病名を、藤六(とうろく 49歳)は書いてよこさなかったが、どこを病んでいるのだろう)

参照】[明和4年(1767)の銕三郎] (6)

祈祷のときに尋ねられたら困るな---とおもいつつ、1里(4km)ほど行くと、こんもりとした木立の中に、平間寺(へいげんじ)の屋根が見えてきた。
同寺が別当をしているのが大師堂である。

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(赤○=右:大師河原道印石 左:厄除大師堂への山門
道中奉行作成 東海道分間絵図 川崎宿 寛政年間)

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大師河原 大師堂 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

参照】縁起は、2008年7月23日[明和4年(1767)の銕三郎 (7)

境内は、ひろびろとしている。
五ッ半(午前9時)前だというのに、参詣人が引きもきらない。 
納所(なっしょ)で、「病気平癒」祈願の護摩(ごま)紙に阿記の名を書き、祈願料をそえて差し出すと、受付の役僧は、形だけの合掌をし、その紙をさっさと三宝に載せた。
三宝にはすでに、数多くの名前札が積まれていた。

_150ちょっとがっかりしながら本堂に詣で、身代(みがわり)お守を一つ求め、携えてきたお守袋へいっしょに入れたが、なぜだか、拍子抜けした気分だった。
(それにしても、真言の宗徒でもない衆が、遠路、これほどに集まるのだから、この世は厄のタネにはこと欠かないということか。浜の真砂と盗人、厄災は尽きまじ---弘めの効用---紋次の仕事だ)

参照】2008年4月26日~[耳より紋次] (1) (2)

物売りの店の者に、往路を引きかえすのではなく、東海道の上り道へ出られる道筋を訊いて、1里の寄り道を取り戻そうとした。

神奈川宿(かながわしゅく)で早めの茶飯をとると、さすがに疲れをおぼえた。

陽がのびている季節でよかった。

長い道場坂(遊行寺坂ともいう)を下るとき、一遍上人の遊行寺へ阿記と詣でたことをおもいだした。
(あのとき、阿記はなにを祈願したのであろう)

参照】2008年2月1日[与詩(よし)を迎えに] (38)
この坂は、巻5[おしゃべり源八]p137  新装版p143ほか。巻15[雲流剣]p188 新装版p194 などに登場。

諏訪明神の前で、右に折れ、遊行寺の黒い山門の前を左にとると境川に架かる遊行寺橋。
これをわたると藤沢宿である。

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(遊行寺=赤○ 青小〇=諏訪明神 境川をわたると藤沢宿
左緑〇=本陣・蒔田源左衛門 右同=脇本陣・長尾屋長右衛門
橙〇=問屋場)

4年前に阿記たちと待ち合わせに使った本陣・蒔田(まいた)源左衛門方には、三河国吉田藩・松平(大河内家)伊豆守信復(のぶなお 49歳 7万石)の国帰りの一行が陣取っていた。
脇本陣の〔長尾屋〕も満杯だった。

蒔田の番頭の口ききで、〔小尾(おび)屋〕利右衛門方がとれた。
晩飯の前に問屋場へ行き、平塚・馬入(ばにゅう)の料理屋〔榎(えのき)屋〕気付で、〔馬入〕の勘兵衛(かんべえ 39歳)あてに、馬入川の渡しにつくのは四ッ(午前10時)前だろうと、速便(はやびん)を托した。
宛名を見て、問屋場の書役(しょやく)が目を丸くしたから、勘兵衛の威勢は、ますますあがっているようだ。

参照】〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛は、2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)

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