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2008.07.24

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(8) 

暁闇(ぎょうあん)の七ッ(午前4時)に、南本所三ッ目通りの屋敷を出た。
母・(たえ 42歳)と養女・与詩(よし 10歳)、女中・有羽(ゆう 32歳)、それに下僕・吾平(ごへえ 47歳)たちに、かぶき門の外まで見送られた。

参照】2008年3月28日~[於嘉根(かね)という女の子] (5)

与詩が小さなものを差し出した。
阿記(あき)姉上に、於嘉根(おかね 3歳)ちゃんにって、差し上げてください」
自分が縫ってつくったお手玉が2つだった。
与詩は、もう、自分で針がもてるようになっている。

阿記どのに、与詩は、もう、おむつは使っていないと、伝えておく」
「兄上の、意地悪」

参照】2008年1月28日~[与詩(よし)を迎えに] (35) (36)

気がついてみると、4人とも、阿記(25歳)を見知っている。
うち、3人は、母親となっていた24歳(=当時)の阿記だ。

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(歌麿『針仕事』 阿記と於嘉根のイメージ)

ひきかえ、銕三郎(てつさぶろう 22歳 のちの小説の鬼平)のなかの阿記は、若妻と娘のあいだを行ったりきたりする、芦ノ湯小町を面影とどめた、21歳のおんなのである。
(おもいでのなかのおんなは、どうしてもそうなる。おもいだしたときのお芙沙は、14歳のおれから見た、あの夜の熟しかかった25歳のお芙沙だし、おは18歳のお---いや、おはまだ19歳だから、いま会ってもそれほど変わってはいまいが---)

【参照】2008年1月2日~[与詩(よし)を迎えに] (13) (14) (15)
2008年6月2日~゜お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)

短い道中でのあれこれの場面も---21歳のままの阿記だった。
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(歌麿『遊覧』 鎌倉への阿記の道中イメージ)

しかし、昼間の阿記よりも、夜の阿記とのほうをおもいだすことが多い。
そのたびに、股間が熱くなるので困る。
まあ、今日は旅用の野袴だから、そうなっても目立たないが---。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記のイメージ)

小名木川の河口に架かる万年橋を南へわたるころには、もう、明るくなってきていた。
早朝の涼しい風は、乾いていて、肌にこころよい。

わたる人影もない永代橋の東詰に、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 35歳)が待っていた。
「お気をつけて、行ってなせえまし。平塚の〔馬入(ばにゅう)の勘兵衛(かんべえ 39歳)どんには、荷物持ちの若(わけ)えのを出しとくように、小田原側の宿場問屋場へは、仙次(せんじ 22歳)の奴に、お待ち申しあげろと伝えてありやす」
仙次は、権七が箱根の荷運び雲助をしていたときの子分格の若い男である。

参照】〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛は、2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)
箱根の荷運び雲助の仙次は、2008年4月1日[初鹿野(はじかの)〕の音松] (2)

仙次どのも、そろそろ、兄貴分らしくなっていることであろう。ああいう仕事をしている人は、いまどきの旗本の若者とちがって、一人前になるのが早いからな)

「なにかと、恐縮」
阿記さまの具合がてえしたことがねえように、祈っておりやす。こいつぁ、例の足薬でやす。お使いくだせえ」
「かたじけない。この秘薬〔足速(あしはや)〕があるとは、こころ強い」

参照】足の凝りほぐしに効く妙薬〔足速(あしはや)〕は、2008年1月4日[与詩(よし)を迎えに] (15)

3年前まで棲んでいた鉄砲洲築地の屋敷へ通じる、稲荷橋をわたるころには、東の空に陽がのぼりはじめていた。
大川に、金色の帯が走る。
橋は、京橋川のほうにに架かっている。
右へ、陽を背に、京橋川ぞいに東海道へ。

品川から1里(4km)の大森は六ッ半(午前七時)すぎ。
名物の麦わら細工屋がならんでいる。

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(大森の麦藁細工の店 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)

いのししが目にとまった。

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(麦藁細工の亥、虎、熊)

(そういえば、阿記は、寛保3年(1746)生まれの亥(い)だったなあ。今年も2まわりめの亥年(いどし)だ。縁起ものだから、荷になるけど、一つ、買って行ってやるかな)
「干支(えと)を覚えていてくださいましたのね。うれしい」
そう言って喜ぶ、阿記の顔がうかぶ。

値段をきくと、5匁銀1枚だという。
5匁銀は、幕府が去年から鋳造をはじめ、12枚で1両と定めた。
銭(ぜに)は、いま相場がさがり、1両5000文前後だから、5匁銀1枚は420文ちょっと。

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(明和5匁銀)

いのししを手にとってはあったところへ戻し、また手にしている銕三郎に、店の亭主は、
「かさはありますが、軽いので、さして荷にはなりません。なんでしたら、お帰りのときまでお預かりしておきますが---」
「帰りでは、用がたりないのでな」

420文はちょっとした旅籠1泊2食・酒つきの値段である。
(これから先、どういうことが起きるかしれない。4年前の旅では、先々に父上が金を預けておいてくださったが、こんどは、わけがちがう。無駄づかいはひかえよう)

銕三郎がさらに思案していると、
「お武家さまですから、特別に1割お引きして、370文では?」
「いや---」
「350文がぎりぎりでございます」
「うむ。損をさせても悪いから、またのことにする」

銕三郎は、いささかこころ残りだったが、おもいきって、店をあとにした。

参照】文庫巻7[泥鰌の和助始末]で、〔泥鰌(どじょう)〕の和助(わすけ)が市ヶ谷田町の〔不破(ふわ)〕の惣七(そうしち)を松岡(まつおか)先生のお引きあわせといって訪ねたときに、身分証明の代わりに示したのが、大森村の名産・麦わら細工の鳩。p162 新装版p170
巻11[穴]で、〔平野屋〕の主人で元・〔帯川(おびかわ)〕の源助が、隣家〔壷屋〕の金蔵へ、かじりかけの甘藷(さつまいも)とともに置いてくる麦わらのねずみ3匹も大森村の細工もの。p122 新装版p128

(そういえば、阿記には、亥年らしく、おもい立ったら、つきすすむことしか考えないところがあったなあ。夜の床でも---。寅(とら)の拙は、阿記の狂おしいほどの熱情に、つい、あわせて、情けをそそぎこんだものだ。だからこそ、よいおもいでになっている)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記の事後のイメージ)

(それにしても、なにかというと、睦みあっているときの場面が、まず、うかぶのは、若さのせいかな。それとも、おからこっち、遠ざかってるからかな。われながら---)
「情けない。だらしない」
おもわず口にでてしまい、行きかった中年男の旅人が、不審顔で銕三郎を見て行った。

照れて、おもわず見上げた空に、鳶がゆうゆうと大きな輪を描いていた。
初夏も終わろうとしている。


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