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2005.08.15

剣客・松岡重兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻7に収められている[泥鰌の和助始末]で、実の息子・磯太郎(23歳)を自殺に追いこんだ南新堀(中央区)の紙問屋〔小津屋〕へ、仇討ちのつもりで盗みにはいろうとしている〔泥鰌(どじょう)〕の和助(60がらみ)を、手助する剣客・松岡重兵衛である。
高杉道場の食客をしていたときの松岡重兵衛は、若き日の長谷川銕三郎(のちの平蔵)や岸井左馬之助に稽古をつけてくれた。そして、小遣いに困った銕三郎が、彦十の口ききで左馬之助とともに盗みの手伝いをしようとしたとき、事前に引き止めたこともあった。

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年齢・容姿:50前後。痩身。怒り肩。白いものがまじった髪。居眠りでもしているようなおだやかな顔。
生国:信濃(しなの)国更級郡(さらしなこうり)大豆島(まめじま)村(現・長野県長野市小豆島)
善光寺の坊の和尚が妾に産ませた子。p181 新装版p189 仏門の庶子がどのような経緯で一流の剣客となったか、想像するだけでもわくわくするではないか。
明治30年に市制を敷いたとき、古里(ふるさと)、柳原、淺川などの村が『旧高旧領』で検索にひっかからなかったので、つぎにヒットした小豆島村を採った。

探索の発端:息・辰蔵(20歳)が通っている市ヶ谷・左内坂上(新宿区)の坪井道場へあらわわれた松田十五郎と名乗った剣術遣いの剣筋を聞いた鬼平は、それが松岡重兵衛の変名と悟り、辰蔵に住いを突きとめるようにいいつけた途端、さっと消えられてしまった。
重兵衛が立ち寄った市ヶ谷田町1丁目の鰻屋[喜田川]も店を閉めて逐電していた。が、辰蔵の悪友・阿部弥太郎が鰻屋の女房が天現時寺(港区南麻布4丁目)の門前で茶店をだしているのを見つけてから、見張りがつけられた。

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広尾毘沙門堂 天現寺(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

結末:紙問屋〔小津屋〕の盗みは、〔泥鰌(どじょう)〕の和助がほどこしておいた仕掛けで上々にはこんだが、仲間に入れた〔不破(ふわ)〕の惣七の裏切りで、引き上げてきた亀戸村(江東区)の百姓家に、盗めき金を横取りしようと不逞浪人たちが待ちかまえていた。
(参照: 〔不破〕の惣七の項)
、〔泥鰌〕の和助は斬られて死んだし、松岡重兵衛も鬼平に看取られながら「退屈は死ぬよりつらかった」といいのこした。

つぶやき:この篇の主題は松岡重兵衛のいまわの言葉「退屈は死ぬよりつらかった」である。これをどう受けとめるかで、読み手の生き方が問われる。
目標をかかげて精進している読み手は歯牙にもかけまい。
定年生活に入り、しなければならないこともなく日をおくっている人には、『鬼平犯科帳』の再読をおすすめする。

なお、この篇は、寛政4年(1792)の暮から翌5年正月へかけての事件である。史実の辰蔵は23歳。正月には24歳となってい、この年、永井亀次郎安清の養女を娶っている。

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コメント

「退屈は死ぬよりつらかった」って、退屈する間もないので、私には到底理解できない。

松岡重兵衛は「本所の銕と左馬之助を叱ったとき」既に取り返しのつかない自分の人生を諦めていたと思うので、自ら目標が持てなくなっていたのでしょう。平蔵に看取られてやっと安堵の境地になったのだと思います。

投稿: みやこのお豊 | 2005.08.16 06:43

そうそう、私にも全く理解不能ですよ>退屈

投稿: いくっち | 2005.08.19 16:24

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