ちゅうすけのひとり言(2)
これは、まったくの独り言である。
史実の長谷川平蔵宣以(のぶため)と、小説の鬼平を調べていて、ふと生じた疑問や、こうではないか---と思いついたことを、だれにいうともなく、呟いている、そのメモみたいなものと言っておく。
だから、無責任な発言である。ちゅうすけ自身だけが興味をもったことに、すぎない。
いつ書き留めるという計画も、ない。折りにふれて、呟く。
鬼平が愛用している煙管(きせる)についてのメモである。
鬼平の悪癖は、寝煙草だという。
亡父・宣雄の遺品で、携帯用にやや小ぶりにつくられた銀煙管を用いる。
宣雄が京都西町奉行として赴任していた時、新竹屋町寺町西入ルに住む煙管師・後藤兵左衛門に特注したもので、裏家紋である〔釘貫(くぎぬき)〕を浮き彫りにさせた。15両支払った。(〔文庫巻6[大川の隠居]p1836 新装版p192)
【ちゅうすけ注:】 [大川の隠居]を執筆時の池波さんの1両の換算額は5万円前後だったから、15両だと75万円から80万円相当。裏長屋の5人家族が1年はゆうに暮らせるほどの値段だったといえる。
〔釘貫〕の文様は、鎌倉期の釘抜きからきていると。
煙管師の後藤兵左衛門だが---。
その前に、池波さんが『鬼平犯科帳』を連載する自信をもったのは、西山松之助編『江戸町人の研究』(吉川弘文館 1973年から順次刊行)の第3巻に『江戸買物独案内』の全図版が収録されていたからであろうと、つい最近までおもっていた。
盗賊が押し入る店の所在、屋号などが参考になる。たとえば、藍玉問屋は本八丁堀、船松町、本船町、三十間堀、深川佐賀町といった、船の便のいいところへ集中していた---といった地理的なこともわかるからである。
鬼平愛用の煙管が、 [大川の隠居]でやっとあかされた事情は、こうであろう。
故・花咲一男さんという、江戸の風俗研究家がいらっしゃって、『江戸買物独案内』の復刻につづいて、1969年ごろ、京都版である『商人買物独案内』を会員制で頒布された。
(花咲一男さんが復刻頒布した『商人買物独案内』)
池波さんは、これを入手した(つまり、会員になった---ということ。江戸版のときはまだ会員ではなかったから、あとで、相当な出費で出物を求めた。それまでは西山先生編『江戸町人の研究』第3巻所載分ですましていたのだろう)。
『商人買物独案内』の〔煙管〕のページは、つぎの図版のとおりである。
19枠の煙管問屋の名刺広告の中に、ただ1枠、煙管師・後藤兵左衛門が出ている。つまり、有料広告をしている。
各問屋には、それぞれつくった製品を納める煙管師が数多くいるのだが、彼らは、京の職人として顔をかくしているのに、後藤兵左衛門は、しゃしゃり出た感じである。
いや、言葉が悪かった。宣伝ということの重要さを、細工師でありながら心得ていた、近代的な精神をもった煙管師であった。
池波さんが、京の煙管師の名前を小説に採りこむとすると、彼しか実名がわからない。
だから、 『剣客商売』でも、秋山小兵衛も、兵左衛門の煙管を愛用していたが、新妻・おはるの父が所望したので泣く泣くゆずり、自分は、名工・兵左衛門のところで修行して江戸で細工をしている、下谷・坂本3丁目の裏に住む友五郎作ので間に合わせる(文庫巻4[突発]p268 新装版292)。
愛煙家の池波さんとすれば、兵左衛門は名工であってほしい。
しかし、なぜ、京都の煙管師でなければならないのか。先日、言及した〔下(くだ)りもの〕崇拝ということもあるが、ここは、池波さんの京都好き---ということにしておきたい。
『江戸買物独案内』(1824刊)には、煙管問屋と肩を並べて、数多くの近代的PR志をもった煙管師たち(緑○)がいたのだが。
(『江戸買物独案内』の煙管問屋の部 緑○=煙管師)
いや、呟きたいのは、後藤兵左衛門のことではない。
このことは池波さんの好みの問題だから、読み手がとやかくいうことではない。
このブログの2008年1月1日[与詩(よし)を迎えに](11)で、銕三郎(てつさぶろう)に、
「家では、父上が(酒を)召し上がらないので、ほとんどたしなまいのだが---」
といわせた。要するに、宣雄は倹約家なのである。明和元年(1764 銕三郎19歳)に、築地の500坪前後の屋敷を、南本所・三ッ目の1238坪と交換するために1000両近い差額を支払っている。ふだん、質素にしていないと貯まる金額ではない。
煙草もたしなまなかった---というのが、ぼくの推量である。ヘビー・スモーカーの池波さんにとっては、にがにがしいだろうが。
したがって、後藤兵左衛門に15両も払って、銀煙管をつくらせるはずがない---などと、野暮をいうのではない。
古泉弘さん『江戸を掘る』(柏書房)に、発掘でもっとも多く出たのは、煙管の雁首だったともあるから、喫煙が江戸の庶民のたのしみであったことはわかる。
しかし、火の用心のきびしかった江戸城内でも、喫煙が許されたのであろうか。大たぶを結った大奥の女たちも、新吉原の花魁たちのように煙管を手にしていたのだろうか。
(歌麿『歌撰恋之部』[深く忍ぶ恋]手に煙管の町女房)
(歌麿『娘日時計』[未の刻---午後2時])
(歌麿『婦女人相十品』[煙管持てる女])
このあたりのことを明記したものがあったら、読んでみたい。
【参考】
歌麿の浮世絵は、 『江戸の女』[歌麿・「歌撰恋之部」ほか
【ちゅうすけのひとり言】 その(1) 2008年1月17日
| 固定リンク
「200ちゅうすけのひとり言」カテゴリの記事
- ちゅうすけのひとり言(95)(2012.06.17)
- ちゅうすけのひとり言(94)(2012.05.08)
- ちゅうすけのひとり言(88)(2012.03.27)
- ちゅうすけのひとり言(90)(2012.03.29)
- ちゅうすけのひとり言(91) (2012.03.30)
コメント
京都の『商人買物独案内』に載せている、煙管師・後藤兵左衛門の名刺広告を見ていて2つのことに気づいた。
まず、屋標の〔松皮菱〕。菱の家紋で高名なのは〔武田菱〕。大きな菱が四等分されて四つの菱を形づくっている---逆にいうと、同じ大きさの四つの菱が寄って大きな一つの菱になっている---つまり、4家が力をあわせて---とでも暗示しているみたい。
〔松皮菱〕は、大きい菱の上下に小さな菱が付いて、分家が本家を支えますといった暗示。
〔武田菱〕をくずした菱を家紋にしている家は、武田系の一門に多い。
『寛政重修諸家譜』をあたってみたら、甲斐の後藤が1系統、今川系の後藤が1系統あったが、いれも家紋は藤くずし。
煙管細工師で苗字をもっていて、菱を屋標にしている---ことからの類推だが、武田系の刀鍛冶が武田の滅亡務後、京へ流れついて煙管師になったか。
空想するだけでも、夢がひろがる。
投稿: ちゅうすけ | 2008.01.30 18:49