ちゅうすけのひとり言(1)
これは、まったくの独り言である。
史実の長谷川平蔵宣以(のぶため)と、小説の鬼平を調べていて、ふと生じた疑問や、こうではないか---と思いついたことを、だれにいうともなく、呟いている、そのメモみたいなものと言っておく。
だから、無責任な発言である。
ちゅうすけ自身だけが興味をもったことに、すぎない。
いつ書き留めるという計画も、ない。折りにふれて、呟く。
あるとき、史実の長谷川平蔵が、盗賊探索や尋問の仕方は亡父・平蔵宣雄が火盗改メの役についていた時に手伝って覚えた、と告白しているのを読んだ。『よしの冊子(ぞうし)』だったとおもう
『よしの冊子』という雑書については、膨大な記録から平蔵関連の部分だけを抜粋、現代語訳にして2007年9月2日から10月13日まで36回にわたって、このブログに掲載している。興味のある人はお読みになるといい。松平定信寄りという偏向は大いにあるが、平蔵と同時代のリポートということで、一読の価値はある。
『鬼平犯科帳』には、このことは書かれていない。
そのわけは、『よしの冊子』は、松平家に秘匿されており、写本を中央公論社が『随筆百花苑』の第8巻(1980.11.20刊)と第9巻(1981.1.20刊)に収録した時点では、小説のほうは(文庫所載分でいうと第20巻あたりまで)『オール讀物』への掲載がすんでいたからである。
それと、池波さんは、亡父・宣雄が、先手・弓の8番手の組頭(くみがしら)時代に、火盗改メの加役(助役 すけやく)を命じられたこともご存じではなかったと推察している。
というのは、平蔵宣義(のぶのり 平蔵宣以の継嗣。小説の辰蔵)が[先祖書]を幕府に提出、それを基に編まれた『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』には、その職歴が載っていないからである。
(宣雄の『寛政重修諸家譜』)
つまり、なんらかの理由で、宣義(たつぞう)は、祖父・宣雄の職歴から火盗改メの項を消したということになる。
なぜか? 類推だが、父・平蔵宣以が足かけ8年にもおよぶ火盗改メの職に塩づけで、家産をすっかり傾けた。3代つづけて、自分も火盗改メを命じられるのはたまらない---とでも思ったのかも。
(史実では、家産が傾いたために、宣雄が苦労して手に入れた本所・ニッ目通り・菊川の1238坪の屋敷を、辰蔵の継嗣が手放している)。
父・平蔵宣以の事績は、歿してまだ数年だからみんなの記憶にある。しかし、祖父・平蔵宣雄は歿後30年経っており、幕臣の多くは代替わりしていようから、指摘されることはあるまいとでも忖度したのであろう。
たしかに、『寛政諸家譜』は、宣義のおもいどおりにうまくいった。
しかし、宣雄の想定外のことが起きた。
宣義の没後に、『柳営補任(りゅうえいぶにん)』なんていう、幕臣の任免記録を編むもの好きがあらわれるとは、予想もしていなかった。
その『柳営補任』をじっくり確かめる、すっとん狂の出現も想定外であったろう(このすっとん狂が、すなわち、ぼく---ちゅうすけである)。
(『柳営補任』 先手・弓の8番手組頭の長谷川宣雄と前後)
『柳営補任』 先手・弓8番手組頭に長谷川平蔵宣雄の名があり、
明和8年(1771)10月16日から「火付盗賊改加役(冬場の助役)
と記されている。
もちろん、『柳営補任』の記述がつねに正しいとはかぎらないが、宣雄のこれについては、徳川の正史『徳川実紀』にも同様の年月日が記されているから、まず、間違いない。
それはそれとして、平蔵宣雄にとっても、火盗改メ任期中に、想定外のことがおきた。火事の多い冬場の加役(助役)だから、春になれば、しきたりどおりに解任されるはずであった。
ところが、本役の中野監物清方(きよかた 先手・弓の4番手組頭 50歳 廩米300俵)が、安永9年(1772)2月22日に病死したのである(この日付は公式のもので、実際はもっと前)。
(『柳営補任』 先手・弓の4番手組頭・中野監物清方と前後)
幕府は、長谷川平蔵宣雄を、助役から本役に横滑りさせた。宣雄の想定外とはこのことである。この仁は、経済家---つまり、倹約家だから、出費のかさむ火盗改メは好きではなかったとおもう。まあ、上からの命令だから、仕方なく勤めたろう。
ところが、宣雄にとっても、幕府や江戸町民にとっても、想定外のことが、もう一つ、おきた。
明和9年2月28日---宣雄が火盗改メの本役に横滑りして1週間後に、いわゆる、目黒・行人坂の大火が発生、おりからの強風にあおられて江戸の3分の1以上が焼失した。
放火である。
(江戸の火事 『風俗画報』明治31年12月25日号より)
犯人を、長谷川組が捕縛した。犯人が捕まっても、焼失した江戸の町は補償はされないが、大手柄である。
この功績と手堅い犯人尋問の褒賞の形で、平蔵宣雄は、京都西町奉行に栄進したともいわれている。
放火犯人逮捕に、息・平蔵宣以(27歳)がどこまで関与したかはあきらかでないが、吟味の際には学習したとおもう。
池波さんが省略していることが、もう一つある。
本家の、長谷川太郎兵衛正直(まさなお 宝暦13年=54歳 1450石)の存在である。
『柳営補任』は、先手・弓の7番手組頭だった宝暦13年(1763)10月13日から火盗改メを命じられたとしている。
(『柳営補任』 先手・弓の7番手組頭・長谷川太郎兵衛正直と前後)
宝暦13年10月というのは、銕三郎(てつさぶろう)宣以が、初春に、駿府へ養妹・与詩(よし)を迎えに行って人妻・阿記(あき)と知りあった年の、秋である。
本家の大伯父・太郎兵衛正直が、火付け、盗賊、博打を追捕する火盗改メの役についているのに、分家の継嗣・銕三郎が本所・深川あたりで放蕩していたということが、ぼくには、どうにも理解できないのである。
もし、銕三郎が大喧嘩や博打で逮捕されるようなことがあれば、大伯父にも、監督不行き届きといったお叱りがあるはず。
ということは、銕三郎の放蕩は、偽装ではなかったのか、とも類推できる。いや、そのほうが史実としては筋がとおっている。
ま、そんな観点から、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)〕や〔馬入(ばにゅう)〕の甚五郎(じんごろう)を登場させてみたりしている。
【参考】長谷川太郎兵衛正直の『寛政重修諸家譜
【ちゅうすけからの お願い】
このブログ全体、あるいはこの[ちゅうすけのひとり言]について、コメントをお寄せください。
下欄の[コメント]タグをクリックで書き込み欄がひらきます。
・硬すぎる
・史料が多すぎる
・もっと史料を公開しろ
・やさしすぎる
・もっと小説『鬼平犯科帳』に添え
・小説は読めばわかる、小説に書かれいていないことを書け
・質問に答えられるか
・史実の平蔵と、小説の鬼平の違いを書け
・池波さんの執筆秘話を書け
・池波さんが通った食べ物屋についてもっと書け
----など、どんなことでもコメントしてください。
お蔭さまで、約400件/日のアクセスをいただけるようになりました。
鬼平関連のホームページやブログでは、最多のアクセスです。
お知り合いにも、ぜひ、ご吹聴ください。
| 固定リンク
「200ちゅうすけのひとり言」カテゴリの記事
- ちゅうすけのひとり言(95)(2012.06.17)
- ちゅうすけのひとり言(94)(2012.05.08)
- ちゅうすけのひとり言(88)(2012.03.27)
- ちゅうすけのひとり言(90)(2012.03.29)
- ちゅうすけのひとり言(91) (2012.03.30)
コメント
今日のこのエントリーで、改めて史実と「池波さんの世界」との関係を、充実した史料を裏づけにしてちゅうすけさんがどのように推測されているのか、改めて伺うとやはり改めて整理されて、合点が行きました。
オニヘイアンの探索活動もかなり深い次元に達されていたと思うので、むしろ新参の読者が初めてこちらに来たときに、どこからどう読めば脈絡が追えるのか、戸惑うこともあったかと思います(実際、何人か池波ファンの友人に紹介はしたのですが)。ですから時折こうした「歴史探偵口上」を披瀝されて、「初めて来られた方へ」すぐ目に付くようにトップから大きめにリンクをこのカテゴリに貼られるというのは、どうでしょう。
投稿: えむ | 2008.01.17 10:32
「鬼平犯科帳」というタイトルからすると、途中から見る人は戸惑うことがあるかもしれません。
私も「ずっと続いて読んでないと解らない」という声を聞きます。
えむさんのご提案良いですね。
鬼平を軸にして、多くの資料を基に江戸の史実がより深く探求できて非常に楽しいです。
私はあまりフィクションには興味がありませんが、掲載してくださる系譜や画は個人ではなかなか探せず大変貴重なものと思っております。
投稿: みやこのお豊 | 2008.01.17 23:42
>えむ さん
ご提案、ありがとうございました。
>新参の読者が初めてこちらに来たときに、どこからどう読めば脈絡が追えるのか、戸惑うこともあったかと思います。
ご指摘のとおりです。雑誌の連載だと、「前月号までのあらすじ」とか、「主な登場人物」とかって、編集部がつけますね。
ぜったいに必要とおもいますので、さっそくに試みてみすす。
投稿: ちゅうすけ | 2008.01.18 10:41
>みやこのお豊 さん
ご指摘、ありがとうございました。
なにしろ、3年以上もつづいていて、著書になおすと、5冊分は十分にあります。
したがって、インデックスとサムアップが必要ですね。
幸い、リンクというインターネットの伝家の宝刀がありますから、目次と索引をかねたようなものを考えてみます。
投稿: ちゅうすけ | 2008.01.18 10:45