徳川将軍政治権力の研究(11)
田沼主殿頭意次(おきつぐ)が介入することになった、郡上八幡藩の農民一揆の評定所での再吟味の次第を、深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)』を引用しながら、背景を記述している。
『御僉議御用掛留』の記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。
2007年8月26被日[徳川将軍政治権力の研究(10)]に引用した寛政8年(1758)10月15日の条の『御僉議御用掛留』は2条あり、これは後の条である。
一 九ッ過隠岐(西尾隠岐守忠尚 老中末座 遠州・横須賀藩主 70歳 3万5000石)殿退出済、五人残り居候処、主殿殿御逢候由春作申聞、羽目之間江五人一同出候処、書上ケ之内石井丹下(本多正珍用人)事、尋今少シ可有之候旨年寄衆被申候、其趣主殿殿より被申候様先刻左衛門尉(酒井左衛門尉忠寄 老中 出羽・庄内藩主 55歳 13万石)殿も被仰候哉、定メテ御達も可有之与被申候故、先刻其趣相模(堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)殿・左衛門尉殿退出懸委細御手前様より可被仰聞旨一通り被仰聞候由申候、扨石井丹下事、何レニも近江守(大岡近江守親義 ちかよし 当時、勘定奉行 2120石余)を兵部少輔(金森頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)頼、次郎九郎(青木次郎九郎安清 やすきよ 美濃郡代)江頼候義存、伯耆守(本多伯耆守正珍 まさよし 駿州・田中藩主 49歳 4万石)へ一通申聞耳へ入候事ニ候得共、近江守並豊後守(曲渕豊後守英元 ひでちか 当時勘定奉行 60歳 1200石)抔御預ケニも成候程之義ニも成候得者、其節ニ者心附候而伯耆守へも可心附義ニ候、其節ニも心附方ニ而伯耆守もケ様ニ者被成間敷義ニも可有之哉、左候得者、丹下(石井)取計ニ而ケ様成筋ニ候得者、又今少シ御咎メも可懸候、何レニも此所尋候様ニと年寄衆も被申候由被申候ニ付、委細承知仕候、明日呼出可相尋旨申候(後略)
I氏が添えてくださった<読み下し>文---。
一 九つ過ぎ隠岐(西尾隠岐守忠尚 ただなお 老中末座 遠州・横須賀藩主 70歳 3万5000石)どの退出済み、五人残り居り候処、主殿どのお逢い候由春作申し聞り、羽目の間へ五人一同出で候処、書き上げの内石井丹下(本多正珍用人)こと、尋ね今少しこれあり候旨年寄衆申され候、その趣主殿どのより申され候様先刻左衛門尉(酒井左衛門尉忠寄 老中 出羽・庄内藩主 55歳 13万石)どのも仰せられや、定めてお達しもこれあるべしと申され候故、先刻その趣相模(堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)どの・左衛門尉どの退出懸けに委細お手前様より仰せ聞けらるべき旨一通り仰せ聞けられ候由申し候、さて石井丹下こと、何れにも近江守(大岡近江守親義 ちかよし 当時、勘定奉行)を兵部少輔(金森頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)頼み、次郎九郎(青木次郎九郎安清 やすきよ)へ頼み候義と存じ、伯耆守(本多伯耆守正珍)へ一通り申し聞け耳へ入れ候ことに候えども、近江守並びに豊後守(曲渕豊後守英元 ひでちか 当時勘定奉行 60歳 1200石)などお預けにも成り候ほどの義にも成候えば、その節にも心附き候て伯耆守へも心附くべき義に候、その節にも心附方にて伯耆守もかようには成るまじく義にもこれあるべきや、左候うば、丹下(石井)取り計らいにてニかよう成り筋に候えば、又今少しお咎めも懸かるぺく候、何れにもこの所尋ね候様にと年寄衆も申され候由申され候につき、委細承知仕り候、明日呼び出し可相尋ぬ旨申し候(後略)。
誤読をおそれず、現代文に置き換える。
午後の1時前、老中末座で老齢の西尾隠岐守忠尚(ただなお 遠州・横須賀藩主 70歳 3万5000石)侯の退出をお見送りしたあと、評定所の五手掛(ごてがかり 寺社奉行、町奉行、勘定奉行公事方 大目付、目付)の5人が居残っていたところ、田沼主殿頭どのが逢いたいとの伝言を、同朋(城中の茶坊主)・春作がもたらした。
5人、頭をそろえて羽目の間(城中配置図
田沼どのが言われるには、書き上げ書のうち、石井丹下(たんげ 前老中 駿州・田中藩主 本多伯耆守正珍 まさよし 用人)のこと、いますこし尋問するように年寄(老中)衆が申されたのは、自分からの指示と、先刻、老中・酒井左衛門尉忠寄(ただより 出羽・庄内藩主 55歳 13万石)侯も仰せられたと思う。
あらためてお達しもされようとも申され、先刻老中首座・堀田相模守正亮(まさすけ 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)侯、酒井左衛門尉侯が退出がけに、委細は田沼主殿頭さまからお聞きするようにいわれた。
さて、石井丹下のことだが、郡上八幡藩主・金森兵部少輔(頼錦 よりかね)から頼まれた、当時、勘定奉行だった大橋近江守親義(ちかよし 2120石余)が、郡代・青木次郎九郎安清(やすきよ)へ処置を頼んだ件と知って、その旨を一通り、藩主で老中だった本多伯耆守の耳へ入れていた。
この事件に関係した前勘定奉行・大岡近江守親義も曲渕豊後守英元(ひでちか 60歳 1200石)もすでに役を免じられてお預けになるほどの大きな事件に発展しているのだから、その節、本多伯耆守もことの重大さに気づくべきであった。
もし、気づいて適当に処置していれば、本多伯耆守も老中罷免・逼塞といった処分にはならなかったはずで、そのことを思えば、用人の石井丹下の取り計らいのまずさにも原因があるから、いま少し吟味してみる必要があるなと、老中方も申されていると田沼意次どのが申された。
委細承知仕りましたとご返答し、明日、丹下を呼び出して尋問いたしましょうと申しあげた。
『徳川将軍政治権力の研究』における『御僉議御用掛留』の引用はこれで終わっている。
これでは、前にも記したが、本多伯耆守の老中罷免・逼塞の罪状の所以は、じつのところ分明しない。著者の深井さんとすれば、田沼介入の経緯があきらかになればいいわけである。
ものごとを人間的のしがらみ的に見る当方とすれば、納得できない。もちろん、資料がないところは、しかるべく、想像でおぎなうしかない。これは学術論文でも歴史書でもなく、単に、長谷川平蔵父子の言行を想像しているたわごとにすぎないのだから。
『御僉議御用掛留』に、なんということもなく、老侯・西尾隠岐守忠尚の名前がでた。いうまでもなく、同姓のぼくとは無縁の殿さまである。この老侯の孫・隠岐守忠移(ただゆき)が、田沼意次の三女を室に迎えたことはいつか記した。
『鬼平犯科帳』では、文庫巻4[敵(かたき)]に、この藩の北本所の下屋敷が登場する。〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵の盗人宿がその前にあった。隠岐守忠移の時代である。
後学の方のために、『寛政譜』から、西尾家家譜と老侯の個人譜を掲示しておく。
(赤○=忠尚 緑○=忠移)
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