相良の大沢寺
幕府評定所(最高裁判所)の五手掛(ごてかかり 寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付、目付)で詮議していた(郡上)八幡藩(金森家 3万5000石)に、将軍・家重の命令で御用取次・田沼意次(おきつぐ)が同席、主導したことはすでに、書いている。
2007年8月15日[徳川将軍政治権力の研究』(2)~
この事件によって、宝暦8年(1758)9月14日に、相良藩主・本多長門守忠央(ただなか 西丸若年寄 1万石)が所領召し上げの改易(かいえき)、お預けの処分を受けた。
2007年8月22日[新編物語藩史 八幡藩]
9年後の明和4年(1767)7月1日、5000石加増されて2万石となった田沼意次(49歳)が、相良領を領知して領主の班に加わった。
翌6年、相良城の築城に着手。
伊豆の天城や大井川上流千頭(ちず)から欅(けやき)材を集めたという。
足かけ12年かけて、安永7年(1778)に相良城が落成。
その間の安永4年(1775)に、城下の新町にあった真宗大谷派・大沢寺(だいたくじ)が焼失。天明3年(1783)iに初津(はづ)村に代地を求めて、整地・移転の準備をはじめる。
波津村---:現在の表記は、牧之原市相良地区波津。
(212年後の大沢寺本堂)
波津(はつ)--- 『鬼平犯科帳』で、文庫巻1[本所・桜屋敷]から登場した、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)の継母の名前。池波さんは、田沼意次を調べていて、この地名を見覚えたとも思える。
さて、『大沢寺沿革史』によると、天明8年(1788)年、整地終了。
寛政3年(1791)、棟上。
寛政7年(1795)、落成。
とあるが、その前に、
安永7年(1778)、相良築城の余材を大沢寺へ下賜。
天明6年(1786)、意次(68歳)失脚。
天明8年(1788)、相良城破却
が割り込む。
つまり、波津村に再建された大沢寺の本堂は、相良築城の余材によって建てられ、現在にいたっているというわけである。
総欅材による風格のある建築で、棟梁は、三河国牛窪(豊川市牛久保)の伊藤平左衛門であった。
相良城はその姿をわれわれには見せてくれない。
また、意次(没年70歳)も大沢寺の落成を目にすることはなかった。
われれはいま、大沢寺の本堂に、その遺材を偲ぶのみ。
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