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2007.08.17

徳川将軍政治権力の研究(3)

深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、評定所での郡上八幡の農民一揆の再吟味・幕閣処分に、御側でしかない田沼主殿頭意次(おきつぐ)が列座してくる経緯を、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)を引用しながら、推測している。

『御僉議御用掛留』の記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。

宝暦(ほうりゃく)8年(1758)10月3日の項---。
(この1ヶ月前の9月3日、田沼意次は、側衆の身分のまま、評定所の詮議に出座し寺社奉行の次に座し、諸事を審議するように、将軍・家重から下命されている)。

一 主殿殿内々我等(阿部伊予守正右 寺社奉行)江被申候者、石徹白之儀、金森(兵部少輔頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)より長門(本多長門守忠央 ただなか 西丸若年寄 前職・寺社奉行)方へ裁許之相談有之候迄此間内々申候通、同役江相談有之而挨拶有之候事ニ候得者一統之儀ニ而越度も軽く其通事候間、長門(本多長門守忠央)ハ一向に引分伺候方へ入可然旨、我等内々ニ而因幡(青山因幡守忠朝 ただとも 寺社奉行 51歳 丹後・篠山藩主 5万石)殿、伊賀(鳥居伊賀守忠孝 ただたか 寺社奉行 43歳 下野・壬生藩主 3万石)殿江承り候而、一統相談有之候事候ハ、最早兵部(金森兵部少輔頼錦)・長門(本多長門守忠央)ハ其儀ニ而ハ不相尋候而可相済、長門(本多長門守忠央)は引分ケ候方へ入可然候、昨日其段相模守(堀田相模守正亮 老中首座)殿とも御談候間、内々承合候而其趣ヲ相模守殿江申上可然被申候故、致承知候、承可申候、承候ハハ先ツ相模守殿江不申以前ニ又々可申上由被申候

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 主殿どの内々我等(阿部正右)へ申され候は、石徹白の儀、金森より長門(本多忠央 当時寺社奉行)方へ裁許の相談これあり候まで、この間内々申し候通り、同役へ相談これありて挨拶これあり候ことに候えば、一統の儀にて越度(おちど)も軽くその通りのことに候間、長門は一向に引き分け伺い候方へ入れて然るべき旨、我等(阿部)内々にて因幡(青山因幡守忠朝 寺社奉行)どの、伊賀(鳥居忠孝 寺社奉行 43歳)どのへ承り候て、一統相談これあり候こと候わば、もはや兵部(金森頼錦)・長門はその儀にては相尋ねず候て相済むべく、長門は引き分け候方へ入れて然るべく候、昨日その段相模守(堀田正亮)殿どのとも御談じ候間、内々承り合い候てその趣を相模守どのへ申し上げて然るべくと申され候故、承知いたし候、承り申すべく候、承り候わばまず相模守どのへ申さる以前にまたまた申し上ぐべき由申され候。

誤読をおそれず、現代文に置き換える。

田沼主殿頭(とのものかみ)どのが内々に、我等---阿部伊予守正右(寺社奉行)へ申されたのは、郡上藩預かり地の白山中居(ちゅうきょ)神社の神主側と社人側との訴訟の件は、郡上藩主・金森兵部少輔頼錦(よりかね 3万9000石 51歳)から、当時の寺社奉行・本多長門守忠央(ただなか 54歳 現・西丸若年寄 遠州・相良藩主 1万5000石)へ依頼をしていることはわかっているが、裁許の落ち度も軽く、まあ、そんなことなので、この件に関しての本多長門守忠央は、引き分け伺いの部へ入れてよろしかろう。
ただし、我等---阿部伊予守としては、同役・寺社奉行の青山因幡守忠朝どの(ただとも 寺社奉行 51歳 丹後・篠山藩主 5万石)と鳥居伊賀守忠孝どの(ただたか のち忠意 ただおき 寺社奉行 43歳 下野・壬生藩主 3万石)へ、この件について、本多長門守から相談があったかどうかを確認して、その結果を老中首座・堀田相模守正亮どのへ報告しなければなるまいが、その前に、自分(田沼主殿頭)へ報告してくれ、とまたまた申された。

老中・堀田相模守正亮へ報告をあげる前に、自分へ報告するようにといっているが、意次はその時、将軍家が案じておられるから---と前置きしていると思うが、阿部伊予は意識的かどうか、その念辞を書き落としている。
門閥派の無意識の抵抗であろうか。

【謝辞】
氏からのご教示に対して。

ブログ(8/15)の中で、現代文の説明に、「廻り」を意味不明としてありましたが、これは老中の毎日の行事として、九つ時(正午ごろ)に、
御用部屋→奥土圭(時斗)之間→土圭之間次→中之間→
羽目之間→山吹之間→鴈之間脇の廊下→菊之間→
芙蓉之間縁頬→芙蓉之間→表右筆部屋脇の廊下→中之間→
土圭之間次→奥土圭之間
と巡回することになっていたので、その間にどこかで待ち受けて用談をすませるわけです。
時代によってちがいますが、家重の頃は人事や重要案件の伝達は芙蓉之間、通常の書付の上申下達は黒書院溜之間、新番所前溜もしくは羽目之間が使われたようです。
以上については深井雅海氏『図解・江戸城をよむ』(原書房 1997)を参照。

月番の老中だけですか、それとも、老中首座? あるいは、登城している老中全員?

さっそく、近くの図書館へ行き、深井雅海さん『図説 江戸城よむ』(柏書房 1997.3.10 \3,014)を借りてきた。
_1502007.08,15に紹介しておいた
平成3年現在の著者略歴のうち、変っているのは、
〔おもな著書〕欄---
『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館 1991年)
『江戸城御庭番』(中央公論社 1992)などがある。

上段は、いま紹介中。下段も個人的には読んでみたい本。

ところで、2007.08.13『御僉議御用掛留』にあった[口奥]についても本書は、大表(表向)と奥(中奥)の境界を口奥といい、坊主が控えていると。

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