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2007.08.16

田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入

宝暦元年(1751)6月、33歳の吉宗が、紀州藩主から第8代将軍として江戸城へ入ったとき、200名前後の紀州藩士を幕臣へ取り立てたという。
これだけ多数の藩士を連れることができたのは、小藩の藩主だった綱吉と違い、紀州藩が55万石の大藩だったからであろうか。
その中の1人に、田沼意次の父・意行(もとゆき)がいた。

祖先は、藤原氏の系統で、下野国安蘇(あそ)郡田沼邑(むら)に住し、田沼姓を称したということになっている。
子孫が武田家に仕え、勝頼の没落により、信濃を飄泊ののちに徳川頼宣の家臣として紀州に住んだが、意行の父・義房が病気になって辞し、和歌山城下に閑栖していた---と『寛政譜』には記されている。
とにかく、意行は叔父・田代七右衛門に養われて、紀州侯となった吉宗の家人となり、その江戸城入りのときに小姓となったと同譜はいう。
家禄は300石。のちに300石加増されて小納戸の頭取となった。

Photo_2吉宗は、紀州藩士出の200余名のうち、半数を側近に配置したと、深井雅海(まさうみ)さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)にある(のちに御庭番と呼ばれた薬込組出身の17家もこの中に含まれる)。

郡上八幡の農民騒動の再吟味にかかわるまでの意次の年譜をつくってみた。

享保4年(1719)     生
   17年(1732) 14歳 拝謁
   19年(1734) 16歳 西丸(のちの家重)小姓
               父・意行卒(47歳) 
   20年(1735) 17歳 家督
元文2年(1737) 19歳 従五位下主殿頭 叙勲
延享2年(1745) 27歳 本城勤仕
   4年(1747) 29歳 小姓組番頭
               諸事を執啓見習い
寛延元年(1748) 30歳 1700石加増 計2000石
宝暦元年(1751) 33歳 御側  諸事を執啓
    5年(1755) 38歳 3000石加増
    8年(1758) 41歳 5000石加増
               評定所出座を拝命

つまり、宝暦8年9月3日の評定所出座を拝命とともに、家禄1万石の大名と同格の家禄になったということ。
と同時に、宝暦元年に歿した吉宗のあと、元紀州藩士たちの面倒を見る責任の一端---というより、大きな部分を期待され、政治的権力の掌握へむかって志を立てたともいえそうである。それには、家重の後ろ盾を十分に援用しはじめたといってもおかしくはないのでは---。

というのも、吉宗が江戸城へ入った時に雇従し、側衆となって吉宗の政策の浸透をはかった有馬兵庫頭氏倫(うじのり 当初1300石、のち1万石)は、享保20年(1735)に68歳で卒していたし、同じく御側となった加納近江守久通(ひさみち 当初1000石、のち1万石)も、寛延元年(1748)に76歳で亡くなっていたからである。意次に期待がかかっていた。

幕府の権力をにぎるということは、将軍・側衆として幕臣・大名家への人事に間接的介入、評定所一座に加わって政策の立案と公事(くじ)裁決、勘定奉行所を押さえて幕府財政の掌握などがある。
宝暦8年9月3日の、意次の評定所への出座と主導は、上記の意味で大きかったと見る。

一方、老中や若年寄を独占していた開府以来の門閥派から見ると、意次が評定所で郡上八幡の農民一揆に関係した幕僚を重罰に処することは、火中の栗をあえて拾ってくれるようなものだったのかもしれない。

ついでなので加納家『寛政譜』と、久通(ひさみち)の個人譜(赤○)。
緑○は孫・久周(ひさのり)は、家斉から平蔵宣以に下賜された秘薬〔瓊玉膏〕を預かり、辰蔵がうけとりに加納邸へ参上した。寛政7年(1795)5月6日の長谷川家
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