寛政7年(1795)5月6日の長谷川家
その日---寛政7年(1795)5月6日(旧暦)。
辰蔵(たつぞう)が、呉服橋内(中央区大手町2丁目)にある側衆・加納遠江守久周(ひさのり 伊勢・八田藩。1万石)の上屋敷から、南本所三ッ目(墨田区菊川2丁目)の自邸へ戻ってきたのは七ッ(午後4時)をすこしまわっていた。
加納遠江守から辰蔵へ渡されたのは、将軍・家斉(いえなり)が、
「平蔵(へいぞう)へ、つかわす」
と下賜した渡来の超高貴秘薬・〔瓊玉膏(けいぎょくこう)〕だった。
朝鮮産の薬剤を主に、明国で調製された将軍だけが服用したと伝えられている不老長寿の秘薬は、青白磁の壺に入れられ、葵の紋をあしらった濃紺の絹布に包まれていた。
辰蔵が〔瓊玉膏〕を病間へ捧げ入るまえに平蔵は、奥方の久栄(ひさえ)に、
「起こせ」
と命じた。
体調を気づかってためらう久栄に、
「いそげ」
支えられて半身が起きると、ゆっくりと正座し、辰蔵を待った。
「お上から、一日も早い快癒を、とのお言葉とともに賜ったと、遠江さまからのご伝言でございました」
辰蔵が告げると、平蔵は、西へ向かってふかぶかと遥拝し、
「豊千代ぎみ……」
口中でつぶやいた。
この年、家斉は23歳の青年将軍であったが、かつて西丸書院番士として仕えていた平蔵には、天明元年(1781)に9歳で一橋家から西丸入りしたときの幼な顔が眼前をよぎっていた。
添えられている黒漆の柄に皿部が朱塗りの小匙に黒みがかった憲法色の練り薬をすくった久栄が、涙ぐんでいる平蔵の口へ捧げて、
「お水を……」
「いらぬ」
〔瓊玉膏〕
平蔵は、将軍の深い慈愛をかみしめるように、舌にのこる〔瓊玉膏〕の淡い甘みを味わった。
最上段が[憲法色]。京の吉岡道場の憲法が好んだ小袖の色とか。
辰蔵がいった。
「遠江さまから内々のお言葉があり、拙めを書院番へお召しくださるとのご沙汰でございました」
「む」
当主が現役中にその息が召されると、給付される臨時の300俵はダブルインカムとなるから、長谷川家にとっては重ねがさねの恩寵となった。
ちなみに、『寛政重修諸家譜』収録の幕臣5千余家の記録を調べても、将軍家から病気見舞いとして〔瓊玉膏〕を下賜された例は見あたらない。
この5日ほど、平蔵の病状がおもわしくないというので、おまさは南本所三ッ目の長谷川邸へつめきり、久栄をはげまし、助けていた。
平蔵が西方の城に向かって伏せたときには病間の隅にいて、涙をぬぐいもせずに平蔵の姿に見入った。
平蔵が横になると、にじり寄り、
「長谷川さま。お上のみ心が通じ、まもなくご回復でございますよ」
真意のこもったその声に、枕にのせた平蔵の頭がうなずいた。
「そうそう。彦十(ひこじゅう)のおじさんから芋酒を預かってまいりました。おじさんが申しますには、長谷川さまは、これが大の好物とか……」
「彦、め……せっかくなれど、こんなざまでは、芋酒も無用だわ」
その台詞に、おまさは涙顔のまま笑った。
平蔵にはわかっていた。彦十のことゆえ、神田豊島町1丁目、柳原土手に面したところで、〔芋酒・加賀や〕の店を出している鷺原(さぎはら)の九平(くへえ)に、
「銕っつぁん……いや、長谷川さまの具合があんまりよくねえのだ」
とかなんとか持ちかけて、どうせ、せしめてきた芋酒にちがいないと。
が、その思いはおまさには明かさなかった。
彦十のこころづかいがうれしかった。
慶事が二つ訪れたこの日の夜――。
長谷川家では、不幸もあった。
長く臥せっていた平蔵の生母がみまかったのである。
知行地のひとつ---上総・寺崎(成東町)で、平蔵の父・宣雄は、新田干拓の監督として滞在中になにくれと世話をしてくれた庄屋のむすめに手をつけ、銕三郎(てつさぶろう)が生まれた。
3年後、もともと病気がちだった長谷川家の当主・修理(35歳)が、もういけないというまぎわに、従弟の宣雄を婿養子という形に して、こちらも病身で婚期を逸していた修理の妹の波津(はつ)と娶(めあわ)せた。
波津は妻としてのほとんどのことを果たせない体だったので、平蔵の生母が長谷川家の奥向きのことをすべて取り仕切った。
ちなみに、継母・波津は、銕三郎(家督後、平蔵)が5歳のときに赤坂の自邸で逝った。
そこは長谷川家の先祖が幕府から拝領した屋敷であったが、日当たりと水はけが悪く、修理や波津が病気がちだったのは、そのせいともおもえる。
気分を一新するために宣雄は、大川河口の、潮風と陽光がふんだんな築地へ転居した。
南本所へ越すまでの14年間、築地の家で実母とともにあった銕三郎はすこやかに育った。
その実母がみまかったのである。
寝たきりの平蔵ぬきの葬儀に、病床から辰蔵へ、平蔵が短く念を押した。
「戒名は父上と同格に……な」
従五位下、備中守であった宣雄のそれは、
泰雲院殿夏山日晴大居士
実母は、
興徳院殿妙雲日省大姉
これから推察するに、実母の名は「とく」か「たえ」ででもあったろうか。
| 固定リンク
「001長谷川平蔵 」カテゴリの記事
- 口合人捜(さが)し(5)(2012.07.05)
- 口合人捜(さが)し(3)(2012.07.03)
- 口合人捜(さが)し(4)(2012.07.04)
- 口合人捜(さが)し(2)(2012.07.02)
- 口合人捜(さが)し(2012.07.01)
コメント
作:ちゅうすけ 「続鬼平犯科帳」巻○-○『鬼平の最期』といった感じ。
病床にあった平蔵に将軍家斉から送られた「ケイ玉膏」を水も添えずに、しっかりと味わって、江戸城に向かって頭を涙を流した。そして平蔵は実の母と時を同じくして逝った。
平蔵さぞかし、無念であったろう。享年50歳(寛政7年5月)。
かの政敵“松平定信”は既に老中を失脚(寛政5年)していたことはせめてもの慰めであったことか。
将軍から死を目前にして、「秘薬」を頂いたのは鬼平のほかに誰もいない。と西尾先生の調べで分かった。流石が我等が「鬼平」万歳。
投稿: 大島の章 | 2006.06.26 10:47
>大島の章さん
身にあまるおほめのコメント、ありがとうございます。
ときどき、無性に、創作めいた表現をとってみたくなるのです。
史料ばかりいじくっているせいかも。
投稿: ちゅうすけ | 2006.06.26 10:51