火盗改メの役宅
6月10日から12日まで3回にわたって本欄に掲載した[現代語訳 『江戸時代制度の研究』]で、火盗改メの役宅は、原則としてお頭(かしら)の屋敷があてられる---と書いた。
池波さん、松平太郎さんの名著『江戸時代制度の研究』を文庫巻3の[あとがきに代えて]で引用しているから、このことは熟知していたはずである。
その証拠に、1965年に発表した短篇[白浪看板](『別冊小説新潮』.夏号)に、物語の主人公・〔夜兎〕の角右衛門が、
本所二ッ目にある火付盗賊改方頭取・長谷川平蔵の役宅へ
自首して出た。
としている。
[白浪看板]を収録の『にっぽん怪盗伝』(角川文庫)
ところが、[白浪看板]から1年半後から連載が始まった『鬼平犯科帳』では、長谷川平蔵の屋敷を目白台とし、そこでは不便すぎるからと、清水門外に役宅を置いて物語をすすめている。
池波さんの意識の中で、1年半のうちに、長谷川平蔵の屋敷が三ッ目通り(墨田区菊川2丁目)から目白台(文京区)へ移した経緯を推しはかりかねていた。
いや、目白台と誤解した根拠は、8年ほど前につきとめていた。昭和10年代に刊行された岡本博編『大武鑑』を台東図書館の加藤館長(当時)のご好意で、コピーさせていただいていたからである。
『大武鑑』は、江戸時代に毎年、サイズやページ数が異なる版が幾種類も刊行されていた『武鑑』を、ほぼ10年間隔でピックアップしてまとめた簡易版である。
コピーしたのは、たまたま長谷川平蔵の名が出ている、寛政3年(1791)の先手組頭のリスト。
長谷川平蔵 天六 七(注・天明6年7月に組頭に着任の意)
与十同三十△目白だい
(注・与十は、与力10騎、同三十は、同心30人の意。
△は、与力同心の組屋敷の意)。
この組み屋敷の「目白だい」を、池波さんは長谷川家の拝領屋敷と早のみこみしたと推量したものの、もし、昭和10年代に出た『大武鑑』を、池波さんが長谷川伸師の書庫で見ていたとすると、[白浪看板]でも、役宅を「目白台」としたはずである。
で、このことはこの数年来の池波不思議の一つとして、気にかかっていた。
まさに、不勉強のいたり---行きつけの文京区・真砂図書館の開架棚に、『大武鑑』3冊を認めた。
(はて。台東図書館でコピーしたのは、たしか2冊本だったが---)
手にとってみたら『改定復刻大武鑑』(1965.5,10 名著刊行会刊)。
ということは、池波さんは、[白浪看板]執筆と『鬼平犯科帳』連載スタートのあいだに、改定復刻『大武鑑』を入手し、「目白台」説に傾いたとみれば、疑問は氷解する。
つぶやき:
もちろん、『鬼平犯科帳』は小説である。長谷川平蔵邸が南本所であろうと目白台であろうと、読み手とすればいっこうにかまわない。
うん、目白台に置いたために、雑司ヶ谷や高田あたりが舞台になっただけ、物語とロケーション設定にふくらみがでているともいえようか。南本所や深川は、それでなくても登場しきりだ。
池波さんの「目白台」説の根拠は、亡父・宣雄の京都西町奉行への栄転にともない、南本所の屋敷は返上、京都から帰府したときに、目白台に新しく屋敷を賜ったとする解釈による。
遠国奉行へ転じても、江戸の屋敷はそのまま置いておくのが通例である。
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