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2008.03.17

ちゅうすけのひとり言(9)

[寛政重修諸家譜]というタイトルでカテゴリー(このブログのトップページ・左欄)を立てている。
カテゴリー番号が212と、ほとんど末尾に近いから、目にふれる機会もきわめて少ないだろうとおもう。

【参考】[寛政重修諸家譜] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

引用しているのは、(株)続群書類従完成会が1964年に刊行したものの、第4刷である。
寛政11年(1799)に素稿の呈出がしめきられ、若年寄・堀田摂津守正敦(まさあつ 45歳=1799 近江・堅田藩主 1万石)が総監督となって、足かけ14年の歳月を費やして文化9年(1812)に幕府に上納されたことは、つとに知られている。

復刻刊行によって、『鬼平犯科帳』長谷川平蔵調べに、どれほどお蔭をこうむったか、とても表現できないほどである。

池波さんふうに書くと、2008年3月15日[明和2年(1765)の銕三郎(10)]に、

「ご本家。まだ、よろしいのではありませんか?」
長谷川平蔵宣雄(のぶお 47歳 この日から先手・弓の8番手の組頭)が、本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 56歳 火盗改メ・本役)を引きとめた。
「それがの。奈未(なみ 正直のニ女)が松田(善右衛門勝美 かつよし 20歳)の許(もと)から帰ってきておっての---」
「それではお止めできせぬ。里(さと 正直の内室)さま、奈未どのへよろしゅう---」

この数行を書きえたのも、『寛政譜』長谷川太郎兵衛正直の項があったればこそ。
下の、正直の子どもたちの末尾(3段目左端)・ニ女を見ていただきたい。
『寛政譜』では、女性の名は欠落している。
辰蔵が呈上した「先祖書」にも、女性の名は記されていないから、幕府から「記すにおよばす」とでも指定されていたのであろうか。
それで、上に掲げた[明和2年(1765)の銕三郎]では、奈未(なみ 20歳)としておいてた。
嫁ぎ先は、松田善右衛門勝美(かつよし)。
ただし、「のち離婚す」とある。

_360_2
(正直とその子たち。正直の弟妹は省略)

じつは、[明和2年(1765)の銕三郎](10)は、この『寛政譜』だけを見て類推した。
で、アップしてから、あらためて『寛政譜』の松田善右衛門勝美を確認してみた。
確かに、奈未は嫁いている。それも後妻として。
善右衛門勝美は、奈未を離婚したあと、三人目の妻を迎えている。

_360_3
(松田相模守勝易(かつやす)とその長子・勝美)

最初の妻は、大奥の侍女・藤木氏が養女とある。

ところが、3段目の女子の項には、

実は上加茂の社家藤木甲斐保夫が女(幕臣へ嫁がせるために、大奥に召されている一族の藤木の養女となったのであろう)。
はじめ生駒登俊矩にやしなわれ、勝美が妻となり、勝美死してのち勝易が養女となりて、横瀬駿河守貞臣に嫁す。

これは一体、どういうことか。
勝美の最初の妻であるこの女性は、夫・勝美が死んだのちに再婚している。それは、女性の幸せのためにあっていい。
しかし、死んだ勝美が、後妻、さらには三人目の妻をむかえたことになる。

『寛政譜』のどこかがおかしい。

いまは、『寛政譜』にも筋がとおらない記述もあるということだけを指摘しておくにとどめ、太郎兵衛正直と松田相模守勝易との因縁も、離縁されて実家へ戻った奈未のことも、横瀬駿河守と再婚した女性のことも類推をひかえる。


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