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2008年5月の記事

2008.05.31

〔瀬戸川〕の源七(4)

4日後。やはり法恩寺門前の蕎麦屋〔ひしや〕。入れこみの奥の卓---。

座りこんでいるのは、銕三郎(てつさぶろう 20歳)と岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)、菊新道(きくじんみち)の旅篭〔山科屋〕へ宿泊して探索してきた井関録之助(ろくのすけ 16歳)の3人。

録之助は、はじめての大人っぽい仕事をしてのけて、すっかり興奮している。
だから、微に入り、細をうがった報告をする。
それを、要領よくちぢめて書くと、こうなる。

2日前の昼すぎ、録之助は、武蔵国八王子在の鑓水(やりみず)村の郷士の息子が、江戸へ剣術の修行にきたというふれこみで、〔山科屋〕へわらじを脱いだ。
〔山科屋〕を推したのは、鑓水村で一刀流の道場を開いている岩倉岩之進(いわのしん)師ということにした。

「その、岩倉岩之進っていうのは、何者かね?」
左馬之助が口をはさんだ。
「父上の知り合いに、仙洞院の番士として京で勤めた人がいましてね、その人が帰府談で、岩倉という小うるさい公家さんに手をやいたとこぼしていたのをおもいだしたので、上方出の〔山科屋〕なら、岩倉って姓に恐れ入るかとかんがえて---」
「芸が細かいね」

村長(むらおさ)振りだしの道中手形は、火盗改メ方が贋作してくれた。
前日に八王子を発(た)ち、新宿で一泊した態(てい)に。
府内入りの当日、録之助は、本所・石原町の自家から、わざわざ、土ぼこりで名高い水道橋へ遠まわりして野袴の裾やら足袋をほこりにまみれさせ、通旅籠町の〔山科屋〕へたどりついたのだという。

「はは。水道橋のほこり眼鏡(めがね)を知っていたとは、さすが、世間通じのだ」
これは、笑いをおさえた銕三郎
「冷やかさないでください。これでも、真剣に考えた末ですから---」
「ごめん、ごめん」

「ところがね、岸井さん。驚くではありませんか、岩倉という剣客は、ほんとうにいたんですよ」
「なに?」
「〔狐火(きつねび)〕の勇五郎---〔狐火〕なにがしというのは、勇五郎って名前なんです。その勇五郎が、帳場で岩倉先生の門下の若者が投宿したって聞いたらしく、それはなつかしい、ぜひ、岩倉先生の近況をお聞きしたいから、夕食をごいっしょに---っていわれたのには、困りまました」
「そりゃあ、困ったろう」
「どう切り抜けた?」

録之助は、いまの師・高杉銀平の師範ぶりや言動を話すと、それが岩倉岩之進にぴったりだったという。
「一流の剣客というのは、共通したところがあるんだなあ」
純情な左馬之助は感に堪えたように言ったが、銕三郎は、〔狐火〕が芝居をしたとおもった。
(おそらく、を試したのであろう。油断のならない〔狐火〕。もしかすると、あの時の狸寝入りを、〔瀬戸川(せとがわ)〕)なんとやらが見破ったのかもしれない)。

「その夕食に、〔瀬戸川〕とかは、お相伴しなかったかい?」
「いました。源七(げんしち)といって、齢のころは50前ってとこですかね。小柄ですが、躰全体がぴしっとしまっている、鋭いって感じの男で、しじゅう無言で、こちらが話すことを聞きながしていました」

「ほかには?」
女が一人。20歳前のむすめむすめした感じがのこっているおって名前のとおりに無口な女(こ)で、勇五郎も自分のむすめのように扱っていたという。
なんでも、半年ばかり前から愛宕下の〔井筒や〕という水茶屋に出ているのを、毎日のようにつれだしているらしい。

や。茶汲み女のことはどうでもいい。〔狐火〕というのは、どういう男だった?」
「年齢は40すぎ。なんでも、京の河原町で、小じんまりした骨董屋をやっていて、上客がたくさんついているとか、言ってました。たしかに、名のある骨董屋の主(あるじ)らしく、万事がおっとりと上品でした。〔瀬戸川〕の源七は、大番頭だそうで---もっとも、商人のようには見えませんでしたがね」
「なんに見えた?」
「そうですねえ、あの隙のない気くばりからいうと、すごく眼はしの利く職人かなあ」
「骨董屋の番頭なら、眼はしが利いて、あたり前だろう?」
「いえ、そういう眼はしではないのです。油断を見せないっていいますか、一分の間違いも見逃さないっていうか---」

宿の古手の女中にそれとになくさぐりを入れたら、〔狐火〕と〔瀬戸川〕は、ここ数年、年に2,3回、仕入れと売り込みに江戸へ下ってきており、そのたびに〔山科屋〕へ宿をとっているという。

小田原に囲っている妾に男の子がいるらしいが、こんどのように、水茶屋の女を連れだして同宿したのは初めてとも。
ここ3日、おを泊めているらしい。

4日前から、忠助(ちゅうすけ)という名の、東本所のはずれあたりで居酒屋をやっている男が、おの身請けに一役買っているように、旅籠側は見ているが、なにしろ上客なので、みんな、見て見ぬふりをしているんだと。

「これだけ探り出せば、長谷川さんはご満足であろうと、1泊だけで切り上げました」
「ちゃっかりしてるぅ。それでは1分(ぶ 約4万円)以上、残したろう?」
「残ったらくださるとの、約束は約束ですから---」
左馬之助がおぼえていた。
「おい、。泊まった晩の夕飯も、〔狐火〕の奢りだったとか言っていたな? だったら、素泊まりではないか」
「ふ、ふふふ。はい。きょうの、この店の蕎麦代は、わたくしが持ちます」
「あたり前だ。は、ははは。金主と払い方の、どっちへ礼をいえばいいんだか---」
若い時には、このような他愛もない冗談でも、友情を深めるこやしになる。

参照】〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七 (1) (2) (3) 


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2008.05.30

〔瀬戸川〕の源七(3)

おかねの名は、於嘉根と書くのです」
銕三郎(てつさぶろう 20歳)は、おまさ(10歳)の手習い帳に書きとめていたこころおぼえの、

忠助、おおばさん、彦十のおじさん、瀬戸川のおじさん、瀬古、お兄さん、おかねちゃん---

の文字列から、さりげなく「〔瀬戸川(せとがわ)〕のおじさん」のことを訊きだしたあと、ひらがなで「おかねちゃん」とあった横に、朱墨で、お嘉根---と書き加えた。

は、よいことという意味をもった字です。は、箱根のからとったと聞いています」
さすがに、産みの親の阿記(あき 23歳)が、わが名---銕三郎の「」を別読みし、「かね」に「」と「」をあてたとは、言えなかった。
言えば、おまさがさらに気をまわす、とおもいついたからである。

箱根・芦ノ湯の親元の湯治旅籠〔めうが屋〕で育っている於嘉根(2歳)のことで、〔瀬戸川〕のなにがしから話題が離れて、ほっとしたことも事実であった。

「そろそろ、道場へ行かねばなりませぬ。おまさどのは、手習いをつづけるように---」
銕三郎は、立ち上がった。
一瞬、おまさはうらめしそうな目つきをしたが、
「お父(と)っつあんが帰ってきたら、〔瀬戸川〕のおじさんの名前を訊いておきますね」
「いや。その必要はありませぬ」
「うそ。お知りになりたいのでしょう?」
銕三郎は、おまさの勘のするどさに、内心、舌をまいたが、表向きはあくまで、
「ほんとうに、あの川が懐かしかっただけです」

北本所の出村町の高杉道場へは、〔盗人酒屋(ぬすっとさかや)〕を出、四ッ目通りを北へ5丁、横十間川(天神川とも)に架かる天神橋の通り(法恩寺通りとも)で左折、西へ7丁ほど---いまの時計ではかって15分とかからない。

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(〔盗人酒屋〕から高杉道場への道順 近江屋板切絵図)

稽古を終え、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)を、法恩寺前の蕎麦屋〔ひしや〕へ誘い、入れこみの奥の卓をとった。
1ヶ月ほど前、銕三郎左馬之助が居合わせた〔盗人酒屋〕で、〔助戸(すけど)〕の万蔵(まんぞう 35歳前後)が急逝し、後家になったおのことから話題を始めた。

「おどのは、〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直兵衛(じつは直右衛門)とやらいう、いささかうさんくさい仁の手配で、遺骨を葬りに下野国(しもつけのくに)の足利在へ行ったようだが---」
「銕っつぁん。悪いが、その話はよしてくれ」
「未練は、ないのだな?」
「桜屋敷のふささんに申しひらきができないようなことは、しない」
「〔盗人酒屋〕にも未練はないか?」
「ないが、なぜだ?」
「じつは、頼みたいことがある」
「あの店にかかわりのあることか?」
「いまのところは、よくはわからないが---」
「番町の筋か?」
「うん」

番町の筋とは、銕三郎の本家、新道一番町の屋敷を役宅にしている長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石)---すなわち、いまの火盗改メのお頭(かしら)のことである。

「通旅篭町菊新道(きくじんみち)の〔山科屋〕という旅人宿に2泊ほどしてみてくれないか」
「それで、なにを嗅(か)ぐ?」
「京からきて泊まっている、〔狐火(きつねび)〕なにがしと、〔瀬戸川〕なんとやらという者の素性が知りたい」
「その〔山科屋〕への紹介状は手配できるのか?」
「番町へ頼んでみるよ」

「剣術の入門先を探しているとでも、口実にしてくれ。高杉道場が見つかったとでも言って、引き払う」
「念のために訊いておくが、[盗人酒屋]とのかかわりは?」
「〔瀬戸川〕なんとやらが、昨夜遅くに[盗人酒屋]の亭主・忠助(ちゅうすけ)親父(おやじ)を訪ねてきて、親父は今朝、〔狐火〕なにがしに会いに行った」
「それじゃあ、おれではまずいよ。忠助親父に顔をおぼえられている」
忠助親父とは顔をあわさないように---」
「そうはゆくまい。どうだろう、この仕事は、井関録之助(ろくのすけ)にふったら?」

16歳の井関禄之助は、高杉道場に入門したてだが、剣の筋がよく、銕三郎左馬之助が、「録、録」と可愛がり、稽古をつけてやってもいる。
本人は大柄だし前髪もすでに落としているので、20歳そこそこに見えないこともない。

店の小むすめを道場へ行かせた。
まだ道場に残っていた録之助が、小むすめとやってきた。
銕三郎から事情を聞くと、
「おもしろそうです。やらせてください」

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(菊新道の旅籠〔山科屋〕)

銕三郎は、宿泊料として2分(ぶ 半両)、わたした。
「あまったら、残りはいただけるのでしょうね?」
「しょうがない」
「ありがたい、ありがとうございます」
「こいつ、いまから、残す算段をしていやがる」
左馬之助が冷やかした。

当時の2分といえば、いまの8万円にも相当する。
銕三郎とすれば、大伯父の太郎兵衛正直に、1両とふっかけてみるつもりであった。

参照】〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七 (1) (2) (4)


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2008.05.29

〔瀬戸川〕の源七(2)

七ッ半(午前5時)には、すっかり明るくなっている。
おまさ(10歳)は、その前に起きていたらしく、銕三郎(てつさぶろう 20歳)に手ぬぐいと新しい房楊枝、そして小皿に盛った食塩をわたした。

裏手の井戸で塩で歯を磨いていると、忠助(ちゅうすけ)もやってきた。
世話になった礼を言ってから、店の戸を支えている樫のつっかい棒を借りていいかと訊いた。
「なんにお使いに---?」
「素振りです」

家だと鉄条を埋めこんだ木刀を振るので、[盗人酒屋]にも一本、預けておくか、と考えた。
泊まった朝のためではない。もう、泊まることはないとおもっている。
店で騒ぎがあった時の備えである。

お兄(にい)さん。何回、振ったのですか?」
汗を拭いてから、飯台に配膳された席へついた銕三郎に、おまさが訊く。
「300回ほど---」
「わたし、99までしか数えられないんです。おかしいでしょ?」
「なに、101から先は、繰りかえしみたいなものだから、すぐに覚えられます」
「お父(と)っつぁんもそういうんです。でも、銭は、100文(もん)ずつ山をつくって、その山の数をかぞえたほうが間違いがないとおもうんだけど---」
「それもそうだが、1両だと、100文の山が40もできてしまいますね」
「そんなに売り上げがあがる夜はないから、大丈夫です」
2人は笑った。
「こんど、壱拾とか弐千、参万の数字の漢字を書いてきてあげよう」

「む。この茄子(なす)の漬物の色合いは?」
白粥を梅干しで食べながら銕三郎は、茄子の漬物の一切れを箸で掲げる。
「茄子はお嫌いですか?」
「いや。色合いが、あまりに美しいから---」
「鉄釘を入れたのです。おっ母(か)さんから教わりました」
「梅干しの塩加減もいい」
「行徳(ぎょうとく)の、(よし)さんとこの塩窯(しおがま)の塩です。それもおっ母(か)さんが選んだものです」
「いい母上だったのですね」
おまさ が瞼(まぶた)を伏せた。

忠助が出かけると、おまさが裏2階から手習い帳と朱墨をもってきた。
おまさの名前の〔まさ〕の字の手本は、銕三郎が書いて与えた。

正、昌、匡、雅、政、斉、祐、聖

_100おまさどのは、自分の名前の漢字として、どの字が気に入ったかな?」
「正です。とりわけ、くずし字が好きです」

ちゅうすけのつぶやき】テレビの『鬼平犯科帳』の故・市川久夫プロデューサーからこんな秘話を聞いた。吉右衛門丈=鬼平で、梶芽衣子さんが演じているおまさ役のファンは多いが、彼女の本名は太田雅子なんで、ご当人は「おまさ」と呼ばれても、まったく違和感をおぼえないと。名実一致とは、まさに、このこと(笑)。

このほかに、おまさが自分で、家のまわりの町や橋や川の名を自筆していた。

北松代町、柳原町、清水町、亀戸(かめいど)町、柳島町、竪(たて)川、横川、天神川、新辻之橋、四ッ目之橋、御旅橋

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(おまさの手習い帳の町名、川、橋など 赤○=〔盗人酒屋]
『近江屋板切絵図 東本所・亀戸』 )

めくると、
忠助、おおばさん、彦十のおじさん、瀬戸川のおじさん、瀬古、お兄さん、おかねちゃん---

銕三郎の視線に気づいたおまさが、手習い帳をひったくって、真っ赤になった。

「訊いていいかな。書いてあった瀬戸川---というのは?」
「京の人です。駿河の藤枝というところの川だとか。〔瀬戸川(せとがわ)〕のおじさんに教わりました」
「その次にあった、瀬古(せこ)は?」
「〔瀬戸川〕のおじさんが生まれたところだと---」
「京じゃなく?」
「京の〔狐火(きつねび)〕という人のところで仕事をしているんです」

「拙は、この駿河の瀬戸川という川を、馬でわたったことがあるのです」
「わぁ、馬で---乗りこなせるんですね」
「これでも、お上の旗本の子ですから」
「そうでしたね」
おまさが、黙りこんだ。
銕三郎は、〔瀬戸川〕という仁への興味を隠すつもりで言ったことが、おまさをしょげさせたらしいとわかり、いささか後悔した。

参照】〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七 (1) (3) (4)


 

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2008.05.28

〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七

「〔瀬戸川(せとがわ)〕の、そうすると、〔狐火(きつねび)〕のお頭(かしら)は---」
飯台に伏せって眠ってしまっていた銕三郎(てつさぶろう 20歳)の耳に、忠助(ちゅうすけ 40がらみ)の抑えた声がはいった。

参照】[盗人酒屋] (8)

忠助は、ここ、本所も東端、竪川(たてかわ)に架かる四ッ目ノ橋に近い深川北代1丁目裏町に面した居酒屋〔盗人酒屋(ぬすっとざかや)〕の亭主である。

_300
(東本所・四ッ目橋に近い〔盗人酒屋〕 尾張屋板)

銕三郎は、長谷川本家(1450余石)の大伯父で、いまは火盗改メのお頭(かしら)を勤めている太郎兵衛正直(まさなお 57歳)に言われ、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)と探りにきていたのだが、この探索はなんとなく意にそまないとおもいはじめていた。
というのも、店を手伝っている忠助の一人むすめのおまさ(10歳)を妹みたいに感じるようになったからでもある。

酔いつぶれた銕三郎をそのままにして、、権七と〔相模無宿(さがみむしゅく)〕の(ひこ)(31歳)が帰っていったのには気づかなかったのに、〔瀬戸川〕という言葉に無意識に反応したのは、6年前に、父・平蔵宣雄(のぶお)の言いつけで、駿州・田中城へでかけた時に、藤枝宿の西を流れているこの川を見たからである。

いや、見たというのは正確ではない。
その時、長谷川家の祖・豊栄(ほうえい 没後・法永)長者こと今川家の臣で小川(こがわ)城主だった長谷川次郎左衛門尉正宣(まさのぶ)の墓に詣でるため、瀬戸川を乗馬のままでわたった。

銕三郎は、伏せったまま動かず、目もあけないで耳だけをすませた。

「うん。いつもの菊新道(きくじんみち 通旅篭町)の〔山科屋〕だがね。こんどばかりは、忠助どんの顔を借りないと---」
瀬戸川〕と呼ばれた男は、それきり、ひそひそ声になった。

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(通旅籠町菊新道(じんみち)〔山科屋〕 近江屋板)

ややあって、忠助が、
「えっ。お頭が---」
絶句したあと、
「わかりました。明日、五ッ(午前8時)に〔山科屋〕さんへ伺いますです」

瀬戸川〕という男が出てゆき、忠助が見送っている時も、銕三郎は動かないで眠っているふりをつづけた。

参照】〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七

戸締りをすませた忠助が、銕三郎の肩をゆすって、
長谷川の若さま。こんなところでお寝(やす)みになっていてはいけません。お帰りにならないのなら、裏2階に仮床をしつらえますから、そちらで---」
「う、うーん」
いま、やっと目覚めた態(てい)で、
「なん刻(どき)ですか?」
「四ッ(午後10時)をすぎました」
権七どのは?」
彦十どんと、五ッ(午後8時)にお帰りに---」
「これはしたり。木戸が閉まっている」
「お泊めいたします」
「いいのか?」
「そのかわり、明朝、おまさの手習いを見てやってください」
「心得た」

おまさが寝巻きのまま降りてき、どんぶりに水を入れて、
「酔いざめの水です。(てつ)お兄(にい)さんは、あまり飲(い)けないのだから、無理して飲むことはないのです」
「負うた子に教えられ---だ」
「子ではありません。手習い子です。それより、明日の朝ご飯は---」
おまさどのがつくってくださるのですか?」
「わたししか、いません」
「そうでした。では、白がゆと梅ぼし、香のもので---」

参照】〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七 (2) (3) (4)


 

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2008.05.27

〔相模〕の彦十(12)

池波さんが『鬼平犯科帳』に書きこんでいる、〔相模無宿(さがみむしゅく)〕の彦十の、気質、性向などを[彦十の言行録]とでも銘うって、並べてみる。
とりあえず、史実の長谷川平蔵が生きていた寛政7年(1795)の事件まで。その後は稿をあらためて---ということに。

区分は、あくまで仮のもの。
ファンなら、一読、池波さんが想定していたとおりの情景がパッと眼前に浮かぶであろう。忘れていたら、いい機会だから、もういちど文庫をお手になさって。

銕三郎との関係(かかわりあい)

「入江町の銕(てつ)さんのおためなら、こんなひからびたいのちなんざ、いつ捨てても惜しかあねえ」 巻1[本所・桜屋敷]p68 新装版p69

_2「なあに、銕つぁんのためなら、いつでも死ぬよ」
と、彦十は昔なじみの気やすさで、平蔵の若きころの名をおくめんもなく口にのぼせ、
「ですがねえ、銕つぁんの旦那、たまにゃあ、奥方のお眼をぬすみ、あぶらっ濃いのを抱いて若返って下せえよ。このごろどうも銕つぁんは老(ふ)けちまって、いやだよう」 巻2[お雪の乳房]p256 新装版p269

「岸井の旦那。そのこと(若いころの銕三郎と針売り・おろくとの関係)なら、いくらでもはなしやすよ。当時はこの彦十、銕さんの腰巾着(こしぎんちゃく)というやつ、いつもぴったりおそばにくっついていたのでごぜえやすからねえ」 巻1[むかしのおんな]p278 新装版p294

「だって、おじさん。あの長谷川さまが、お盗めの助ばたらきをしたとおもうと……」
「したのではねえ。しかけたのだ。松岡重兵衛のおかげで、二人とも汚れをつけねえですんだのだ。考えても見ねえ。盗賊改メの鬼の平蔵が、むかし盗みをしたとあっちゃ、こいつはどうも、さまにならねえや」 巻7[泥鰌の和助始末]p176 新装版p185

密偵としての彦十

_4縄つきとなって出て来た法楽寺の直右衛門の前へ、
「へい、お久しふりで」
と、相模の彦十が顔を出した。
「あっ……て、てめえは彦……」
「いまは、長谷川平蔵さま御手の者だよ。安くあつかってもらうめえ」
爺つぁん、胸を張ったものだ。 巻4[おみね徳次郎]p231 新装版p242

「……いや、笑っているだんじゃあねえ。あの敵討ちのはなしを長谷川さまのお耳へも入れておいたほうがよくはねえかえ。他の御門人衆はさておき、沢田さんはれっきとした火付盗賊改方の同心だ。うかつにうごかれても長谷川さまがお困りになるだろ……」 巻6[剣客]p90 新装版p96

「て、銕つぁん……」
いきなり、彦十が平蔵若き日の名を呼び、平蔵の胸をつかまぬばかりの血相となって、
「いやさ、長谷川さまよ。事のなりゆきがどうなろうと、今度は、まあちゃんの顔をたててくれねえじゃあ、このおれが、おさまりませんぜ」
と、いいはなった。
長谷川平蔵は、彦十の老顔をぬらしている泪を手ぬぐいでふいてやり、苦笑まじりに、こういった。
「彦よ。むかしむかしの本所の銕のころから、このおれのすることに、お前、一度でも愛想(あいそ)がつきたことがあったかえ、どうだ」 文庫巻4[狐火]p146 新装版p154

「あの二人なら、きっと出来るとおもったのだ。それも彦十、三十をこえたおまさが、何年も男の肌から離れているのは、こいつ、女の躰のためによくねえことだと、おもったからさ」
「けれど銕……いえ、長谷川さまよ。おまさはむかしから、お前さんに惚れこんでいて……」
「ばかをいうな……」
「へ……」
「盗賊改メの御頭が、女密偵に手をだせるか」 巻9[鯉肝のお里」p80 新装版p84

_11彦十が、血に染(そ)んだ土間から、小さな珊瑚玉の簪(かんざし)を拾いげ、平蔵へ見せた。
「長谷川さまよう。この簪を。おぼえていなさいますかえ」
「む……いま、おもい出した」
「お前さまが、五両の餞別といっしょに、お百へくれてやった、さんごのかんざしだ。この、かんざしを両国まで買いに行ったのは、この彦十だったっけ……」 巻11[密告]p213 新装版p222

「へへえ、へへえと感心してばかりいねえで、おらにもいっぺえ、もって来てくんなよ」
「よし、よし」
「こいつ、大人(おとな)ぶった口をきくねえ。むかしは、おめえをおぶってやって、小便をひっかけられたこともあるんだぜ」
「どうも爺つぁんと長谷川さまには、かなわねえや」 巻12[いろおとこ]p13 新装版p13


彦十の人生観

「さすがに銕つぁんの旦那だ。ねえ。夜鷹を殺した野郎には御詮議(ごせんぎ)がねえのですかい。そ、そんなべらぼうがあってたまるかい」 巻4[夜鷹殺し]p279 新装版p293

「ときに、彦十」
「へ、へい……」
「お前が、むかし、金をつけて、千住の煮売り屋へ押しつけた女は、いま、どうしている?」
「よそながら、ときどき前を通って見かけやすがね。へえ……へえ、もうあれから四人も子を生んで、いい婆さんになっておりやすよう」
「いい気なものよ」 巻10[むかしなじみ]p214 新装版p226

長谷川平蔵が、これまでのことをざっと語って、
「その、今戸の井坂宗仙という町医者のことを探ってくれ。あのあたりには、いくらも、お前がくびを突っこむところがあるはずだ」
金を紙につつんで彦十へわたし、
「一夜の酒手(さかて)には、それで充分だろうよ」
「へへっ、すみませんねえ、銕つぁん。おらあ、小づかいをもらうのが大好きだ」 巻11[毒]p243 新装版p253

彦十 ここにいる六人は、みんな、いい機会(おり)さえありゃあ、むかし取った杵柄(きねづか)というやつで……お盗めの見本を世の中に見せてやりてえと、こうおもっているのさ。 巻12[密偵たちの宴]p162 新装版p171

肋骨(あばらぼね)の浮いた、渋紙のような肌をした老体を隅に沈めながら、彦十が、
「むかし、上方(かみがた)の、高窓(たかまど)の久兵衛(きゅうべえ)お頭(かしら)のところで、嘗役(なめやく)をしていた利平治(りへいじ)というのが二人連(づ)れで、この宿屋へ入る(へえ)って来ましたよ」 巻13[熱海みやげの宝物]p10 新装版p10

平蔵が振り返って見ると、六郷川の岸辺に馬蕗の利平治が両膝をつき、こちらへ向って合掌しているではないか。
渡し舟から下りる人、乗る旅人が、利平治をながめ、ざわめいている。期せずして、人びとの視線が平蔵と彦十へあつまるものだから、
「へ、へへ……鬼平大明神でごぜえますね」
彦十が鼻をうごめかすのへ、
「つまらねえことをいうな」 巻13[熱海みやげの宝物]p52 新装版p53

目利きの彦十

(牢を出され、彦十の長屋へ寄宿して、大工の万三を探している五郎蔵について訊かれ)
「毎日、いろいろ服装(なり)を変えて出て行きますぜ。あの人はでえじょうぶだ。もう。すっかり、銕つぁんの旦那におそれ入zwまさあ」 巻5[深川・千鳥橋]p24 新装版p25

「痔もちの盗人か、それはおもしろい」
「それでね、銕つぁん。野郎、なかなかふんぎりがつかねえようだ」
「ほほう……」
「ありゃあ何だね、牛尾の太兵衛のところにいた盗人だというけれど、ろくな盗めはしていませんぜ。せいぜい、田舎の盗人宿の番人ぐれえなところで」 巻9[泥亀]p115 新装版p121

「お、彦十。どうだ、見おぼえがあったか」
といった平蔵の口もとが微(かす)かに、渋い笑いをたたえていた。
「あの顔は、殿さま小平次そっくりというやつで……」
彦十がいうのへ、平蔵はこういったものである。
「おれも、いま、その男の名をおもい出したところだ」 巻11[密告]p190 新装版p198

彦十の女性観

「まあちゃん。三十をこしてもお前はまだ、むすめみてえな気もちが残っているのだなあ」
「女は、みんな、そうなんですよ」 巻6[狐火]p133 新装版p141

「男と女の躰のぐあいなんてものは、きまりきっているようでいてそうでねえ。たがいの躰と肌が、ぴったりと、こころゆくまで合うなんてことは、百に一つさ。まあちゃん。お前と二代目は、その百に一つだったんだねえ」 巻6[狐火]p134 新装版p142

「長谷川さまは、先代・狐火の妾のお静さんとできちまった。それをまた、まだ十二か十三のおまさが、小むすめのやきもちをやいてねえ」
「そんなことが、あったのか---」
「とぼけちゃあ、いけませんや」
「あのころの、おまさは、まだ子どもよ」
「女の十二、三は、躰はともかく、気もちはもう、いっぱしの女でござんすよう」 巻6[狐火]p157 新装版p165

「色の浅ぐろい、痩せた女だねえ、おじさん」
「む、ああいう女(の)にかぎって、色のほうもすさまじいのだよ」 巻8[白と黒]p225 新装版p237

「とんでもねえ。ああいう女と男は、たがいに顔がきれいだとか様子がいいとかいうのではねえ。天性(てんせい)そなわった色の魔物が、躰の中に巣食っているのでござんしょうよ」 巻8[白と黒]p227 新装版p239

「小むすめの勘は、するどいものだ」
「ところが女も、年を食うにつれて、間がぬけてきやすからねえ」 巻12[二つの顔]p224 新装版p235

【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)

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2008.05.26

〔相模〕の彦十(11)

相模無宿(さがみむしゅく)〕の(ひこ)の不思議の三つ目は、年齢である。

明和2年(1765)の初夏---本所・四ッ目の〔盗人酒屋(ぬすっとざかや)〕での銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)との運命的な出会いを、彦十の31歳の時と設定した。

天明8年(1788)の小正月の事件である文庫巻1[本所・桜屋敷]に、

何気なく、あたりを見まわしたとき、うすくつもった道の一角から、にじみ出すように人影が一つ浮いて出た。
編笠のうちから、こっちへ近づいて来るその五十男の顔を見とどけ、平蔵はにやりとした。
(やはり、あいつだ)
本所へ来て、岸井左馬之助に出会ったのも偶然(ぐうぜん)なら、こやつに出会うのも二十何年ぶりのことであった。(中略)
「おい、彦や」
長谷川平蔵が笠をとって声をかけるや、
「あっ---」
彦十は素袷(すあわせ)一枚の尻端折(しりはしょ)りという見すぼらしいやせこけた躰をがたがたふるわせ、
「て、て、銕さんじゃ、ごせえやせんかえ?」
おう。よく見おぼえていてくれたな」
「ほ、ほんとかね。ほんとかね」
すがりつかんばかりの彦十、めっきり老(お)いてた。

この正月、長谷川平蔵は43歳。

銕三郎の将軍家へのお目見(めみえ)が明和5年(1768)12月5日(23歳)で、そのちょっと前から身をつつしんでいるから、まあ、20年何年ぶりというよりも、20年ぶりの再会といっていい。

この再会の時---彦十は54歳のはず。

つぎに、彦十の年齢が明記されるのは、寛政元年(1789)6月から9月へかけての物語である文庫巻4[夜鷹殺し]---横川べりでの再会から2年後で、56歳と。

これから逆算すると、相模国(さがみのくに)足柄上郡(あしがらかみこおり)斑目(まだらめ)村での、坊やの誕生は、享保19年(1734)でなければにならない。
ところが、この享保19年の8月には、酒匂(さかわ)川の堤防が決壊し、村は水の下に沈んだ。
それで、避難小屋で身ごもられ、翌20年に、生まれおちたことにした。

1歳のちがいを、どう正当づけるか。
池波さんの思惑ちがいというわけにはいかない。
だいたい、池波さんは、彦十の生誕の地をご存じない。いや、相模ならどこでもいいとお考えになっていたはずである。
仕方がない---ここは、彦十に責任をおっかぶせることにしよう。

少年時代から、生活苦にさいなまされた。
江戸へ逃げてきてからは、1歳でも大人にみせるために、どうせ、無宿人だから、どこに戸籍があるというものでもない、齢に下駄をはかせているうちに、自分でもその齢を信じるようになった---ということで、つじつまをあわせる。

池波さんのほころびを指摘するわけではないが、寛政6年(1794)夏の終わりの出来事である文庫巻10[むかしなじみ]では、

五十を越えたというより、六十に近い年齢になっている---p173 新装版p182

寛政元年に56歳なら、寛政6年には61歳でなければならない。

いつか、彦十のチャランポランについて言及しておいた。
この程度の年齢のチャランポランも、あってしかるべきなのである。

彦十なら、こういうであろう。

「完全な人間なんて、いるわけがねえやな。見なよ、いまは火盗改メのお頭(かしらで)で、泣く子も泣き止む鬼の平蔵---なんていわれてるが、あっしが知ってる、若けえころの銕っつぁんは、飲む、打つ、買うの、箸にも棒にもひっかからねえ、旗本の長男坊だったのよ。いえね、不正はとことん、憎んでやしたがね。だからよう、完全ぶってる男がいたとしたら、そいつぁ、化け物だ、って言いてえの」

【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (12)

 

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2008.05.25

〔相模〕の彦十(10)

相模(さがみ)〕の彦十の名がシリーズへ出てくる篇は90あると、この項の(1)にあげた。

その中でも、個人的に、とくに好きな篇は、文庫巻20[高萩の捨五郎]と、巻21[討ち入り市兵衛]である。
共通点は、シリーズも後半部なことと、彦十が盗人に信用されて物語が展開するところ。
つまり、60をすぎた彦十に、池波さんが花をもたせるべく、物語りづくりをしている。

若いころの彦十には、どこか気負ったところと、妙に銕三郎(てつさぶろう)の顔色を読むところがあった。
すでの引用しているが、文庫巻1[本所・桜屋敷]では、

こやつ、相模無宿(さがみむしゅく)の彦(ひこ)十という男で、本所(ところ)の松井町一帯の岡場所に巣食っていた香具師(やし)あがりの無頼者で---

「香具師あがり」とあるのに、巻6[盗賊人相書]では、

かつては、盗賊界に名を知られた粂八と彦十であるが、人相描きを見てくびをかしげた。

粂八が名を売っていたらしいことは納得できるが、銕三郎の記憶にあった彦十は、香具師の配下であって、一流の盗賊としてではない。

それが、いつのまにか、顔のひろい盗賊あがりということになってしまっている。このシリーズの不思議の一つである。

寛政6年(1794)の夏の終わりごろの事件である文庫巻10[むかしなじみ]にも、20年前---彦十40歳前後の出来事として、

当時の彦十は、小粒ながら独りばたらきの盗人として、
「あぶらの乗った---」
ところであったから、処方の盗賊から、
「助(す)けてくれ」
と、たのまれる。
もっとも、久六同様に、盗みで得た金は、ところかまわず撒(ま)き散(ち)らし、遊びまわっていたのだから、その金がなくなれば当然、はたらかねばならぬ。p183 新装版193

この時は、名古屋の盗賊・〔万馬(まんば)〕の八兵衛から助(すけ)っ人を請(こ)われて出かけている。

参照】 〔万馬(まんば)〕の八兵衛

もちろん、彦十が盗賊たちとひろく顔馴染みでないと、展開しない物語が多いのだが。
一方では、顔が売れすぎていると、密偵としての行動半径が狭くなることもたしか。
そのあたりの均衡は微妙である。

まあ、シリーズを書きつないでいる10数年のあいだに、池波さんの頭の中で、彦十は一丁前の盗人として成長したのだと、理解しておこう。

不思議の2は、あげ足とりととらないでいただきたいのだが、シリーズ中での彦十の住まい。
20年前は、「松井町の岡場所に巣食って」いたことは、上掲に記したとおりである。

鬼平に再会してからは、文庫巻5[深川・千鳥橋]では、本所・三笠町1丁目の裏長屋。p23 新装版p24 
文庫巻6[狐火]では、おまさが訪ねていったのは本所・四ッ目の裏長屋。p131 新装版p112 引っ越したとは書かれていない。

_360
(彦十の住まい 上青〇=三笠町1丁目 下青〇=四ッ目裏町
赤○=〔五鉄〕 尾張屋板北本所図)

まあ、〔盗人酒屋〕もあった四ッ目だから、池波さんとしても、このあたりに住まわせたかったのであろう。
(ちょっときついことをいうと、三笠町は、[狐火]が書かれた段階で、校正されてしかるべきだったのでは---)。

以後は、文庫巻8[明神の次郎吉]でも四ッ目。p106 新装版p112

文庫巻10[むかしなじみ]で、二ッ目の〔五鉄〕の2階の奥のひと間に。p174 新装版p183いずれにしても、名古屋や上方へ助っ人に行ったとき以外は、本所から離れていない。
上方へは、[狐火]に、〔(たずがね)〕の忠助(a(ちゅうすけ)について2度ほど、先代の〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう)の盗(つと)めの手助けに出向いたとある。p131 新装版p139

このほかに、大坂へも助っ人として行ったらしいかすかな記憶があるのだが、パソコンのデータ・ベースに入力し忘れているので、見つからない。

【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (11) (12)

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2008.05.24

〔相模〕の彦十(9)

彦十爺(と)っつぁんのことを、シリーズを一読したころは、狂言まわしの一人と読みすごしていた。
継母にうとまれて、家に寄りつかず、無頼な生活をしていた若いころの銕三郎(てつさぶろう)と、無類の手際で物語を盛り上げていく主人公の現在とをむすびつける、何人かの一人と見ていたもので。

何人か---おまさであり、〔五鉄〕の三次郎であり、〔笹や〕のお婆あさんであり、剣友の岸井左馬之助井関録之助であり、表御番医・井上立泉(りゅうせん)であり、二本榎の細井彦右衛門であり---。

もちろん、銕三郎が火盗改メ・長官になってからの狂言まわし役は、ほかにもいる。同心・木村忠吾細川峯太郎がそう。

しかし、鬼平の過去と現在をむすび、しかも狂言まわしの2役がつとめられるのは、彦十爺(と)っつぁんと、〔笹や〕のお婆あさんの2人---しかし、おの初出は、文庫巻7[寒月六間堀]だから、巻1[本所・桜屋敷]から顔を見せている爺(と)っつぁんには、はるかに及ばない。

_24_2そうおもいながらも、便利な使い走りを兼ねた狂言まわしという見方を永いあいだ、ふっきることができなかった。

文庫巻17長編[鬼火]での、こんな科白(せりふ)も軽く読みながしていた不明も、いまでは恥じている。

「まったくどうも、長谷川さまときたら、油断も隙(すき)もあったものじゃあねえ」
彦十は、おもわずぼやいて、
「これ、口をつつしまぬか」
佐嶋与力に叱られたものだ。
「ま、よいわ。この老爺(とつ)つぁんは、わいがむかしなじみゆえ、わしもちょいと頭があがらぬのじゃ」p129 新装版p132

文庫巻24[二人五郎蔵]で、鬼平彦十に、

「---お前は、この平蔵の宝物(たからもの)だよ」p90 新装版p86

文庫24冊を何度も読み返していて、この感慨の真意におもいがいたった時、シリーズがすすむうちに、池波さんが彦十に与えている役割の重さを変えたことがわかってきた。

そうおもうと、文庫巻4[夜鷹殺し]の、鬼平のこんな会話にも、深い奥行きを感ずるのである。

「おれとお前とで、かたをつけてやろうじゃあねえか」
「てへっ----ほ、ほんとうなので?」
平蔵が片眼をつぶって見せ、
「むかしにもどってなあ」
「ありがてえ。かたじけねえ」
彦十は感激の極に達したようである。
平蔵もまた、こやつと酒をのんでいると、年甲斐もなく、若いころの自分になってしまい、ことばづかいまでむかしにもどってしまうのが、われながらふしぎであった。p280 新装版p294

これに類する科白や文章は、その気になって読んでいると、とてつもなく多くの篇で出会う。
要するに、彦十は、鬼平の青春の鏡的な存在になっていたのである。
青春のおもい出は、だれにとっても、ほろ苦く、ほの甘い。

そういう眼でシリーズを読んでいくと、鬼平には、少年時代のおもい出が書かれていない。
(当ブログに、お芙沙(ふさ)や阿記(あき)を配したいいわけのつもりはない)。
誕生と実母の死、そして、いきなり青年時代前期の継母との確執である。
これも、このシリーズの謎の一つといっておこう。
継母との確執が、史実上はありえなかったことは、これまで何度も証してきた。

その都度、小説は史実とはちがうのだから、池波さんの創作は創作として受けとめればいい---その上で、史実に基づいて空想を飛ばすのは、読み手の自由とことわってきた。

彦十の出生と少年期にも、史実はない。ないが、池波さんが創作した断片から、推察はできる。
この項の趣旨は、そういう次第と読みながしていただきたい。

【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (10) (11) (12)

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2008.05.23

〔相模〕の彦十(8)

銕三郎(てつさぶろう 20歳)は、おもいのほか呑みすぎたらしく、飯台にうつぶせに眠ってしまった。
おまさ(10歳)が、2階から父親・忠助のらしい半纏(はんてん)をもってきて、かけた。

「〔斑目(まだらめ)の彦十どん---」
風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)が、彦十(ひこじゅう 31歳)の脇に手を入れて立ち上がらせた。
の兄ぃ。斑目は、言わねえって約束だったろう。あっしには、いいおもい出が一つもねえ土地なんだよ」
「悪かった。さ。相模(さがみ)組は退散するとしようぜ」

権七は、目でおまさに、銕三郎を頼むと指示して、よたつく彦十の躰を支えて表に出た。
のだんな。どこへ帰る?」
「松井町に、きまってるじゃねえか。あの妓(こ)が、待ってらあな」

〔盗人酒屋(ぬすっとざかや)〕から松井町は、竪川ぞいに西へ10丁(1km)ほど。大川へのとば口にあたり、一ッ目弁財天の後背地で、娼家が数軒あることは、すでに述べた。

参照】一ッ目弁財天社の裏手の娼家[〔耳より〕の紋次 (2)

_360
(上が西。西から黄〇=一ッ目弁天社。緑〇=松井町1丁目 
赤○=〔五鉄〕 四ッ目は切絵図からもっと下にはずれる)

おまさが提灯を---と言うのを遮って、暗い夜道をよたよたとあゆむ。

左手に三之橋を見たあたりで、ひょっこり、彦十が立ち止まった。
だち(友)が出てきた」
権七は見まわしたが、それらしい人影はない。
彦十が話しかけた。
「よう。あっしは、酔ってませんって」
「------」
「そりゃあ、ちいっとは呑みやしたよ。付き合いってもんで。わかってますって。てめえの躰のことでやすから---」
「------」
「このあいだ話した、あの仕事は、あんたのご託宣どうり、降(お)りやした。やっぱ、やべえって気がついてね」
「------」
「なあに、忠助どんに、代わりを頼んどきやしたから---」
「------」、
「それより、銕三郎って若えおさむれえ---あんたのいうとおり、いい男でやしたよ。な、の兄ぃ。いやぁ---この兄貴分は小田原の人で、権七つぁんってんだ。箱根の雲助さま。こちらが7(なな)で、あっしが彦十で10(とう)だもんで、あっしが弟分ってことになって---ね、いいだろう?」

すこし気味が悪くなってきた権七
「おい。のだんなよ、誰と話してるんでぇ?」
「誰って、だちが、そこにいるじゃねえか」
「見えねえぜ」
「おれには、いるんだ。ほら、の兄ぃを大事にしろって言っとるよ」
(気がふれたか)
権七はおもった。

「じゃ、またな」
彦十が歩きだしたので、しかたなく、権七もあとを追う。
「いまのは、誰でえ?」
「村からずっといっしょの、だち
「村って、おめえの生まれた斑目?」
「そう。おっ母(かあ)の世話も見てくれとるんよ」
「つじつまがあわねえな」
「いいってこと---」

「ところで、のだんな。住めえは、松井町っていったよな?」
「一ッ目弁天社の裏手」
「金猫、銀猫か。お安くねえな」
「金猫も銀猫も銅猫もかんけえねえって。うちのは土猫よ。けどよう、気立てがよくって---女は、きりょうじゃねえ、やっぱ、気立てだねえ。そうだろ、の兄ぃ?」

ちゅうすけ注】一ッ目弁天社は現・江島杉山神社の境内(墨田区千歳1丁目)
松井町1丁目(現・墨田区千歳一丁目)
金猫・銀猫は松井町の娼婦の異称。一つ目は猫に小判を見せる所(とこ)

「ところで、の兄ぃの棲家(すみか)を聞いてたっけ?」
「言ってなかったかい?」
「聞いてねえような気がする」
「永代橋東詰で、〔須賀〕って居酒屋をお須賀がやってる」
「その、お須賀姐(あね)さんってえのは?」
「女房みてえなものさ」
「みてえなもの---ってぇのが、うれしいねえ」
「こんど、呑みにきてくんな」

兄ぃんとこが呑み屋だってのに、なんで、はるばる、四ッ目くんだりまで---」
「だからよう、あっしの親分の長谷川さまに、虫がつかねえように気をくばってるんじゃあねえか」
「---おまさ坊は、虫じゃあねえよ」
「そうだ。虫じゃあねえ。蛹(さなぎ)だよな」
「蛹のうちは、おまさ坊。蝶ちょになった時にゃあ、まあちゃん、ってことに---」

【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (9) (10) (11) (12)


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2008.05.22

〔相模(さがみ)〕の彦十(7)

(てつ)お兄(にい)さん。ほんと、ですか?」
耳ざといおまさ(10歳)が、眉間を小さく寄せて訊いてきた。
なにか言いかけた〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)を制した銕三郎(てつさぶろう 20歳)が、
於嘉根(おかね)のことですか? ほんとうです」

「お嘉根ちゃんっていうんですか? いくつですか?」
「2歳です」
「会いたい。いつ、会えますか?」
「それが、会えないのです。拙も、まだ、顔を見たことがないのです」
「どうして?」

参照】[妙の見た阿記] (5)

銕三郎が声を落として話した。
おまさ彦十が身をのりだして耳をそばだてる。

平塚の婚家先から、芦ノ湯村の実家に逃げかえった阿記(21歳=当時)を、鎌倉の縁切り寺まで送ったこと。婚家先がよこした顔役・〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 35歳=当時)を、権七の機転で手を引かせたこと。
阿記が縁切り寺で於嘉根を産んだこと。
銕三郎の実母が於嘉根の引き取りを申し出たが、拒まれたこと---。

馬入〕の勘兵衛のくだりで、権七が口をはさんだ。
「あっしが、勘兵衛を説き伏せたんじゃねえんで。長谷川さまに、勘兵衛のやつがころっとまいっちまったんでさぁ」

【参照】[与詩を迎えに] (37)

「わかるわ。誰だって、お兄さんには、ころりっ、よ」
おまさが相槌をうつ。
彦十は、
おまさ坊。おめえって娘(こ)は、いつでも気が早すぎるんだよ」
彦十のおじさんが、遅いだけよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
彦十は、裏の厠へ行くふりをして、裏庭に立った。

呼ぶまでもなく、井戸端で鹿が待っていた。
「あの長谷川って若ぇのを、信用していいものかね?」
鹿が応えた。
「もう、信用しちまってるくせに---」
「いやぁ、念には念をいれて---と思ってね」
「裏切られたって、失うものなんか、なんにもないだろうに---」
「ちげぇねえ。ま、これで2人の意見が一致したってことだ」
「いつでも、責任はこっちのせいにするんだから---」

戻ってきた彦十が、景気のいい声で言った。
「縁がために、じゃんじゃん、やろうぜ」
おじさん。人に奢るんなら、うちへの借りを払ってからにして」
おまさ坊。それを言わなきゃ、おめえは四ッ目小町なんだがなぁ」
彦十どの。今夜のところは、拙におまかせを---」
「若えのに、嬉しいことを言ってくれやすねえ」

新しいちろりを運んできたおまさが、
お兄さん。お嘉根ちゃんに会いたいでしょう?」
「そりゃあ---」

_300
(歌麿「針仕事」 阿記と於嘉根のイメージ)

「ところで、おみねどのは、物井に?」
まぎらすように、銕三郎が訊いた。

参照】物井→[盗人酒屋]の忠助(5)

「おおばさんといっしょに、遺骨をお墓へ納めに行ってます」
「香料をつつもうとおもっていたんだが---」
「おこころざしを、おおばさんへ伝えておきます。でも、万事、〔法楽寺〕のお方がよくなさったみたいで---」
おまさが〔法楽寺〕の名を口にした時、たまたま、別の飯台へ肴をもってきた父親の忠助の肩がぴくりと動いた気配を、銕三郎は目の端でとらえた。
彦十は、もう、すっかりできあがっていた。

【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (8) (9) (10) (11) (12)


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2008.05.21

〔相模(さがみ)〕の彦十(6)

相模国(さがみのくに)足柄上郡(あしがらかみこおり)斑目(まだらめ)村の北を流れる酒匂(さかわ)川が氾濫、堰をこわして村と田畑を流失させたのは、享保19年(1734)8月である。

彦十の母の前夫と、その間にできていた男の子と女の子の3人が濁流にのまれて死んだ。
彦十は生まれていなかった。
はげしい雨の中を、高みにある村長(むらおさ)の家へ、濡れた桑葉を嫌う蚕(かいこ)のために、水気を拭きとりに行っていた彼女ひとりが助かった。

家を流された者たちは、井野(いの)明神社のある西の丘に、仮小屋をつくって藩のお救いを待った。
一家でひとりだけ残って途方にくれていた彼女に、
「ここで、雨露をしのがねえだか---」
声をかけた男がいた。
男もかみさんと子を濁流に失っており、むしろと板で組み立てた仮小屋に一人で住んでいた。

男と女が一つの小屋で寝泊りしたのだから、30j前の彼女が彦十を身ごもるのはわけなかった。
彦十は、翌年の晩春に生まれた。
男も女も、ほとんど風呂へはいらない躰で交わったのに、産湯ともいえないぬるま湯で洗った赤子のはだは、搗(つ)きたての餅のようにつやつやしていた。

村におりたとき、男は、彦十にも母にも冷たかった。
男は、父親であることを放棄していた。

河川敷になっていた田畑を元の姿に戻すために、母は休むまもなく働き、彦十が10歳のとき、疲れきったはてに、いまでいう過労死をした。

枯れ木のように軽い遺体になった母を背負い、井野明神社の裏手の林に運び、彦十はひとりで埋めた。
穴に横たえた母に土をかけている時、林の奥から一頭の雄鹿が出てきて、少年を見つめた。
その鹿の右の瞳(め)が、白くまだらだった。
(こいつが、村の主(ぬし)だったなんだ)
「ここにおっ母(かあ)を寝かせただ。目ぇ覚ましたら、なんか、食うもんを恵んでやってくんな」
鹿は、わかったと、首をふった。

彦十少年はさらに言った。
「いまは、早く、森へ帰ェれ。村人さぁ見っかると、左の瞳もまだら目にされちまうぞ」
鹿はうなずいて去った。

_320
(赤〇=斑目村・相模国足柄上郡 青〇=小田原 水色=酒匂川)

彦十少年はその日に村を捨て、東海道の旅人の荷を宿場から宿場へと持たしてもらいながら、江戸へたどりついた。
彦十が、こころのこもった会話がしたくなると、まだら瞳の鹿があらわれ、相手をしてくれた。
鹿は、明るく振舞ったほうが、駄賃が多くなると教えた。
「おめえのことは、だれにも告げるもんではねえ」
彦十は、鹿の教えを守った。

江戸では、本所・五ッ目の五百羅漢堂の床下を寝ぐらにしていた時に、香具師(やし)の小頭(こがしら)・っつ(42歳)ぁんに声をかけられた。
「どこからきた?」
鹿が、「足柄山でやす」といえと言った、
「足柄山で何をしていた?」
鹿が、「熊と相撲をとったり、猿と木登り競(くら)べをしてやした」と答えろとすすめた。
「おもしろい。ついてこい」
こうして、小頭の使い走りとなった。

15の時に、声色(こわいろ)の芸をおぼえて、五百羅漢堂の北面の道の物売りの露店がならんでいる隅でやった。
熊や猿、鶯(うぐいす)や鳶(とんび)の鳴き声である。
とりわけ、熊との取り組みと、猿の群れの瀬渡りの時の騒ぎが受けた。
鹿の声は使わなかった。

_360
(本所・五百阿羅漢寺の北脇の露天 『江戸名所図会』)

鬼平犯科帳』巻1[本所・桜屋敷]に、

こやつ、相模無宿(さがみむしゅく)の彦(ひこ)十という男で、本所(ところ)の松井町一帯の岡場所に巣食っていた香具師(やし)あがりの無頼者で---p65 新装版p69

いま、銕三郎の目の前にいるのは、彦十のおじさん---とおまさ (10歳)が呼んでいる30男であった。
大川の水で、足柄山の垢をすっかり落とした男といえる。
かわりに、赤子のときのつやつやしていた肌は、酒焼けして赤いまだらができている。

参照】一ッ目弁財天社の裏手の娼家[〔耳より〕の紋次 (2)

彦十が、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)に問いかけた。
「おめえさんちと、こっちの若えおさむれえは、どういった仲なんでぇ?」
「こちらの長谷川さまのお子をお産みなさった女(ひと)の、義理の兄きってことよ」
おまさが、
「ひえっ!」
悲鳴をあげた。

参照】 2008年5月6日~ [おまさ・少女時代] (2) (3) 
参照】 2008年3月20日~ [於嘉根(おかね)という名の女の子]   (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
参考】2008年4月20日~ [〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3) (4) (5) (6) 
参照】 〔風早(かざはや)〕の権七 (A) (B) (C) (D) (E) (F) (G)
参照】2008年5月16日~  [相模(さがみ)の彦十] (1) (2) (3) (4) (5)  (7) (8) (9) (10) (11) (12)

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2008.05.20

〔相模(さがみ)〕の彦十(5)

相模(さがみ)〕の---というより、いまは〔斑目(まだらめ)〕の彦十(ひこじゅう 31歳)と呼ぶべきだろうが、彦十自身が斑目村生まれを自称することを嫌がっているので、やはり、〔相模〕の彦十で通すことにしよう。

彦十と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)は、同じ相模で、しかも小田原藩の領内育ち同士とわかると、幾分か親しみが湧いたようである。
郷土愛というほどのものではないが、なんとなく許しあうところが見えた。徳川が設けた270余藩という、土地の小割りの効果ともいえようか。

もっとも、権七が箱根の荷運び雲助だったと知ると、格の点でいささか引け目を感じたものの、この20年來、江戸で暮らしてきていることを、彦十のほうは気ばりの支えにしたようでもあった。

彦十のおじさん。まだらめ村の、まだらってどう書くの?」
おまさは、なんでも字習いのタネにしてしまう。

「2つの王(おう)って字のあいだに文(ふみ)って字が割って入ってやがるんだ」
「あら、王偏(おうへん)に、旁(つくり)が2つなんて、めすずらしい」
「なんでい、その旁ってえのは?」
彦十のおじさんには、かかわりないの」
「ちぇっ。聞いておいて、なんてえ、言いぐさでぃ」

おまさどの。王(おう)と書いてはいますが、ほんとうは玉(ぎょく)でしょう。玉(ぎょく)に文(あや)---文様(もんよう)がついているから、まだらじゃないのかな。印材(いんざい)の鶏血石(けいけつせき)といって、緑がかった石に鮮やかな朱色の血がまだらに流れているようにみえるのがありますから」
(てつ)お兄さん、その鶏血石、もってますか?」
「朱色の流れが多いものは、とても高価で、拙などは手がでません。拙が父上からいただいているのは、鶏血石とは呼べないような、ちょろちょろっと朱色がまだらに見える、いうなれば、貧血石の---」
「貧血石はよかった---」
彦十が、わざと素っ頓狂な声をだしたので、みんな、大笑いし、それで、一気に座がなごんだ。

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(貧血石の印材)

彦十には、そういう、機転をきかして人の気持ちをもりあげる得がたい才能があるようだ。
(この才能は、のち、〔笹や〕のおとの壮絶な舌戦で、読み手を笑わせてくれる)。

彦十どの。お生まれになったという斑目村にお寺か神社は?」
「高台に、井野(いの)明神社ってのがありやして、子どもたちの遊び場のひとつでやした」
井野明神社の苦いおもい出ははなさない。
「ご神体は?」
「見たことがないもんで、知りやせん」
「鏡かなにかに、まだらな文様でもついていたんですかねえ?」
「そのこととはかかわりがあるかどうか、井野明神の神さまは、井戸がお嫌いというんで、村には一つも井戸がありやせんで---」
「水はどうしていたのですか?」
「酒匂(さかわ)川から堰をつくって引いてた、用水を使っておりやした」
「変わったご託宣の神さまですね」

彦十が生まれたのは享保20年(1735)の春だが、その前年の8月に、酒匂川の堤がきれて、村中に濁流が走って多くの人馬がまきこまれ、母の前夫と、その間に生まれた男の子と女の子も水死したこと、生き残った村人は井野明神社のある丘に小屋がけして暮らしたこと、彦十の誕生は、そのむしろ張りの小屋にかかわりがあること、田畑は河川敷と化していて、藩からのお救い米で命をつないだことも、口にしなかった。

参照】 [おまさ・少女時代] (2) (3) 

【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)

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2008.05.19

〔相模(さがみ)〕の彦十(4)

ようやく、〔相模(さがみ)〕の彦十の生家のある村を決めることができた。

斑目(まだらめ)村。

どこかって?
相模国足柄上郡(あしがらかみこおり)斑目村(現・神奈川県南足柄市斑目)。
というより、地図で確認していただこう。

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酒匂(さかわ)川の上流の赤〇=斑目
青〇=小田原宿。
左下の水色は芦ノ湖。
緑○=阿記(あき 23歳)と於嘉根(かね 2歳)のいる芦ノ湯村。
黄〇=猪鼻(いのはな)ヶ嶽。別称・金時山(きんときざん)。標高1,212m。箱根外輪山の最高峰。
(地図は明治19年(1986)刊 参謀本部製 江戸期にもっとも近い正確なもの)

なぜ、斑目村?
彦十爺(と)っつぁんの気持ちを忖度(そんたく)しつくした末、である。
そのことは、あとで、彦十爺っつあん自身の口から語ってもらう。

池波さんが、文庫巻6[狐火]で、

ともあれ、長谷川平蔵・おまさ・相模の彦十との関係は特別なものがある。
おまさの亡父・鶴(たずがね)の忠助(ちゅうすけ)は盗賊あがりで、なんとふてぶてしく、本所の四ツ目に〔盗人(ぬすっと)酒屋(ざかや)〕という看板をかけ、居酒屋をいとなんでいたものだ。
ここへあつまる連中は、いずれも、一癖(ひとくせ)も二癖(ふたくせ)もあるやつばかりで、相模の彦十も、その一人であった。p190 新装版p200

これは、この項の (2) にも引用しておいた。
参照】〔鶴(たずがね)〕の忠助

狐火]ではさらに、まともな所帯をもったこともない爺っつぁんが、意外に人生の達人である面を見せる。
中川の新宿(にいじゅく)の渡し場(葛飾区新宿)の茶店で、店主をしとている〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち)を見かけたおまさだが---。
参照】 〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七

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(新宿の渡しの新宿側。向こうは亀有。『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ

かつて男にしてやった〔狐火(きつねび)〕の息子の又太郎に未練のあるおまさは、彦十に相談をもちかける。

「おじさん。だから私は、二代目(又太郎)の仕わざじゃないと---」
「なるほどなあ。二代目といい仲になったときのお前は、女のあぶらがたっぷりのって、胸と胸が通い合ったばかりじゃあなく、躰と躰がぴったりあっちまった---」
「よして、おじさん---」
「男と女の躰のぐあいなんてものは、きまりきっているようでいてそうでねえ。たがいの躰と肌がぴったりと、こころゆくまで合うなんてことは、百に一つさ。まあちゃん。お前と二代目は、その百に一つだったんだねえ」
「いや、いやだったらもう---」p134 新装版p141

参照】[狐火(きつねび)〕の勇次郎(二代目)

爺っつぁんに、こういう人間通の台詞(せりふ)が吐けるとは、じつは、[狐火]まで、おもってもいなかった。
見直した。

時は、25年ばかり遡行(そこう)して、明和2年(1765)の梅雨あがりのころ。
銕三郎(てつさぶろう)20歳、おまさ10歳、〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)は40がらみ、〔風速(かざはや)の権七(ごんしち)33歳、そして〔相模無宿〕の彦十31歳。
場所は、本所四ッ目の〔盗人酒屋〕---。

久しぶりあらわれた銕三郎権七に、おまさがかかりっきりで世話をやいている。
それをみかねた彦十が、2人の飯台にやってきて、
おまさ坊は、おめえさん方のためだけのおまさ坊じゃあ、ねえんで。この店ぜんぶの客のおまさ坊なんでさあ」
立ち上がった権七の帯を引いておいて、銕三郎が、
「失礼があったらご勘弁ください。おまさどのが印旛沼(いんばぬま)という字はどう書くのか---とお尋ねだったので、つい、長くなってしまって---。もし、およろしければ、そなたが教えてあげてくださるといいのだが---」
「おいおい、おさむれえさんよ。はばかりながら、この彦十は、いんばぬまなんて、ど田舎の臭え水のあるところには行ったこともねえ。行ったこともねえ字をしってるわけはねえ」

彦十おじさん。やめて---」
おまさがとめたが、権七が買った。
「おお。彦十さんとやら。印旛沼をど田舎の臭え水ところとおっしゃったが、この店のご亭主も、おまさちゃんのおっかさんも、その、ど田舎の臭え沼のほとりの生まれだってこたぁ、承知で言ってなさるんでやしょうね」

「おや、おめえさん、相模なまりがありやすねえ?」
「小田原在の風速村の生まれでやすからね。相模なまりは、箱根の雲助の名札みてえなもんでさあ。相模なまりで悪うござんしたね」
「待った! この彦十さんも、〔相模無宿〕が通り名で---」
「相模も、江ノ島から金時山の東側まで広うござんすが、相模のどちらで?」
「いや、その---」
「なんだ、偽(にせ)相模でやんすか」
「えい、言っまわあ。酒匂川の---」
「ほう、相模川の---?」
「ずっと、上(かみ)の---」
「足柄上郡の---」
「怒田(ぬだ)村の東の---」
「---ってこたあ---」
「そうよ。斑目村」
「それならそうと、初手(はな)から、はっきり言ゃあいいのに---」
「言うと、みんなが目をのぞきこむんで---」
大久保さまの、立派な領内でさぁね」
「話のわかるお兄(に)いだ」

つまり、彦十は、〔斑目〕を通り名にするくらいなら、〔相模無宿〕のほうが押しがきくと思っていたのである。
それだけ、美意識---いや、自意識が強い仁ということかも。

この先、権七彦十が義兄弟の盃を交わしたことしいうをまたない。

参照】 [おまさ・少女時代] (2) (3) 

【参考】南足柄市
斑目の道祖神

【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) 

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2008.05.18

〔相模(さがみ)〕の彦十(3)

数年前、某テレビ局の鬼平を語るといった趣向の番組の終了後の、ちょっとしたパーティで、江戸屋猫八師匠がこんなことを打ち明けてくださった。
「最近、やっと『鬼平犯科帳』全巻を揃えて買ったんですよ」
(えっ---)
とおもった。

そうすると、猫八師匠は、シリーズ全巻を通して読んだ上での彦十役づくりでなく、出演のたびごとにその篇かぎりの彦十を演じていたことになるではないか。
(そうか、猫八師匠も、彦十を、かなりチャランパンな人物と見抜いていたんだ)

いや、池波さん自身も、当初は、鬼平の過去と現在の繋ぎ役の一人であり、もう一人の笑いの引きだし役(コメディ・リリーフ)である〔笹や〕のおの口喧嘩の好敵手(?)でもある彦十の扱いに、あまり重きを置いていなかったようにおもえる。

ちなみに、鬼平の過去と現在の繋ぎ役でもある茶店〔笹や〕のおのシリーズへの初顔見せは、文庫巻7---第49話[寒月六間堀]。p217 新装版p227

5月14日にあげた、彦十登場篇のリストから、当初の2年間分にあたる24編分を再録してみる。
池波さんは、『鬼平犯科帳』シリーズの連載は、1年か2年で書き終えるつもりであったと、いろんなところで明かしている---2年なら、24編分である。
第24編目は[密通]である。

[1-2  本所・桜屋敷] 『オール讀物』1968年2月号 
[1-8  むかしの女]  『オール讀物』1968年7月号  
[2-6  お雪の乳房]  『オール讀物』1968年2月号  
[3-1  麻布ねずみ坂] 『オール讀物』1968年4月号 

ご覧のとおり、当初の2ヵ年・24篇中、彦十が出ているのはたったの4編---登場率1割6分7厘。この程度の打率だとプロ野球では2軍かベンチ・ウォーマーでしかない。

ついでに補記しておくと、『鬼平犯科帳』シリーズは、連載掲載誌『オール讀物』(文藝春秋)で、第24編目の[密通]から、同誌の最後尾に配されることになった。
いわゆる、「トリ」をとったのである。

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(『オール讀物』1970年1月号目次・部分 [密通]が最後尾に)

この場所は、もっとも人気のある連載物に与えられる。

池波さんが連載の延長を決意した時期の推測だが、東宝へ移籍なさった松本幸四郎丈(先代 のち白鸚)のテレビ化出演を、池波さんと長谷川伸師の会で同門だった故・市川久夫プロデューサーが取り付けたのが、第18話[艶婦の毒]あたり。

そう類推する根拠は、一つには、テレビ化はふつう、2クール(26週)分で企画すること---この場合、原作がたりない分は、池波さんから、鬼平シリーズ以外でも使えそうな単発短編(△)は脚色していいとの許諾がでていたから、2クール26本は容易であった。
さらに、幸四郎丈の体がほとんどあいていたから、つめて撮影できた。
三つ目の根拠は、テレビ化には、通して登場するヒロインが必要との市川フ゜ロデューサーの助言で、第25話目におまさが造形されていること。

さて、幸四郎丈=鬼平彦十に扮したのは、河村憲一朗さんであった。

テレビ放送26本は、
 血頭の丹兵衛  1969.10.7
△四度目の女房  1969.10.14
 谷中いろは茶屋 1969.10.21
 蛇の眼       1969.10.28
△怪談さざなみ伝兵衛 1969.11.4
〇本所・桜屋敷   1969.11.11
 暗剣白梅香    1969.11.18
 密偵(いぬ)    1969.11.25
 唖の十蔵      1969.12.2
 女掏摸お富    1969.12.16
 老盗の夢      1969.12.23
 埋蔵金千両    1969.12.30
 お雪の乳房    1970.1.6
 むかしの女     1970.1 13
 駿州宇津谷峠   1970.1.20
△熊五郎の顔    1970.1.27
△市松小僧始末  1970.2.6
 霧の七郎      1970.2.13
 山吹屋お勝    1970.2.20
 浅草御厩河岸   1970.2.27
〇血闘        1970.3.3
△罪          1970.3.10
△八丁堀の女    1970.3.17
△男の毒       1970.3.24
△井筒屋おもん   1970.3.31
(〇=原作に彦十が登場 △=『犯科帳』シリーズ外)

上のテレビ化26本の脚色で、彦十がどういう形で顔をみせているかは未調査だが、原作では[血闘]だけに登場している。

また、テレビ化の冒頭のほうに原作にある篇を重点的に配置しているのは、原作を『オール讀物』連載中なり、第1巻(1968.12.1)、第2巻(1969.12.1)として発売されていた単行本の読者のことを考慮したのであろう。

さて、このテレビ放映6ヶ月中の『オール讀物』の連載に、彦十が登場した篇はない。
ということは、池波さんの中に、彦十は、まだ、それほど大きな地位を占めていなかったともいえそうである。
   
参照】 [おまさ・少女時代] (2) (3) 

【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)

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2008.05.17

〔相模(さがみ)〕の彦十(2)

相模(さがみ)の彦十爺(と)っつぁんの顔見せリストをつくっていて、些細な発見をした。
文庫巻10[むかしなじみ]である。

ともあれ、長谷川平蔵おまさ・相模の彦十との関係は特別なものがある。
おまさの亡父・(たずがね)の忠助(ちゅうすけ)は盗賊あがりで、なんとふてぶてしく、本所の四ツ目に〔盗人(ぬすっと)酒屋(ざかや)〕という看板をかけ、居酒屋をいとなんでいたものだ。
ここへあつまる連中は、いずれも、一癖(ひとくせ)も二癖(ふたくせ)もあるやつばかりで、相模の彦十も、その一人であった。p190 新装版p200

この時の彦十は、30歳を越えたかどうかの、男としての精気がみなぎり、目玉にも油断がならない光があったとおもうが、彼のことはいまは別にして---[盗人酒屋]に付されたふりがなにご注目。

文庫巻4[血闘]で初めて登場した忠助の〔盗人酒屋〕にふられたふりがなは、〔盗人(ぬすっと)酒屋〕で、「酒屋」にはふられていなかった。
だから、ぼくは、ずっと〔盗人酒屋(さかや)〕と濁らないで読んできていた。

池波さんは、〔酒屋(さかや)〕の上に〔盗人(ぬすっと)〕が置かれれば、江戸っ子なら間違いなく〔酒屋(さかや)〕は〔酒屋(ざかや)〕と濁るものと考え、文庫巻4[血闘]では、あえてふりがなをふらなかったのであろうか。
ほんとうに、そうおもっておいていいのか---3代つづいての東京そだちの鬼平ファンの方にお聞きしてみたい。

常連の一人だった相模国そだちの彦十は、どう呼んでいただろう?
忠助どんの店」?

_1 そもそも、彦十は、相模のどこの生まれだったのか?
文庫巻1[本所・桜屋敷]では、〔相模無宿〕とされている。

こやつ、相模無宿(さがみむしゅく)の彦(ひこ)十という男で、本所(ところ)の松井町一帯の岡場所に巣食っていた香具師(やし)あがりの無頼者で、むろん平蔵よりは年長なのだが、
「入江町の銕さんのためなら、いのちもいらねえ」
などと、いいふらし、若い平蔵を取り巻いていたやつどもの一人であったのだ。p65 新装版p69

無宿---ということは、生まれた土地で事件をおこして人別を失ったとみていいのであろう。
しかし、その生地の手がかりが記されていない。

彦十爺っつぁんのカテゴリーを立てようと決めたとき、相模の内陸部---厚木か海老名(えびな)あたりを候補にあげたが、土地勘がほとんどないことに気づいた。
地名は、東名高速道のサービス・エリヤに立ち寄って覚えていただけであった。
江戸期の地図も持っていない。
やはり東海道筋か、江ノ島道あたりということになる。
しかし、東海道だと、小田原宿の〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)という、銕三郎(てつさぶろう 20歳)の盟友がいる。
平塚宿では〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんぺえ 35歳=当時)という顔役も、銕三郎に心酔したことになっている。

参照】〔馬入〕の勘兵衛=与詩(よし)を迎えに (27) (29) (37)

とすると、『分間延絵図』の手持ちがあるのは、藤沢からこっちか、江ノ島道あたりになってしまう。

急いで、密偵・彦十が遠出をした篇を頭の中でくってみた。
こういう時、つくってあるデータ・ベースは役に立たない。「彦十 遠出」なんて採集項目を立てていないからである。
記録よりも記憶のほうが、有効に働く。

_3
文庫巻3[麻布ねずみ坂]で、大坂の香具師の元締・〔白子(しらこ)〕の菊右衛門の配下の浪人・石島精之進(30男)を尾行(お)って、同心筆頭・酒井祐助と上州・高崎まで行き、そこで女ができて、そのまま住みついたのは、方角違いだから除くとして---。p36 新装版p38

参照】 〔白子(しらこ)〕の菊右衛門
 石島(いしじま)精之進

そういえば、高崎から、いつ女と別れ、本所・三笠町1丁目の裏長屋へ戻ってきたのかも、池波さんは明かしていない。(文庫巻5[深川・千鳥橋]p23 新装版p24)
いや、何ヶ月、高崎にいたのか、その間の裏長屋の店賃はどうなっていたのかも言及されていない。
もっとも、文庫巻6[狐火]p116 新装版p123 では、四ッ目の裏長屋に変わっているから、三笠町は、店賃不払いで大家が処分したのかも知れない。
ま、小説だから、つじつまはあわなくてもかまわないが---。

いや。「チャランポランこそ、彦十に似つかわしい」というべきだ。

_13 文庫巻13[熱海みやげの宝物]では、鬼平と東海道の相模の内を往復している。
しかし、どの土地でも、特別な執着を示していない。

となると、藤沢の手前の影取(かげとり)か戸塚あたりを想定していたのも無駄になりそうである。
こちらも、チャランポランで生まれた土地を決めたらいい。

それにしても、こういう法の埒外(らちがい)にいる人物ではあっても、観光資源として、あえてとりこんでしまう広い度量とマーケティング・センスに富んだ市町村があるといいのだが---。

参照】 [おまさ・少女時代] (2) (3) 

【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1)  (3) (4) (5) (6) (7) (8) (10) (11) (12)


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2008.05.16

〔相模(さがみ)〕の彦十

岸井左馬之助、〔笹や〕のお、〔盗人酒屋〕の忠助おまさ高杉銀平師---と、銕三郎(てつさぶろう のちの鬼平)の若かったころの知友を出した。

とうぜん、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう)爺(と)っつぁんの出番がきた。
とはいえ、銕三郎が20歳前後のころの彦十についての手がかりは、それほど多くはない。
どこまで迫れるか、やってみないとわからない。

とりあえず、手がかりの一つ---彦十が登場している90篇のリストを掲げよう。
鬼平犯科帳』は、長編の各章を1篇として計算すると、164篇。彦十はうち90篇に顔を見せている。登場率5割3分ちょっと。おまさ佐嶋忠介木村忠吾の7割に比すると、いささか少ないが、彦十と肩をならべるのは〔小房(こぶさ)の粂八伊三次、同心筆頭・酒井祐助ぐらいである。

[1-2  本所・桜屋敷] 天明8年(1788)p65 新p69
[1-8  むかしの女]   寛政2年(1790)p277 新p293
[2-6  お雪の乳房]  寛政4年(1792)p255 新p266
[3-1  麻布ねずみ坂] 寛政4年(1792)p20 新p21
[4-6  おみね徳次郎] 寛政元年(1789)p227 新p238
[4-8  夜鷹殺し]    寛政元年(1789)p278 新p292
[5-1  深川・千鳥橋] 寛政元年(1789)p23 新p24
[5-2  乞食坊主]   寛政元年(1789)p71 新p74
[5-3  女賊]      寛政元年(1789)p99 新p104
[5-4  おしゃべり源八]寛政2年(1790)p143 新p150
[5-5  兇賊]      寛政2年(1790)p204 新p215
[6-3  剣客]      寛政3年(1791)p88 新p96
[6-4  狐火]      寛政3年(1791)p116 新p123
[6-6  盗賊人相書]  寛政3年(1791)p221 新p232
[7-4  掻掘のおけい] 寛政4年(1792)p111 新p116
[7-5  泥鰌の和助始末]寛政4年(1792)p170 新p178
[7-6  寒月六間堀]  寛政5年(1793)p214新p224
[8-3  明神の次郎吉] 寛政5年(1793)p106 新p112
[8-4  流星]       寛政5年(1793)p175 新p166
[8-5  白と黒]     寛政5年(1793)p221 新p233
[9-1  雨引の文五郎] 寛政5年(1793)p12 新p13
[9-2  鯉肝のお里]  寛政5年(1793)p60 新p62
[9-3  泥亀]      寛政5年(1793)p114 新p119
[9-5  浅草・鳥越橋] 寛政6年(1794)p187 新p195
[9-6  白い粉]     寛政6年(1794)p217 新p226
[9-7  狐雨]      寛政6年(1794)p269 新p282
[10-1 犬神の権三]  寛政6年(1794)p18 新p34
[10-2 蛙の長助]   寛政6年(1794)p66 新p70
[10-5 むかしなじみ] 寛政6年(1794)p173 新p182
[10-7 お熊と茂平]  寛政6年(1794)p276 新p290
[11-1 男色一本饂飩]寛政6年(1794)p41 新p42
[11-3 穴]       寛政6年(1794)p123 新p128
[11-5 密告]      寛政6年(1794)p186 新p193
[11-6 毒]       寛政6年(1794)p239 新p250
[12-1 いろおとこ]   寛政7年(1795)p10 新p10
[12-2 高杉道場・三羽烏]寛政7(1795)p53 新p56
[12-3 見張りの見張り]寛政7年(1795)p118 新p125
[12-4 密偵たちの宴] 寛政7年(1795)p158 新p166
[12-5 二つの顔]    寛政7年(1795)p215 新p226
[12-6 白蝮]       寛政7年(1795)p264 新p279
[12-7 二人女房]    寛政7年(1795)p318 新p333
[13-1 熱海みやげの宝物]寛政7(1795)p7  新p8
[13-2 殺しの波紋]   寛政7年(1795)p62 新p65
[13-4 墨つぼの孫八] 寛政8年(1796)p153 新p159
[13-5 春雪]       寛政8年(1796)p209 新p226
[13-6 一本眉]     寛政8年(1796)p244 新p253
[14-1 あごひげ三十両]寛政8年(1796)p19 新p19
[14-2 尻毛の長右衛門]寛政8年(1796)p64 新p66
[14-3 殿さま栄五郎] 寛政8年(1796)p123 新p125
[14-4 浮世の顔]    寛政8年(1796)p162 新p167
[14-5 五月闇]     寛政8年(1796)p206 新p213
[14-6 さむらい松五郎]寛政8年(1796)p249 新p256
[15雲竜剣-2 剣客医者]         p89 新p76
[15雲竜剣-3 闇]             p130 新p135
[15雲竜剣-7 秋天晴々]         p296 新p307
[16-4 火つけ船頭]            p182 新p189
[16-5 見張りの糸]            p210 新p208
[16-6 霜夜]                p284 新p295
[17鬼火-3 旧友]              p114 新p118
[17鬼火-5 丹波守下屋敷]        p188 新p193
[17鬼火-6 見張りの日々]        p252 新p259
[18-2 馴馬の三蔵]            p60 新p62
[18-3 蛇苺]                 p90 新p93
[18-4 一寸の虫]              p141 新p133
[19-3 おかね新五郎]           p112 新p116
[19-5 雪の果て]              p210 新p216
[19-6 引き込み女]            p277 新p287
[20-1 おしま金三郎]           p29 新p30
[20-5 高萩の捨五郎]           p173 新p179
[20-6 助太刀]               p224 新p232
[21-2 瓶割り小僧]             p51 新p53
[21-4 討ち入り市兵衛]          p116 新p119
[21-5 春の淡雪]              p197 新p205
[21-6 男の隠れ家]            p229 新p237
[22迷路-1 豆甚にいた女]        p14 新p14
[22迷路-2 夜鴉]              p49 新p46
[22迷路-4 人相書二枚]         p109 新p104
[22迷路-5 法妙寺の九十郎]      p136 新p130
[22迷路-6 梅雨の毒]           p158 新p151
[22迷路-8 托鉢坊主]           p226 新p215
[22迷路-9 麻布・暗闇坂]        p259 新p246
[22迷路-10 高潮]             p281 新p266
[22迷路-11 引鶴]             p316 新p300
[23炎の色-1夜鴉の声]          p54 新p53
[23炎の-2 囮]               p112 新p109
[23-3 荒神のお夏]            p163 新p157
[23-4 おまさとお園]            p194 新p188
[24-2 ふたり五郎蔵]           p54 新p52
[24誘拐-1 相川の虎次郎]        p149 新p142
[24誘拐-2 お熊の茶店]          p150 新p143

史実の長谷川平蔵宣以は、寛政7年(1795)5月10日に歿しているので、寛政8年から先は年代を省略。
p=ページ。その篇の最初に現われたページ。「新」は新装版のページ。

【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)

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2008.05.15

高杉銀平師(6)

高杉道場での同門者は、その精神的つながりや懐古的な感傷などから、いまでいうと、年齢差のある同級生に近いのではなかろうか。

とくに精神的なつながりで結ばれているのが岸井左馬之助であり、やや近いのが井関禄之助であろうか。
感傷性では、池田又四郎滝口丈助といっておこう。

鬼平犯科帳』における同門者は、精神的なつながりだけではなく、物語の端緒であったり、鬼平の引き立て役であったりと、じつに絶妙な活躍をする。

同門者のリストを掲げてみる(篇名は初登場の時)。
鬼平ファンなら、このリストを見ただけで、物語の大要がおもいうかぶはずである。

[1-2 本所・桜屋敷]  岸井左馬之助
[3-6 むかしの男]   大橋与兵衛(久栄の父親)
[5-2 乞食坊主]    井関録之助、菅野伊助
[7-5 泥鰌の和助始末]松岡重兵衛 食客。50歳前後。
[8-3 明神の次郎吉]  春慶寺の和尚。宗円。
[8-6 あきらめきれずに] 小野田治平。
                多摩郡布田の郷士の三男。
                不伝流の居合術。
                娘・お静 左馬之助の妻に。
[11-7 雨隠れの鶴吉]  妾の子・鶴吉
[12-2 高杉道場三羽烏]長沼又兵衛(盗賊の首領)
[14-1 あごひげ三十両] 先輩・野崎勘兵衛
[14-4 浮世の顔]     小野田武吉 鳥羽3万石家臣
               御家人・八木勘左衛門
                50石。麻布狸穴に住む。
[16-6 霜夜]         池田又四郎。兄は200石旗本。
[18-5 おれの弟]      滝口丈助
[20-3 顔]          井上惣助
[20-6 助太刀]       横川甚助。上総関宿の浪人。

_11 この10数人の中で、もっとも毛色が変わっているのが、文庫巻11[雨隠れの鶴吉]篇 の主役である〔雨隠(あまがく)れ〕の鶴吉である。

通り名(呼び名)が付されているところからも察しがつくように、盗賊である。女房も女賊のお
2人は、中国すじから上方を〔盗(つと)め場所としている〔釜抜(かまぬ)き〕の清兵衛の配下である。

参照】〔釜抜(かまぬ)き〕の清兵衛

うけもちは〔引き込み〕であった。
つまり、目ざす商家なり屋敷なりへ奉公人として住み込むか、または出入りの者になって親密となり、月日をかけて、押し込み先の内情を探(さぐ)り取り、これを一味(いちみ)へ告げると同時に、いざ、盗賊一味が押しこむ夜ともなれば、これを内部から手引きをするという、なかなかに重い役目だ。
引き込みをつとめるには、それだけの才能がなくてはならぬ。
鶴吉お民の夫婦は、その点、呼吸の合ったコンビで、なればこそ、「雨隠れ」の、異名をとったのであろう。

「雨隠れ」は、「雨宿(やど)り」の別のいい方だそうな。

この〔引き込み〕は、池波さんのみごとな創案にかかる盗人用語の一つだが、初出はたしか文庫巻4[五年目の客]で、遠州の大盗〔羽佐間(はざま)〕の文蔵一味の〔江口(えぐち)〕の音吉について、密偵・〔小房(こぶさ)〕の粂八鬼平に言った時であった。

参照】 〔羽佐間はざま)〕の文蔵
江口えぐち)〕の音吉
小房こぶさ)〕の粂八
_4「で、いまの男---江口の音吉というのは?」
「へい。これはもう引きこみがうまいのでございまして---」p51 新装版p53

巻1[唖の十蔵]での中年の飯たき女は〔手びき〕p22 新装版p23 だし、巻3[艶婦の毒]で京の絵具屋〔柏屋〕の後妻に納まってするおもまだ〔手引き〕p108 新装版p113 である。

〔引き込み〕役の詮索はこのあたりで止めて、〔雨隠れ〕の鶴吉高杉道場への仲間入りの経緯(ゆくたて)の一件。
いや、仲間入りは言葉の綾で、じっさいは、七つか八つのころ、道場での稽古を窓からのぞいていたにすぎない。

というのも、鶴吉は、日本橋・室町2丁目の大きな茶問屋〔万屋〕の当主・源右衛門が女中に産ませた子で、家つきの女房がうるさいので、小梅村の寮で乳母・おに育てさせていた。

_360_2
(日本橋通りの茶卸〔万屋〕 『江戸買物独案内』1824刊)

その境遇に同情した井関禄之助が、道場への行きかえりに相手になってやっていた。
禄之助とおがいい仲になっていたのは、言うをまたない。

それから20数年が経った。
京・綾小路新町西入ルの金箔押所〔吉文字屋三郎助方でのお盗めの報酬として〔釜抜き〕のお頭(かしら)から80両を分配された鶴吉・お民夫婦は、江戸へ骨休めに下ってきて、大川端で茶店をやっているおに再会したばかりか、禄之助とも会う。

_360_3
(金箔押〔吉文字屋〕 『商人買物独案内』)

このあたりの展開が、いかにもページ・ターナーの池波さんらしい筋はこびである。
物語は、鶴吉を〔万屋〕の跡取りにと願う源右衛門、小粋にのがれ去る鶴吉、見逃してやる鬼平---、小ざっぱりとした人情ものの結末なのは、ファンならご存じ。

高杉道場のけた外れの同門物語の一篇。

茶問屋の〔万屋〕にしても、金箔押の〔吉文字屋〕にしても、きちんと調べて実在の屋号を書いているところが、『鬼平犯科帳』のリアル感が強いところでもある。
(〔吉文字屋〕の右隣枠の〔井筒屋〕の名前の三郎助にもご注目)。一つの謎解き。

【参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (2) (3) (4) (5)

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2008.05.14

高杉銀平師(5)

_130池波さんが、山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊 復刻=再建社版 1960.5.20)を口をきわめて称揚し、鬼平ファンなら、せめてその通論だけでも---とすすめているが、同書の入手はきわめて困難だし、古書店にあっても高値である。

通論の一部は、このセクション (3) (4) に引いたが、冒頭からの首要な部分を現代風の文に置き換えて掲げよう。
池波さんが高杉銀平師を造形するよりどころとした文である。

もっとも長文だし、「精神論だ」とおもう人は、きょうのところは黙視していただいてよい。


  第一章 通論

わが国の歴史がはじまってよりこの方、剣戟と人びとの心とは、いささかも離れることのない関係を保ってきている。このことは尚武を推奨したためばかりでは決してない。
上古、イザナミ、イザナギの二神が蒼海を探った事蹟以後、多くの史実は剣によって事を生み、剣によって跡を垂れている。

ご注目あれ、素盞男命(すさのおのみこと)天照大神と天の安河原に誓ったとき、大神は命(みこと)が帯していた剣を噛んで御子を生み、また命は山田に邪賊を撃って霊剣を奉じたなどのほか、剣の威徳を伝える話が少なくない。

三種神器の一つとして崇敬されているゆえんたるや、げにも深いというべきである。

謹んでおもうに、三種の神宝はわが国の人道の表徴であって、玉ととなえ、鏡と呼び、剣と名づけている。
名と形は異なっているが、じつは心霊一体を示現しているにほかならない。

したがって、剣を闘争の具としてのみかんがえるならば、とんでもない誤りを生ずる。
あるときは玉となり、あるときは鏡となり、あるときは鋭い剣となってはじめて用をなすもので、これを威とし、徳とし、愛となすのである。

剣道の道は、まさに、これに基を置く。不識篇に、
「剣術は打太刀の相手を立ててやるから、微塵ほども過ちがあれば、相手はこれをとがめる。打太刀の相手に立っている人は、すなわち、生きた本箱である」
といっているごとく、その理(ことわり)をいうときは書物は諄々と説いて自分の慢心をたしなめることが、老婆の戒諭にひとしいけれど、刺撃のほうは儼竣な乃父が鞭でもってわが懈怠をはげますがごとく仮借の余地がない。

_100上泉伊勢守秀綱を描いた長編『剣の天地』(新潮文庫 1997.8.25)p94 伊勢守との決闘に向かう門人・土井甚四郎に師・十河九郎兵衛が言う。「負けるやも知れぬとおもうこころには、遅れを生ずる。ゆえに勝敗をはなれ、わが一剣に。これまでの修行のすべてを托(たく)し、伊勢守へ立ち向って見よ」)

手段は異なっていてもどちらも慈悲の念は違ってはいない。

ゆえに、いやしくも道という以上は、そのうちに仁愛の意義をふくんでいなければ道ということはできない。

文教といい武教というも、いずれも人間道義を開発するための手段であって、文そのものが即、道であるのではない。
武そのものが即、道であるのではない。
七千余巻の仏典も五車の聖経も、みんな、道へいたるための手引きである。

剣術の撃ち合いも道へ進むための手引きにほかならない。
禅学が公案を練り、師家分証の竹箆の下に印可をよろこぶのは、本来の面目を知了するからで、公案そのものは常識をもってすれば愚もはなはだしいたわごとである。

剣術の修業が一挙手、一投足、師範の咎めをうけて次第に練りすすむのは、あたかも公案を苦想する禅徒のごとく、技が熟し、術を解し、ついに心要をうるにいたれば飜然として悟り、本来の面目をとらえるのである。

_15 (文庫巻15『雲流剣』p37 新装版p38 鬼平が言う。「高杉先生は、江戸も外れの出村町へ、百姓屋を造(つく)り直した藁(わら)屋根の道場を構え、名も売らず、腕を誇(ほこ)らず、自然にあつまってきたおれたちのような数少ない門人を相手に、ひっそりと暮しておられたが---名流がひしめく大江戸の剣客の中でも、おれは屈指(くつし)の名人であったと、いまでもおもうている」)

ここの哲理が酷似しているため、あるいは剣禅一致といい、禅の力を借りて剣道を修し、あるいは老荘の無為説を借りて剣道を行するものが出てくるのである。

右に述べたように説くと、非難の声をあげる者もいるかもしれない。

いうように、剣術が道をおさめる道具にすぎないならば、学習する必要は多分ないであろう。
精神修養に資するものは、むりに殺伐に近い剣戟を選ぶにはおよばない、古えはいうにおよばず、ましてや方今文化の競争時代に何を苦しんでこの技を必要としようぞ。

この技が古今来永続してきているゆえんは、尚古の人情と、白兵戦の場合とを推想、一面体育として適しているために学校の教科へ採用したまでである。

武器の観点からいうと、すでに時代おくれである。業の観点からいうと蠻風である。
勝敗を外にして剣の用をいうのは帽子をもって扇子の代用としてその効用を誇るにひとしい。
いっときは清風を送ったとしてももともとそのための器ではないので長期の用には耐えられない。

剣も説くところの哲理はあっても、もともとの本意はここにはない。剣にはおのずから剣の勤めというものがあるのであると。
けだし、このような反駁論があったとすれば、根本から誤解しているといわねばなるまい。

なるほど、剣の用は物を斬るためである。剣の体は護身である。

いま、その用の術を修するに、勝つことを求めるのは理の当然ともいえるが、剣戟は弓、鉄砲、そのほかの練習と異なって、自分の前に立つ相手は自分とおなじ人間である。
自分は傷つかずに敵を斬ろうとおもったときには、敵もおなじようにおもってる。

そのとき、譎詐欺瞞を弄して相手に乗ずればあるいは撃てもしようが、かならずして撃つべき場合に撃ち、乗ずべきときに乗じようとおもっても、敵もその気でいたらどうであろう。
睨みあってときをすごすか。

碁で一目を天元へ打ったのち、両者がおなじ順路におなじく黒白をならたとすると先手が一目の勝ちとなる。
これは数理のおしえるところで、剣術もこの先手をとって天元を占領する意があるのである。

ただし、棋客は対局のはじめに先後の定めがあるが、剣術はいずれが先手になるか不明である。
さらに棋客のように数理に準拠して打算することももちろんできない。

ここにいたって吾人の常識で推理してゆく術なるものは行き止まりとなる。
しかるにこの境地をふみやぶって常識外に踴り出すと、いわゆる摩訶般若という大知識がわいてきて、意行自在をえる。

_8 (文庫巻8[明神の次郎吉]p97 新装版p103 高杉銀平師は銕三郎左馬之助によく言ったという。「剣術もな、上り坂のころは眼つきが鋭くなって、人にいやがられるものよ。その眼の光を殺すのだよ。おのれの眼光を殺せるようにならなくては、とうてい強い敵には勝てぬし---ふ、ふふ、おのれにも打ち勝てぬものよ」)

これで敵に勝つことも自由である。
ここで仁義道徳が学ばずしても了解される。

これを不可思議といわずしてなんといえばよかろう。
古人が精練の極、この界に入って一流を樹てた者が少なくない。余が道を得るに剣をいうのもここにある。

つぎに器財としては時代錯誤であり、業としては蠻風であるという説に対して答えよう。精鋭至便の武器発明がさかんな欧米になお剣闘術があるのでもわかるであろう。

たとえ、平常の知識をもって看察しても、その説が妥当でないことはあきらかになる。しかしながら、剣道がおうおうにして悪用され、古今不徳の曹漢をだしたこともこれまた多い事実である。

俗に生兵法といい、剣の道に徹底していない者ほどいたずらに自負心を増進し、わが腕力をたのみ、不正を行い、人を恐喝し、古えは人を殺傷して快をむさぼる者さえいた。
辻斬、試し斬などは、悪行のはなはだしいものである。

述べたように、剣術が大道をきわめる機縁となれば、それこそ至極の向上であるが、古来、この極に達した者は少ない。
剣聖とも剣哲ともいうべき人はおき、名人、達人もけだし少数である。針ケ谷夕雲、小出切一雲、金子夢幻、山内蓮真、寺田宗有たちは名人として称揚されている人びとであるが、ひるがえってかんがえてみると、列記の人びとはみな禅法に参じ、大悟の上で剣法と同化して妙を得たまでにとどまり、これを世用にほどこす気が薄かった。

それゆえ、これらの人びとは剣仙とでもいうべきで、後進を誘導し、人性を善化し、一般人間に与えるべき慈悲心を欠いている。
すなわち、みずからの徳性は養ったかもしれないが、仁愛惻隠の情にひややかで、社会という見地からするとむしろ無用の道具たるにすぎない。
剣道は乱世治世を分けて用をなすようではその価値はほとんど樗檪(無用の人)にひとしい。

_8_3 (『剣客商売』巻8[狂乱]p160 新装版p175 で、秋山小兵衛は石山甚市をさとして、「真の剣術というものはな、他人(ひと)を生かし、自分(おのれ)も生かすようにせねばならぬ」と。)

「およそ、武技は乱れた世であれば学ばなくてもいい。
平和な世に生まれた、武士という名で呼ばれる者は、武技に心身力をゆだねてこそ、その職業を忘れない一端とすべきであろう」といった古人もある。

剣道は精神をたっとぶこと、いまさらいうまでもないことだが、学んで浮き世をすて、塵をいとうがごときは本義に反している。

かつて勝海舟先生が在世中に、余らにおしえていうに、
「維新のさい、あれだけのことをやったのは、すこしばかり剣術をやったおかげさ。お前たちも精出して修業するがいい。剣術をやると万般に決断がつくよ」
と勝伯にしてはじめて剣道の応用が、幕府の衰減に際して百事を処理して遺憾がなく、江戸の地の焦熱たるをまぬがれしめただけでなくその殷富をして今日あらしめた鴻業ができたのであろうが、これらはその人を待ってはじめて用の大なるを知るので、しょせん、引例には適さない。

_4霧の七郎]p37 新装版p38 で鬼平辰蔵をさとす。「お前のすじの悪いのはわかっておる。なれど、坪井(主人)先生に日々(ひび)接することのみにても、お前のためになることだ」)

しかし、剣道の善用も極に達したらかくのごとく活用して意義あるものとしなければ、まったくもって無用論へ帰着してしまうのである。

【参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (2) (3) (4) (6)

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2008.05.13

高杉銀平師(4)

_11鬼平左馬の、高杉銀平師ゆずりの一刀流の剣の妙技を、あますところなく活写しているのは、文庫巻11[土蜘蛛の金五郎]が第一とおもう。

月はあっても、犬の仔(こ)一匹見えぬ道であった。
江戸湾の汐の香が高い。駕籠が、会津屋敷の手前掘割りに架(か)かっている小さな橋をわたったときであった。
ふわりと---。
闇の幕を割ってあらわれた黒い人影が一つ。
(略)
提灯を切り落とされた山本医生を突き退(の)けるようにして、黒い影が駕籠の前に立ち、
「長谷川平蔵。出ろ」
(略)
「何者だ」
駕籠の垂(た)れをはねあげ、偽(にせ)の長谷川平蔵---すなわち、岸井左馬之助が、
「盗賊改方、長谷川平蔵と知ってのことか」
叱りつけるようにいって、悠然と、駕籠からでた。
「まいる」
本物が、ぴたりと正眼(せいがん)に構えた。
「む!」
ぱっと飛び下った偽者が、すかさず抜き合わせて。下段。
ともに、故高杉銀平(たかすぎぎんぺい)先生直伝(じきでん)の一刀流である。
「鋭(えい)!」
「応(おう)!」
本物と偽者の気合声(きあいごえ)が起ったと見る間に、幅(はば)二間(けん)の道で、猛烈な斬り合いがはじまった。

ここから先は、文庫p82 新装版p85 でつづきをお読みいただく。
いや、ファンなら、読むまでもなく、一部始終をありありと想起なさるはず。

この斬りあいのものすごさの結果には、後日譚(ごじつたん)がある。
例の、額から鉄片をこじりだすくだりである。
下をクリックしてお確かめいただこう。

参照】2007年4月1日[『堀部安兵衛』と岸井左馬之助

話は変わる。

高杉道場での稽古だが、テレビ版のVTRで見ると、どうも、竹刀でなく、木刀でやっているらしい気配である。
池波さんが「不滅の名著」と絶賛した山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊 復刻版=再建社 1960.5.20)の、池波さんがその「通論(前文)」だけでも読んでほしい---と期待している文章から、関連箇所を現代風の文に改めて紹介してみる。

剣の教授法については、古くから木太刀(木刀)で稽古したのはもちろん、素面・素篭手(こて)であった。
そこへ、上泉信綱が柳生庄へ技を磨きにきたころ---戦国末期---袋撓(ふくろしない)の案出があり、うっかり勢いあまって木刀が身にあたって傷を負わせてしまう危険を避けるようになった。

その作り方は、今日のものとは異なっていて、三十から六十に裂いた竹を皮袋に包み、長さは3尺3寸(ほぼ1m)を定法とした。
柳生はこの上泉の発明を襲用して、その稽古はみな撓打(しないうち)として木太刀は使わない、
撓(しない)採用の弁ともとれる文が『本識三問答』にある。

他流には木太刀をもって剣術を教えている。木太刀は躰にあたる寸前で止めて、手には当てない。手の間際まで木太刀で詰めて、「はや、よく詰めたり」とほめておく。これでは、真の打ち込みの手ごたえを手がおぼえるはずがない。柳生流は「しなひ」で剣術をならう。撓だと、真剣の味わいが得られる。真剣はおしまずに打つ。撓もおしまずに打てるから、真剣とかわらない。(後略)

時代の趨勢は諸流とも次第に撓打ちに変わってきた。

というわけで、徳川200年を経ての高杉道場も、木太刀でなく竹刀を用い、素面・素篭手でなく、防具をつけていたと推察しているのだが。

もちろん、秘伝を伝える時には、真剣を使ったかもしれない。もっとも刃止めをほどこした太刀であったやもしれない。

【参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (2) (3) (5) (6) 

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2008.05.12

高杉銀平師(3)

池波さんが、山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊 復刻=再建社版 1960.05.20)を「不滅の名著」と激賞していることは、すでに報じた。

同書に刺激をうけた池波さんが、[明治の剣聖-山田次朗吉](『歴史読本』1964.6月号 のち『霧に消えた影』PHP文庫に収録)をものにしたことも文末の【参照】(2)に紹介しておいた。

明治の剣聖-山田次朗吉]は、『鬼平『犯科帳』シリーズの連載に先立つこと、4年である。
同小篇を構想するにあたって池波さんが参考にした資料は、大西英隆著『剣聖山田次朗吉先生』ほかであった。

それらの中に、一橋剣友会が刊行した島田宏編『一徳斎山田次朗吉伝』もあったとおもわれる。
というのは、同書が振り棒修行にふれているからである。

山田師の)道場には榊原(健吉)先生時代より伝来の樫の棒がありました。長さ5尺(1,5m強)、末口3寸5分位(10.5cm強)、先太なる八角に削り手元1尺(約30cm)の部分だけ丸く握れるように造られたものでした。

この振り棒は、千葉県君津郡富岡下郡大鐘(おおがね)生まれで、22歳だった次朗吉青年が、師と見込んだ榊原健吉に入門をゆるされるくだりに登場している。

「およし。剣術なぞではおまんまが食えねえから---」
何度も、とめた。
しかし、次朗吉はきかない。
あまり強情なので、ついに、
「よし。それじゃあ、そこにある振棒を十回も振ってごらんな」
見ると、そこに長さ六尺に及ぶ鉄棒があった。目方は十六貫余もあったというが、こんなものを、とても次朗吉が振りまわせるものではない。

16貫といえば、64キロ弱である。16貫は池波さんのいつもの早とちりのような気がする。16キロ(4貫目)なら、まあ、納得できないこともない。4貫だって米1俵分の重さである。
(じつは、ひそかに、4キロ(1貫目)だったのではないかと推論しているのだが)。

いずれにしても、榊原健吉師は老年になってもこの振り棒を毎朝軽がると100回振っていたという。

入門時に振り棒を振らせたのが、『剣客商売』の秋山大治郎であることは、ファンの方なら即座に了解であろう。
鬼平犯科帳』文庫巻5[兇賊]でも、高杉道場にも鉄条入りの振り棒があったと書かれている。
狡知(こうち)に長(た)けた土地(ところ)の悪党・〔土壇場(どたんば)〕の勘兵衛一味の悪行に---、

二十一歳の平蔵が、ついにたまりかね、高杉道場の同門・岸井左馬之助と井関禄之助に助太刀をたのみ、勘兵衛がひきいる無頼どもに十余人を向うへまわし、柳島の本法寺裏で大喧嘩をやったのは、その年(明和3年 1766)の十二月十日である。
こっちは三人で刃物はつかわず、高杉道場で使用する鉄条入りの振棒(ふりぼう)をもち出し、群(むら)がる無頼どもと闘(たたか)った。p206 新装版p216

_360
(横川東 緑〇=本法寺裏 赤○=高杉道場 橙=春慶寺 近江屋板)

兇賊]の初出は『オール讀物』1970年11月号、『剣客商売』の大治郎の道場に赤樫の振り棒があることが明かされたのは、[剣の誓約]が掲載された2年後の『小説新潮』1972年2月号だから、鬼平たちのほうが、一足先に使っている。

また、左馬や禄之助も携えて出動したらしいから、高杉道場には3本以上が備えられていたとわかる。
いっぽうの大治郎の道場は、開いたばかりだから、1本しかなかったろう。

こういう瑣末(ディテール)がどうして即座に比較できるか。じつをいうと、『鬼平犯科帳』も、『剣客商売』も、登場する全人物、町や村、橋や坂、神社仏閣、剣銘や武器、天候や花蝶風月、料理や菓子などを、膨大なデータベースに打ち込んでいて、あっというまに検索できるようにしているからである。
(このブログのアクセサーであるあなたも、第一ページ右欄の[検索]欄から「このプログ内で検索]を選択なされば、これまで入力ずみの1,278件から簡単に拾いだすことが可能)。

ついでだから、戦前刊の平凡社『日本人名事典』(193710.22)から、榊原健吉師の項を写しておく。
(同大事典には、なぜか、山田次朗吉師は収録が洩れている)

サカキバラケンキチ 榊原健吉(さかきばらけんきち) (1830-1894) 幕末の剣客。徳川氏累世の臣。天保元年十一月五日生る。友直の子。幼より剣術を好み、年十三にして男谷信友の門に入り直心影流を剣法を学ぶ。安政年間徳川幕府講武所を設くるや健吉に師範役を命じた。維新後静岡に移ったが明治十三年上京、下谷車坂に住し、専ら剣術の衰頽を憂ひ、六年撃剣会を創立して斯道の隆盛を図った。十一年八月上野公園に於て技を天覧に供し、ついで伏見宮の庭園に於て兜験の天覧を辱うするや、名声四方に聞え、内外入門するものが多かった。明治二十七年七月十一日歿、年六十五。(秋田)

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(榊原健吉撃剣会 『武芸流派大事典』新人物往来社より)

拙著『剣客商売101の謎』(新潮文庫 2003.3.2 絶版)に、池波さんは山田次朗吉師著『日本剣道史』のせめて通論だけでもと推しているその通論の一部を、当世流の言葉に置き換えて引用しているので、写してみよう。

「剣道が兵法と呼ばれた古(いにし)えより今日まで、幾多の変遷消長があったが、精細に事態をいうのはむずかしい。
けれども庶民が刀剣を腰に闊歩(かっぽ)する時代は、一消一長の屈伸はあっても撃剣の声はいたるところ絶えなかった。
足利氏が兵権をにぎったころから、この道の師範家はようやく定まり、流派も続出してきた。
刺撃(しげき)のみをこととした古風は一掃され、各派、剣理の考究に少なからず苦心した」

「すなわち、型と称するものが生まれ出たのである。
この型を平法と称する原則に基づいて、仕太刀、打太刀の順逆、利害を研究し、進んで敵手に打ち勝つ理法を案出した」

「この法式によっておのおの名称をつけ、家々の規矩準縄(きくじゅんじょう)とし、中には秘太刀と唱えてたやすく人には伝えないものを工夫して相伝と号した。
相伝を得た者はすでに師範の資格を備え、門戸を別に設けて一家をなすことができた。
これによって余技に達する者は、二、三の型を増減して、あえて名義を変えて一流を組織し、みずから流祖になる者が多い」

「だから詮ずるところ、流派を違えても実質は同じもの、流派は同じでも実質は異なるもの、あるいは同門から出ても個人の天賦(てんぷ)の特性によって技巧を異とするなど、一定一様ではない」

_100 秘太刀を授かることを免許皆伝ともいうが、これを主題とした池波さんの好短編が、[剣法一羽流](同題の講談社文庫の収録 1993.5.15)である。
初出は、『小説倶楽部』1962.11月号)。
同巧のオチが語られるのが『鬼平犯科帳』文庫巻12[高杉道場・三羽烏]。浪人盗賊・長沼又兵衛が、高杉銀平師のもとから伝書一巻を盗んで逃亡した。

_120 また、さまざまな流派名と秘剣をえがくのを得意とした作家が藤沢周平さんで、畏友の故・向井 敏くんが『海坂藩の侍たち -藤沢周平と時代小説-』(文藝春秋 1994.12.20)で勘定した剣技剣法は、「主人公側だけでも、驚くべし、五十に余」り、「これほど多くの剣技を扱った作家は他に例がない」らしい。
[邪剣竜尾返し]、[暗殺剣虎ノ眼]、[隠し剣鬼ノ爪]、[好色剣流水]などなど、題名を見ただけでも剣客ものファンは、手をださずにはいられない。

しかも、藤沢さんが書いた流派の直心流や無外流はいうよおよばず---無限流、雲弘流、空鈍流---なども、綿谷雪・山田忠夫編『武芸流派大事典』(新人物往来社 1969.5.15)に徴してみて、ほとんど実在していたと。

参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (2) (4) (5) (6)


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2008.05.11

高杉銀平師(2)

年譜を見ると、池波さんは、1967年(昭和42)3月に、上州へ取材旅行をしている。
めぐった所は、前橋、上原、前川、伊勢守墓所となっている。

3_130その年の『週刊朝日』の剣豪シリーズで、[上泉伊勢守]を担当したための取材であった。
表題の小説は、同誌4月28日号を含めて3週連載され、翌年、『日本剣客伝 上』(朝日新聞社)に収録、刊行された。

池波さん41歳の時の作品である---というより、剣客ものが書ける作家として、シリーズの書き手に選ばれたことのほうに注目したい。

というのは、1967年の『オール讀物』12月号に、はからずも、[鬼平シリーズ]執筆の所以(ゆえん)となる、[浅草・御厩橋](文庫巻1収録)を発表、これがきっかけとなって、ファンならとっくにご存じ、高杉道場で磨いた剣技に冴えをみせる主人公・長谷川平蔵---いわゆる鬼平が誕生しているからである。

参照】2006年4月12日[佐嶋忠介の真の功績] に、鬼平シリーズ誕生の裏話を記した。
つづいて2006年6月28日[長生きさせられた波津]も併読をおすすめ。

2_200[上泉伊勢守]が『週刊朝日』こ載ったころ、ぼくは仕事柄、米国のDDBというクリエイティブな広告代理店に入れあげていて、年に春秋2回ずつニューヨークへ取材にでかけていて、この作品は読んでいなかった。
講談社から出た【定本池波正太郎大成 26 時代小説 短編3】(2000.8.20)で初めて接し、池波さんの読み手をうならせる達者な芸に、あらためて感服した。
鬼平犯科帳』に入れあげるようになって10年近くが経っていた。

[上泉伊勢守]につられて、【---大成 26 時代小説 短編2】(2000.7.20)に収められている[幕末随一の剣客・男谷精一郎](『歴史読本』1962.2月臨時増刊号)と[明治の剣聖-山田次朗吉](『歴史読本』1964.6月号 のち『霧に消えた影』PHP文庫に収録)のを読み、鬼平および秋山小兵衛の剣技が、幕末・明治のこの2人の剣客に負っているところが多いことを発見した。

ついでなので、戦前の『日本人名大事典』(平凡社 1937,.5.15)の男谷精一郎の項を抜粋する。

オタニセイイチロー 男谷精一郎(おたにせいいちろう)(1810-1864) 徳川末期の講武所奉行。剣道に達し、幕末の剣聖と称せらる。名は信友。文化七年元旦に生る。男谷忠之丞の長子。二十歳の時小十人頭男谷彦四郎
燕斎の養子となる。団野真帆斎の門に入り、剣法直心影流、槍術鎌宝蔵院流を修め、平山行蔵に平法を学び、文政中本所亀沢に道場を開いていた。文学を嗜み、また書画を能くし、蘭斎、静斎の号があった。天保二年に書院番となり、のち徒士頭となる。
のち、先手頭となり講武所奉行となった。講武所の設置は信友の建議によるといふ。
文久二年従五位に叙せられ、下総守に任ぜらる。元治元年歿、年五十五歳。人となり温厚寛大、かつて家人を叱したことがなかった。

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(本所・男谷家=緑○ 斜向いの本多寛司家前が五郎蔵・宗平の煙草店〔壷屋〕、二之橋北詰が〔五鉄〕)

池波さんが山田次朗吉師著『日本剣道史』(1925刊)を「不滅の名著」として激賞していることも知った。
さいわいにも、同著は再建社による復刻版(1960.5.20)を秘蔵していたので、どの記述を、池波さんがどう換骨奪胎しているかまで察することができた。

ついでに記すと、男谷精一郎は、幕末、先手の組頭から講武所奉行に任じられている。
執筆時に池波さんもたしかめたはずの、本所の切絵図には、その屋敷も載っている。

寛政修諸家譜』は、小野次郎右衛門家について、こんな前書きを付している。

寛永系図に云、本(もと)は御子神(みこがみ 今の呈譜に神子上)と称す。忠明がときに外家の称によりて小野にあらたむ。今の呈譜に橘氏にして大和の住人・十市兵部大輔遠忠が後なりといふ。

Photo

十市〕---なにやら、かすかな記憶がある。
司馬遼太郎さんが徳川家康を描いた『覇王の家』(新潮文庫)だ。
明智光秀による本能寺の変の時、家康は、信長の秘書役・長谷川秀一の案内で堺に遊覧していたことは周知の史実である。
本多忠勝の提言で大和・伊賀越えをして危機を脱する経緯は、下記に。

【参照】2007年6月13日~[本多平八郎忠勝の機転] (1) (2) (3) (4) (5) (6)

覇王の家』から引く。

もしこの家康の脱出に、
「竹」
というこの人物(長谷川秀一)の温和な才覚人がいなかったら、きわめて困難な状態になつていたかもしれない。
彼は、その顔を利用した。まず彼はかねて懇意の大和の豪族で十市(といち)常陸介(ひたちのすけ)という男に使者を送り、家康が一行の中にいることはいわず、
--自分は三河の徳川殿までこの変報を知らせにゆく。どうか、道々を保してもらいたい。
と頼んだ。十市、筒井、箸尾(はしお)などといった大和豪族は、他国とちがい、奈良の社寺領の俗務を請負っていていつのほどにか武家化した連中で、家系が古く、その姻戚(いんせき)は隣接地の山城国(京都府南部)や伊賀国(三重県伊賀地方)などにも多く、十市からの依頼があれば、十市の顔を立てて保護してくれる家が多い。

_130 池波さん絶賛の『日本剣道史』は、小野派一刀流について、こう記述する。

小野次郎右衛門忠明の第二子忠常が嗣ぐところ。家督を受て三代将軍に奉仕した。忠常性質父に似て傲岸の風があった。故に格別の加恩もなく食禄素の侭で、精勤に対する報が無かったゆえでもあるまいが、一方技芸の自負心増長して狂を発した。寛文五年(1665)五十有余で歿して了った。
三代目次郎右衛門忠於(ただを)。忠常の嫡子でもっとも精妙と称されいた。この人の時にようやく小野派の型が大成されて、金甌無欠となったのである。忠於は四代、五代、六代の将軍に歴事して声誉すこぶる高かった。
正徳二年(1712)七十三で歿した。
四代は助九郎忠一、岡部某の子で小野の養嗣子である。
五代は次郎右衛門忠方。これで小野氏は絶えて系統は中西氏に伝わった。

_100_3 長谷川平蔵と先手組で同僚だった次郎右衛門忠喜は、六代目にあたる。

ちゅうすけ注】『週刊朝日』の[上泉伊勢守]は、5年後[剣の天地]との新題名のもとに大幅に加筆され、『山陽新聞』ほか10数紙の地方紙に連載、のち新潮文庫となった。

参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (1) (3) (4) (5) (6)

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2008.05.10

高杉銀平師

池波さんは、長谷川銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶための)の高杉道場への入門を、19歳としている。
これは、史実的には、ちょっと無理がありそう。

というのは、銕三郎の19歳というと、明和元年(1764)で、2008年3月2日[南本所・三ッ目へ] (9)に掲出したように、この年の10月に、父・宣雄(のぶお)は懸案の三之橋通りの1238坪の土地を築地・鉄砲洲の屋敷と三角交換によって手に入れた。
家屋は、鉄砲洲の家を解体して移したしとしても、竣工は翌年の初春とみる。

【参照】2008年2月23日~[南本所・三ッ目へ] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

年が明けると、銕三郎は20歳になっている。

敷地がきまり、移転を見越して道場を変えるという考え方もできなくはないが、やはり、常識的には、転宅後に師を変えるとみるのがふつうではなかろうか。

ま、高杉道場への入門が、19歳であろうと20歳であろうと、読み手にすれば、大差はない。
気にかかるのは、高杉銀平師を、どういう経緯で選んだかである。

高杉道場は、一刀流である。
鉄砲洲時代も一刀流の道場で学んでいたと考えると、その道場主が高杉師を推薦したともいえる。
もうすこしドラマチックに想像して、そうとうの識者が高杉銀平を紹介したという見方もできる。
その識者とは---小野派一刀流の継承者・小野次郎右衛門忠喜(ただよし)である。

助九郎忠喜は、父・忠方(ただかた)の死によって、寛延2年(1749)に家督を相続している。18歳であった。
家禄は800石。うち、先々代からの知行地は、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)本須賀村の250石と、同国山辺郡(やまのべこおり)松之郷村の441余石。
察しのいい鬼平ファンなら、長谷川家の知行地のある郡といっしょ---とおもわれよう。
そのとおり。2村からの米の積み出しは、長谷川家もそうしていた九十九里浜の片貝(現・千葉県山武郡九十九里町片貝)の湊を使ったろう。そういう知り合いであったと想像する。

次郎右衛門を襲名した忠喜の出仕は、宝暦9年(1759)に小姓組番士として28歳の時。おそくなったのは、健康に問題があったから、としかおもえない。
その後は快癒したらしく、順調に推移している。
一刀流ということで、宣雄は、浜町蛎殻(かきがら)町の小野邸を訪れ、高杉銀平の名を教えられたのであろう。
宣雄のことだから、剣技もさることながら、人柄をとくに重んじて質したとおもう。

高杉道場は、文庫巻1の連載第2話[本所・桜屋敷]から、はやばやと登場している。

法恩寺の左側は、横川に沿った出村(でむら)町であるが、このあたりは町といっても藁(わら)ぶき屋根の民家が多く、本所が下総(しもうさ)国・葛飾(かつしか)郡であったころのおもかげを色濃くとどめている。
その一角へ、長谷川平蔵は歩み入った。
ひなびた茶店の裏道が、横川べりまでつづき、その川べりの右側に朽(く)ち果てかけた藁屋根の小さな門がある。門内の庭もも、かたく戸を閉ざしたままの母屋(おもや)にも荒廃が歴然としていた。人も住んではいないらしい。
平蔵の唇(くち)から、ふかいためいきがもれた。
この百姓家を改造した道場で、若き日の平蔵は剣術をまなんだものだ。
師匠は一刀流の高杉銀平といい、十九歳の平蔵が入門したころ、すでに五十をこえていたが、この人が亡くなったことを平蔵は京都で耳にしている。
同門の岸井左馬之助(さまのすけ)が知らせてくれたからだ。 
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元の高杉道場だった農家は、主を失って15年ほど経っている。

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(法恩寺 左下=出村町 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

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(上絵の部分 出村町)

文庫巻6[剣客]には、高杉師の没年は67歳とある。
遺骨は、岸井左馬之助によって、佐倉在臼井の寺に葬られた。

銕三郎が父・宣雄に随伴して京都の西奉行所の役宅に滞留していたのは、史実では、安永元年(1772)10月から翌年夏までのわずかに8ヶ月とちょっとであった。
父の没後、平蔵を襲名した銕三郎が27~8歳のあいだのことである。

それはそれとして、銕三郎は27歳まで江戸の南本所・三之橋通りの屋敷におり、23歳で将軍・家治にお見得(めみえ)したわけだが、何歳まで高杉道場に通ったか、池波さんは明らかにしていない。
もちろん、そんな史料があるわけもない。

ついでながら。
ずいぶんと先のことだが、長谷川平蔵宣以が天明6年(1786)年7月26日、41歳で先手・弓の2番手の組頭に抜擢された時、鉄砲(つつ)の17番手の組頭に小野次郎右衛門忠喜がいた。3年前に51歳でその任に就き、66歳までの足かけ16年つづけた。
ちなみに、平蔵より13歳年長であった。

【参照】2008年5月10日~[高杉銀平師] (2) (3) (4) (5) (6)
 

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2008.05.09

ちゅうすけのひとり言(12)

2008年3月14日分の[ちゅうすけのひとり言](10)は、先手組頭に登用された父・平蔵宣雄(のぶお)の同僚・古郡(ふるこおり)孫大夫年庸(としつね)の『寛政重修諸家譜』の記述の中から、

(享保)十五年(1730)十二月三日父年明(としあきら)致仕するのときにおさめられし新墾田十が一現米三百ニ十石余の地を年庸にたまひ、永く所務すべきむねおほせを蒙る。

を引用した。

代官が新田を開墾すると、その10分の1を与えられるという制度があったことを、初めて知ったと書いて、無知を告白したわけである。

静岡の〔鬼平クラス〕---SBS学苑パルシェ(JR静岡駅ビル7階で毎月第1日曜日午後1時から)で、ともに学んでいる安池欣一さんも、このコンテンツが頭のどこかにひっかかっていたらしい。

近世農政史料集 1 江戸幕府法令 上』(児玉幸多・大石慎三郎編 吉川弘文館 1966.9.10)から、以下をコピーした史料に添えて、古郡家の記述にも関係がありそう---と手紙をくださった。

_120_2史料は、『徳川禁令考』の2123(享和8年 (1723) 11月 )で、現代文に直すと、概要、次のようなものである。

「新田開発をした代官へ、新墾の内の10分の1を下される件について、勘定奉行へ申し上げる書付」
新田を開発した代官は、新墾の内の10分の1を下されると伺ったところ、先だって申しわたされたのは、それは当人一代にかぎって---ということであったが、小宮山杢之進支配の小金佐倉新田の内、当年からある程度収穫ができるようになってきたので、この出来高のうちの公納分の10分の1を、まず当年分としてくだされるへきだと存ずる---うんぬん(以下略)。
(注)代官見立新田による年貢10分の1を支給されたのは、この小宮山杢之進が最初である。

安池さんから送られた史料を手にして、ぼくは、自分の怠慢を責めた。
というのは、引用された『徳川禁令考 前集4』(創文社 1959.5.25)はもちろん、前集6冊、後集4冊を所有していたのに、購入後約50年間、書棚に飾ったまま、ほとんど目を通していなかったからである。

購入した30歳当時は、読破するつもりがあった。ところが、その後、興味の対象がニューヨークのある一派を代表する広告代理店研究へ向かい、その後、池波さんが鬼平像のモデルの一つにしたメグレ警視の生地や住まいの探索、さらには英王室御用達の制度へ移っていった。

関心が江戸時代へ戻ったのは、『鬼平犯科帳』を手にしてからである。
まあ、大きく遠回りをしたとはいえ、『徳川禁令考』全10冊がこうして、曲がりなりにも役に立つことができるようになったのは、『鬼平犯科帳』のお蔭といえる。感謝しなければ。もちろん、安池さんにも---。

代官への「10分の1」下賜は、『徳川禁令考』を読むかぎり、当人1代かぎり---のにように解される。
3月14日に引いた古郡家の場合は、父が新開指導したものを子・孫大夫が請願している。
これは特例であったらしいということも、改めて、安池さんが発見された史料から気がついた。

このところ、佐倉在生まれの〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)にライトを当ててきた。
小金佐倉新田を『旧高旧領取調帳 関東編』(近藤出版社 1969.9.1)で探したら、下総(しもうさ)国葛飾郡向小金新田の137余石があった。印旛沼・佐倉からはかなり離れていた。

新田開発者へ10分の1を与えるというインセンティブ(動機づけ)について、思い当たったことがある。
新墾指揮は平蔵宣雄だったと推定しているのだが、長谷川家が知行地の上総(かずさ)・武射郡寺崎の220石を、新墾によってさらに100石ばかり増やした時、開墾に従事した知行地の農家たちへいくばくかの地を与えたという記録がのこっている。

その土地は、開墾した10分の1に相当するものであったかも知れない。


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2008.05.08

おまさ・少女時代(その3)

字を覚えたいといったおまさ(10歳)のために、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)は、裏庭の納屋へ入り、14年前---6歳の6月6日から手習いを始めたころに使った、安物の今戸焼の硯(すずり)と文鎮、半紙下敷きなどを取り出した。
おまさに与えようとおもった。
与詩は、もっと上品(じょうほん)のを与えられているなあ)
おまさがちょっと可哀相にもおもえた。
だから、擦り口が斜めにちびた墨は、新しいのを購うことにした。

受け取った硯を、おまさは、
お兄(にい)さんのお下がりがいただけて、嬉しい。お兄さんのように上手になります」
素直によろこんで、海から丘にかけてを4本の指で、まるで銕三郎の掌をjまさぐっているように、しきりになでまわしたが---。

高杉道場の帰りに、一ッ目・相生町の〔竜雲堂・升屋〕四郎兵衛まで足を伸ばし、おまさの筆初(ふではじ)めの筆と墨、朱を入れる筆、朱墨を求めた。

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(筆・硯・墨の〔升屋〕四郎兵衛 『江戸買物独案内』 1824刊)

品選びをしていると、おまさが実の妹のように、親しく感じられた。

お家流の運筆の銕三郎の手筋は、父・宣雄(のぶお 47歳)から受けついでいて、悪くはない。
素読が好きでないところは、父に似なかった。

おまさから頼まれたとりあえずの手本は、どこの手習い所でもするように、「いろはにほへと」の7文字としておいた。

〔盗人酒場〕の店内の飯台の一つが、店を開けるまでのおまさの文机となった。
おまさは昼前から、飯台をなんども水拭きして清めていた。

袖に墨がつかないように、おまさは襷(たすき)がけで臨んだ。
銕三郎は、うしろにまわって、背中に胸がつくほどに身を寄せ、筆を持っているおまさの手に竹刀だこで硬くなっている指をそえ、筆運びのコツをじかに教えた。
銕三郎の掌の硬い感触を微妙に感じたおまさの首筋が紅潮している。

「腕から力を抜いて、もっと軽く動かすのです」
そういわれても、おまさは、下腹が熱くなり、肩から腕へかけて緊張しきっている。
初めての習字だからとおもおうとしてみた。
緊張は解けなかった。

躰の芯から湧いてきた熱気は、そえられていたお兄(にい)さんの手のせいだとおもいあたったのは、その晩、寝についてからだった。
右の手の甲に、左手をそえてみた。
あげまき結びの髪に、お兄さんの息を感じたことも、ここちよい記憶の一つだった。
それらは、むすめとして成熟していくための特効薬のようにもおもえた。

いろは四十七文字は、7日たらずで書けるようになった。

3日目から、銕三郎は手を添えなくなり、おまさは、うらめしかった。
「もう、コツはつかんだでしょうから、自分でやりなさい。いつまでも甘えていては、上達しませぬ」
上達よりも、おまさは接触していたかった。
 
最初に教えてほしいと頼んだ漢字は、
「鮑(あわび)」

「お父(と)っつぁんの得意料理だから---」
口ではそう言ったものの、こころのうちでおもっていたのは、〔あわびの片おもい〕という俗諺であった。
銕三郎は気がつかないふりをつづける。

つぎに望んだ漢字は、
「鶴(つる)」

父・忠助の綽名(あだな)だと言った。躰つきが鶴のようにひょろりと細くて高いからと、みんなは納得している。
「でも、ほんとうは違うんです。お父っつぁんは、鶴に似て、めったに口を利きません。でも、歌はとっていい声なんです。だから、鶴と書いて〔たずがね〕と読むんです---鶴(たず)の音(ね)」

忠助からは、入れこむ気質は母親ゆずりだから、自分でほどほどに抑えるようにと、くどいほど言われているし、幕臣の嫡男さまと呑み屋のむすめでは身分が違いすぎるとも言いきかされているから、嫁とか側室とかを考えているのではない。
人柄に触れていればいい---と、自分に言い聞かせている。

おまさ が書ける漢字があった。
「酒々井(しすい)」
「酒」は店名の〔盗人酒屋〕からおぼえたという。

「酒々井は、お父っつぁんとおっ母(か)さんの生まれた村なんです。下総(しもうさ 千葉県)の佐倉の城下のすぐ東と聞いてます。まさは行ったことはないのですが---。隣家同士で、おっ母さんは、本郷の紙とか茶葉とかを手びろくあつかっているお店に奉公していて、お父っつぁんとばったり再会して所帯をもったんですって。酒々井には、両方の家の伯父叔母や従兄弟やはとこもいるので、いちど行ってみようとおもっています。とりわけ、おっ母さんの血すじの家に---」

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(赤○=酒々井村 黄=佐倉城下町 明治20年刊)

しゃべってしまってから、
「あたしのおしゃべりは、おっ母さんゆずりだって、いつもお父っつぁんが言うんですよ」
肩をすくめて笑った目の艶っぽさは、一人前のむすめのそれだ---と、銕三郎はおもった。

やがて、銕三郎は、手本をわたすだけで、立ち会わなくなった。
ある晩、銕三郎は、〔盗人酒屋〕のまわり5丁四方の地図を切絵図から写しとった。
それには、おまさがふだん買い物の用足しに行ったり客との会話に出たりする町名はもとより、川や橋、寺院や亀戸天神社なども含まれていた。
おばさんの長屋のある清水裏町も入っている。

わたす時、銕三郎は言った。
「漢字で書かれている町や川などに、覚えたひらがなでふりがなをふりなさい。そうすれば、自然に漢字を覚えるでしょう」
さらに、漢字が偏(へん)と旁(つくり)でできていること、偏は木とかさんずいとか火とか土とか魚であるから、漢字が示しているもののおおよその種類がのみこめること、旁はそのものの意味を暗示しているとおもえばよい、と自習の仕方を教えた。

おまさは、うなづいたものの、お兄さんといっしょにいる時間がなくなることをおもうと、泣きだしたかった。
銕三郎に、お目見(めみえ)の予審の日がきていることは、おまさは知らなかったのである。
銕三郎も告げなかった。

参照】[おまさ・少女時代] (1) (2)
2005年3月3日[テレビ化で生まれたおまさと密偵

参考】 酒々井町Wikipedia

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2008.05.07

おまさ・少女時代(その2)

2組、3組と新しい客がはいってきても、おまさ(10歳)は、注文を板場へ通しては銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)の横へ戻ってすわることをやめない。

料理を配膳したおまさに、馴染みの客らしいのがなにか話しかけても、
「いま、手いっぱいなんです」
相手にならないで、銕三郎にぴったりである。

「あら、お酒がこんなに残って、冷えてます。暖かいのに取りかえてきましょう」
「もう、酔っています。お酒は充分です」
「それでは、お料理---今夜は、お豆腐の木の芽田楽があります」
おまさどの。店が混んできています。用事をしてください」
「いいんです。お兄さんのそばにいるのが楽しいんです」

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(清長 おまさのイメージ)
ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻4[血闘]に、20余年ぶりに鬼平の前へあらわれた時---、
小肥(こぶと)りな少女だったおまさは、すっきりと〔年増痩(としまや)せしていたのである。p136 新装版p143
---とあるので、ふっくらとした少女の絵を探した。

その時、入江町の鐘楼の鐘が五ッ(午後8時)を報らせた。
店が立て混むわけだ。
もうそんな時間になっていようとは、おもっていなかった。
1刻(2時間)もおまさを独り占めしていたことになる。
(常連客たちに悪いことをした)

表まで送ってきたおまさが、
お兄さん。お願いがあります。手習いのお手本を書いてください」
「承知しました」
「げんまん」
小指と小指がまじわる。

その夜---。
店の灯を落としてから、忠助は、おまさを、銕三郎が使っていた飯台に座らせ、向き合って腰をすえる。
しばらくおまさを見つめてから、
「お美津(みつ)が生きていたら、今夜のおめえの振る舞(め)えを見て、なんと言ったろう---」
それきり、黙ってしまった。
おまさも口を利かない。
悪いことをしたとは、おもっていないのである。

「入れあげるのが、母親似だとしても、相手が悪い」
お兄(にい)さんは、いい方です」
「男としての、いい、わるい、ではない。あの人は、火盗改メのお頭(かしら)の甥ごだ」
「お父(と)っつぁん。それがどうだっていうんです?」

忠助は、また、黙りこんだ。
おまさ が、一気に述べたてる。
お兄さんは、〔樺崎(かばさき)〕の繁三さんおじさんや七五三吉(しめきち)兄(あに)さん、おみねちゃんとこの亡くなったお父(と)っつぁんの〔助戸(すけど)〕の万蔵(まんぞう)おじさんが、盗人の一味だということもちゃんと知っていらっしゃいます。きょう、出会った〔法楽寺(ほうらくじ)〕のお頭(かしら)や、〔名草(なぐさ)〕の嘉平(かへい)爺(じい)さんの素性もお察しになっているでしょう。おおばさんの前身だって、推察なさっていましょう。

Photo
(足利近辺の〔法楽寺〕一味の出身地 )

だけど、お父っつぁんに義理立てして、火盗改メには黙っていらっしゃるのです。お父っつぁんには、あの方の度量の大きさが分かってないのです」

おまさ。いいきれるんだな?」
「はい。お父っつぁんも、目と胸を、もっと、しっかりひらいて、あの方を見てごらんなさい」

「おめえ、お美津が生き返ったようなむすめに、なってきた」
「おっ母さんの子ですもの。おっ母さんからは、いい言葉遣(づか)いを教わりました。5つでしたけど、しっかりと覚えています。これからは、お兄さんに、字を教わります。約束したんです。字も読み書きできないんでは、江戸では生きていけません」

手習い所へ通っているという、銕三郎の義妹の与詩(よし 8歳)への競争心もあった。

参照】[おまさ・少女時代] (1) (3)
2007年7月19日[女密偵おまさの手紙
2007年3月10日[男はもうこりごり、とおまさ

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2008.05.06

おまさ・少女時代

いちばん奥の左隅の飯台に、ちろりとあわびの大洗(だいせん)煮を運び盆に載せてきたおまさ(10歳)は、銕三郎(てつさぶろう 20歳)の横にぴたりとすわり、箸をそろえたり酌をしたりと、甲斐々々しく世話をやく。
(てつ)お兄(にい)さんとお呼びしていいですか?」
つぁんのほうが、拙らしい」
「そんな、もったいなくて」

「あわびの大洗煮、お口に合いますか?」
「大豆にも味がしみていて、おいしいです」
「よかった。このあいだの---おみねちゃんのお父(と)っつぁんが亡くなった宵(よい)、半分お残しになっていたでしょう?」
「あのごたごたで---食べそこなったのです」
「よかった---お嫌いかと思ってしまって---。お父っつぁんの、自慢料理の一つなんです。ほんとうは、おっ母(か)さんがお父っつぁんに教えたんですが---」

参照】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

「お母上はお亡くなりになったんだってね」
「はい。あたしが五つのときに」
おみねどのの齢ごろだったんですね」
「はい。おみねちゃん、可愛いでしょ?」
「拙の義妹(いもうと)の与詩(よし)が、ちょうど、おみねどのの齢のときに、養女にきたんです」
「義妹(いもうと)さんがいらっしゃるのですね?」
「この子を受け取りに、駿府へ行った帰りに、さつた峠をくだったところの倉沢村で、海女のあわび採りを見たのですよ」
「この前、そうおっしゃってました」

参照】2008年1月12日[与詩を迎えに] (23)

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(北斎 海女たち)

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(歌麿 海女たち)

2人づれの客が入ってきた。
おまさは、すっと立っていって注文を板場の父へ通すと、すぐにまた、銕三郎にぴったり寄り添って、話のつづきをうながす。

「このお店は永いのですか?」
「あたしが三つの時ですから、かれこれ、7年になります。それより、与詩ちゃんのお話をつづけてください」
「あは、はは---当人が聞いたら怒るでしょうが、6歳(=当時)にもなっていたのに、お寝しょうぐせがなおらなかったのです」
「まあ---」
相づちの打ち方も、一丁前の女なみである。

板場から、忠助が呼ぶ。
「はい」
と返事して、できあがった酒と料理を客の飯台へ置くと、さっさと銕三郎の横へつく。

与詩ちゃん、いま幾つですか? お寝しょぐせはなおりましたか?」
「8歳です。手習い所へ通っています。お寝しょうのほうは直りました」
「よかった。訊いていいですか? 与詩ちゃんは、お兄さんのお嫁さんになる人ですか?」
「とんでもない。嫁に出す娘(こ)です。武家の家では、そうやって縁をひろげていくのです」
「よかった」

手習い所と言った時、おまさの瞳がちらっと曇ったのを、銕三郎は見逃していない。

ちゅうすけのひとり言】
おまさは、いつ、どうやって字をおぼえたろう? 手習(てなら)い所に通ったふしはない。
鬼平犯科帳』全篇で、おまさは2度、手紙を書く。
最初は、文庫巻4[血闘]で初登場し、下谷・坂本裏町の一間きりの与助(よすけ)長屋に独り住まいをしていてさらわれた時。

〔しぷ江村、西こう寺うらのぱけものやしき〕 p143 新装版p149

かなが主体だが、漢字もまじっている。
池波さんの気持ちとしては、ひらがなとこの程度の漢字なら、見よう見まねで覚えられるということであったろうか。

参照】2007年7月19日[女密偵おまさの手紙

いや、いつも気になっているのは、盗賊たちの識字率である。
連絡(つなぎ)は、口づたえでいいとして、文章で伝えなければならないこともあろう。双方の識字率が高くないと、どちらかが書けても伝わらない。
盗賊になるぐらいだから貧農の子が多かったろうと推察しては、いけないかも知れないが---。
まあ、首領になるほどの男なら、字をおぼえる訓練に耐えたろうか。

もう一度は、文庫巻22[炎の色]で、

おまさが〔笹や〕へ入って行き、
「お熊さん、たのみますよ」
いうや、お熊婆は万事心得て、奥の方を顎(あご)でしゃくった。
おまさは奥へ入り、簡単(かんたん)な手紙をしたためる。
やがて奥へ来たお熊は、その手紙を持ち、弥勒寺へおもむく。 p61 p60

届け先はいうまでもなく、役宅の鬼平
おまさは、天明8年(1788)に登場以来7年目のはずだが、その間に文字を習った気配はないから、この手紙の文章がどんなふうだったかは、おおよそ推測がつく。

ついでに書き添える。おまさがいつも背負って市中を巡回している箱に張りつけられている紙の文字〔まき紙・おしろい・元結(もとゆい)・せんこう〕([血闘]p139 新装版p146)の字は、誰が書いてやったのであろう。

参照】 [おまさ・少女時代] (2) (3) 
[おまさの年譜
[おまさが事件の発端

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2008.05.05

〔盗人酒屋〕の忠助(その7)

腰を折って、おまさ(10歳)の口へ近づけた銕三郎(てつさぶろう 20歳)の耳にささやかれたのは、
「明日も、お越しくださいますか?」
との問いかけであった。
銕三郎は、無意識のうちに、うなずいていた。
もちろん、この店の逸品料理である、あわびの大洗(だいせん)煮を明日は造る---と亭主・忠助(ちゅうすけ 40がらみ)が約したこともあったが、おまさの真剣な口ぶりに気おされたとぃったほうがあたっている。
10歳の少女とはおもえない、迫力であった。

店の前で〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)と待っていた岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)が、
「今宵は、ここで別かれよう。遅い帰りが多くて晩飯を欠かがちにしておるので、倉裡(くり)の大黒のご機嫌がよくないのだよ」

別れてからの銕三郎は、左馬の帰路をたしかめるのが怖くて、振り返らなかった。
左馬が右に押上(おしあげ)への道をとらないで、御旅(おたび)橋へ向かっているように思えたからである。
その先の清水裏町には、お(こん)たちの住む長屋がある。
先刻、〔盗人酒場〕で隣りあって小声で話していた時に打ち合わせができたかもしれない。

その胸の内を察したかのように、権七が、
岸井さまなら大丈夫です。長谷川さまが先ほどおっしゃった、『ふさ(18歳)どのに知れたら、嫌われるぞ』の一と突きがこたえていやすよ」
(そうだと、いいのだが---いや、そうであってほしい)

銕三郎は、14歳の時の芙沙(ふさ 25歳=当時)との一夜、18歳の時の阿記(あき 21歳=当時)との情事は棚にあげて、
左馬は、なにしろ、純情すぎるからな)
と、理にあわない、友情めかしたいいわけをこころの中でくりかえしていた。

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(歌麿『美人入浴』 お芙沙の入浴のイメージ)

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(英泉『玉の茎』部分 阿記との浴中イメージ)

若い時の激情は、友情をすら簡単に超えてしまうものなのに。
そう、若い男の激情に火をつけ、油をぶちかけるのが、女なのだ。

「あっしが心配(しんぺえ)しておりやすのは、岸井さまとお紺じゃねえんで---」
「ほかに、なにか?」
長谷川さまのことですよ」
「拙がなにか?」
「いえね。〔盗人酒場〕のおまさって娘(こ)が、長谷川さまにぞっこんのようなんで---」
「じ、冗談ではありませぬ。おまさどのは、まだ、10(とお)ですよ」
「女の10歳は、気持ちは、もう、りっぱに大人です。もっとも、惚れたとかはれたとかいうんじゃなく---慕わしく感じているってんでやしょうが---」
「いくらなんでも---」
「慕わしい、一刻でも長くそばにいてえ---ってえのが、いつしか惚れたに変わりやすんで。長谷川さまには、女にそう思わせるものがあるんでやすよ。ま、思い違いですめば、言うこたぁねえんですが---」

三ッ目之橋を南へわたると、長谷川邸はすぐであった。
「橋をわたってしまうと、旗本の屋敷ばかりで、あたりにはお茶を飲ませる店もないのですよ」
銕三郎が言うと、
「今夜は、これでお開きにしやしょう。じつをいうと、あっしもこのところ、お須賀(すが 27歳)の奴から嫌味をいわれておりやして。内緒(ないしょ)のを他につくったんじゃねえかって悋気(りんき)で---」
「それは、気の毒なことをしました。お須賀どのには、近く、改めて、お侘びします」
「いいんですよ。女の考えるこたあ、その程度の心配(しんぺえ)ですから---泰平楽ってもんでさあ」
「夜の〔盗人酒屋〕探索は、この先は、拙独りでなんとかなるでしょう。権七どのは、〔須賀〕の客の話にしばらく、耳を研(と)いでおいてください」

翌日---。

午前は、学而塾で竹中志斉(しさい)師の講義の最中に、居眠りをして叱責をうけた。

子曰く、憤(いきどお)らざれば啓せず、悱(ひ)せざれば発せず。一隅を挙げて、三隅を以って反(かえ)さざれば、復たせざるなり。
(情熱がないものは進歩しない。苦しんだあとでなければ上達がない。四隅の一つを数えたら、あとの三つを自分で試してみるくらいの人でなければ、教える値打ちのない人だ。 (宮崎市定『現代語訳 論語』(岩波現代文庫)より)

罰として、これを10回復唱させられた。
(剣術では、このとおりやっておる。捕盗も、そうだ)
銕三郎は、つくづく、自分は漢籍に向いていないとおもった。

午後は、高杉道場で、左馬之助と組太刀を10番こなした。
好きなものは、いくらやっても苦にならない。
もっとも、左馬之助のほうは、昨日の一と言がこたえたか、つねになく、執拗な剣を遣ってきた。

井戸端で汗を落としていると、左馬が、
ふさどのが、横川べりの木陰で涼んでいる」

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(春信『水辺の涼み』)

「自分で、声をかけたら---」
銕三郎はそっけなく、とりあわない。

とりあえず自宅へ戻り、夕刻が待たれる。
権七のあんな言い分を聞いてしまった故(せい)だ。今日にかぎって、太陽がゆっくりと移っておる)

夕方が来た。
母に断って、家を出る。
〔盗人酒場〕までは、いまの時計だと、20分とはかからない距離である。
三ッ目之橋をわたっている時、入江町の鐘楼が暮れ六ッ(6時)を告げる。
四ッ目之橋へは10分で着く。

店へ入ってみると、一つ飯台で、3人の男たちが額を寄せ合って話しあっていた。
忠助と、同じような年配だが細身の忠助とは反対にやや太りかけの男、それにもうすこし年配の男である。
こっちをじろりと見た太りかけは、眉の薄い、小鼻の張った男だった。

忠助が、とってつけたように、男たちを紹介した。
小太りがはじまっている男は、足利城下から、亡くなった万蔵さんのことで見えた、直兵衛と。
50がらみの白髪も少なくなっているほうは、嘉平と。
(それにしては、おどのがいないではないか)

長谷川銕三郎です」
長谷川? いま、火盗改メをなさっている長谷川さまは?」
「本家の大伯父です」
長谷川太郎兵衛正直(まさなお)のことを隠しておいて、あとで露見(バレ)るより、このほうが信用されよう)
とっさに、そう感じた。
その場では、直兵衛が〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん)の変名、そしても嘉平が〔名草(なぐさ)〕の嘉平とは思いもしなかった。

参照】〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門

長谷川さま。ごゆっくり」
男たちは出て行った。入れ替わりに、買いものを言いつかっていたらしいおまさが帰ってきて、銕三郎を見ると、ただでさえ黒々と大きい瞳をさらに大きく見開き、受け唇から、
長谷川さま。いらっしゃいました」
鼻のあたまに小さな汗が浮いている。急いで帰ってきたのであろう。

【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (6)


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2008.05.04

〔盗人酒屋〕の忠助(その6)

(こん 27歳)も、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)の隣にすわりこんで、さしつさされつ、小声でひそひそとつづけている。

銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)は、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)に酌をしながら、おがいわゆる、女賊(おんなぞく)なのかそうではないのかを、推量していた。

これまで、男の盗賊には、小田原で会った〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 45歳?)と娘婿と称していた彦次(ひこじ 25,6歳)がいる。

参照】2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4) (5) (7) 
2007年12月28日[与詩を迎えに] (8)

それと、江ノ島で言葉を交わした〔窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛

参照】2008年2月2日[与詩を迎えに] (39)

3人に共通するものを見つけるとすれば、人なつっこさと、話し上手だろうか。

〔盗人酒場〕を仲介にして出会ったのは、目の前にいるおの亭主で、言葉を交わすこともなく卒中で逝ってしまった〔助戸(すけど)〕の万蔵(まんぞう 35歳)と、夜道をほんの6丁ほどをいっしょに歩いた〔樺崎(かばさき 35,6歳)〕の繁三(しげぞう)と、その下働きらしい七五三吉(しめきち)とかいう20歳前とおぼしいの、それと、おまさの父親の忠助(ちゅうすけ 40がらみ)---〔荒神〕や〔窮奇〕とは反対に、そろって口が重い。
---ということは、盗賊だからといって共通点はなく、人それぞれということなんであろう。

(まあ、深く立ち入ってみれば、盗みの道へ入った動機や経緯には似たところがあるかもしれないが---)

おまさは、いくつもない飯台をととのえたり、表の看板行灯に灯をいれたりと、せわしなく働いている。
ひとり、放っておかれていたおみねが、お手玉にも飽きたらしく、ぐずり始めた。
が、左馬之助に断り、銕三郎へもあいさつをし、手をつないで帰って行く。

っつぁん。おさんが、ご亭主の骨を、足利(あしかが)在へ埋めに行くらしい」
左馬さんもいっしょに行くのか?」
「考えておく、と言っておいたんだが---」
「桜屋敷のふさ(18歳)どのに知れたら、嫌われるぞ」

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(春信 ふさのイメージ)

「おふささんて、岸井さまのいい女(ひと)なんですか?」
おまさが、耳ざとく、ませた口をはさんできた。
「いまはまだ、片思いですがね。いずれ、そうなるでしょう」
銕三郎が冷やかすと、左馬がまごまごして、
「いまは、剣の道をみがくのに精いっぱいで---」
岸井さま。足利は遠いですよ。江戸から20里。おみねさん連れだと、1日5里と見ても、行きに4泊---雨でも降った日にゃあ、5泊6泊になるかも」
権七もからかう。
「変な話。いやらしいったらありゃしない」
おまさが、いっぱしのむすめのような口調で言い、つんとして調理場へ消える。

忠助が、燗のできたちろりを黙って飯台に置いた。
そのまま横に立って目を伏せていたが、やがて、すぅーと板場へ引っこんだ。
銕三郎は、それで、あの晩、おの台詞(せりふ)を思いだした。

(「甘いものに、まるで敵(かたき)みたいに目がない亭主(ひと)だった---そのうえに、お酒もきりがなくって---躰に毒だって、いくら言っても聞くものですか---小水にまで蟻(あり)がむらがるようになってきていて、躰もがたがた、亭主としての役(えき)もできなくなっていたのに---いつかは、こんなことになると、恐れていたんだ、わたし---」 ということは、寝間でもかまってもらえなかったということか? 忠助どのが言おうとして言わなかったのは、亭主じゃない男(の)と---噂がないわけではないということ?)

左馬さん。帰ろうか」
銕三郎は、河岸を変えて---と思った。
権七も呑みこんだ感じだった。

勘定を受けとったおまさが、釣りをわたしぎわに、背伸びして口を寄せてきたので、銕三郎は腰をかかがめた。
その耳へ、おまさがささやく。

【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (7)

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2008.05.03

〔盗人酒屋〕の忠助(その5)

6日後の夕刻---。

3人が、〔盗人酒場〕にあらわれた。
もちろん、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)である。

先に紺麻地の暖簾を割って銕三郎が顔を見せると、おまさ(10歳)が、すぐ、気づいて、
「いらっしゃいました」
浮き浮きした声で、迎えた。

ちゅうすけ注】「いらっしゃいませ」でなく、「いらっしゃいました」という迎えのあいさつは、東京でも歴史の古い山の手の旅館の老女将が、戦後10年ばかり経った当時も使っていたので、おまさに言わせてみた。おまさの亡母・お美津(みつ)は、忠助と同郷の下総(しもうさ)・佐倉在---酒々井(しゅすい 現・千葉県印旛郡酒々井(しすい)町酒々井)の出身だが、本郷あたりの老舗で仕込まれた女(ひと)ということを暗示したくて。
【参考】 酒々井町Wikipedia

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(下総(しもうさ)国印旛郡酒々井=赤○ 佐倉=黄〇)

いつものとは違ったおまさの張りのある声の感じに、板場にいた亭主・忠助も店のほうをのぞき、3人を認めると出てきて、先日の礼を述べる。
「その場にいた者なら、しなければならないことをしたまでです。ご放念ください」
銕三郎の武家らしくない謙遜した言葉が、忠助をさらに恐縮させた。

おまさ。お(こん 27歳)さんに、先夜のお武家さんたちが見えたと、伝えておいで。いや、なに、おさんが、ぜひにも、お礼を申しあげたいって、ね」
おまさが、いそいそと飛び出す。

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(北斎[川岸の突風]部分 おまさのイメージ)

「亭主どの。いいむすめごですね。母ごはいらっしゃらないようだが?」
「お分かりになりますか? おまさが5歳の時に病死しまして---。以来、あれが嬶(かかぁ)の代わりみたいなもので。あの齢で、繕いものもやってくれるので、ついつい、後添えをもらう気もうせちまって---」
「おいくつです?」
おまさですか? 10歳になります。縫いものを、いま、おさんに習っております」

おみね(6歳)とともにやってきた。
礼とおくやみの応酬がひととおりすんだあと、銕三郎がさりげなく訊く。
「物井(ものい)のお生まれとおみねどのから聞きましたが、下総国印旛郡(いんばこおり 現・四街道(よつかいどう)市物井)の? だったら、左馬さんの臼井に近い---」

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(下総・物井=緑○ 佐倉=黄〇 臼井=赤○ 明治20年刊)

「いいえ。下野(しもつけ)の物井(現・栃木県芳賀郡二宮町物井 現・真岡市物井)でございます」
「ほう。下野にも物井村がありましたか」

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(下野・物井=緑○ 真岡=黄色〇 明治20年刊)
Wikipedia 物井

助戸(すけど)〕の葉三(ようぞう 35歳)が〔盗人酒場〕の店の中で卒中で歿した翌日、銕三郎は、火盗改メ方の次席与力・高遠(たかとう 41歳)から、物井村は、下総と下野の2国にあることを聞いていた。

「助戸」のほかの、「名草(なぐさ)」、「樺崎(かばさき)」、「法楽寺(ほうらくじ)」の地名は、伏せた。
理由は、もうすこし探索してからということもあるが、忠助おまさをかばうためのような気がして、自分でも割り切れていない。
もちろん、それらが足利藩内の村落名であることは、父・平蔵宣雄から教えられている。

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(足利城下の法楽寺とその近辺 明治20年刊の地図)

「おさむらい(侍)のにい(兄)ちゃん。おっかぁ(母)は、ものい(物井)にはかえ(帰)らないよ」
「それでは、おみねどのが母上の頼りになるように、しないといけないね」
「うん」
おまさ が言いなおしをさせる。
おみねちゃん。そうします---でしょ」
おみねどのは---そうちます」
「えらい!」
大声をあげたのは左馬之助であった。
が、半泣きの顔を伏せる。

おまさが手際よく、燗をしたちろりと大盃を配膳する。
「おさん。慈眼寺の住職が、過分のお布施をいただいたと、春慶寺へきて申しておりましたぞ。手前の顔も立ちました」
左馬之助が、恥ずかしそうな口調でだが、めずらしく世慣れた文句を言った。
あの夜、慈眼寺からの暗い夜道を帰りながら、こころが通じるものがあったのかも知れない。
世慣れている権七が、おに盃を持たせ、酌をするよう左馬之助をせかした。

調理場から忠助(ちゅうすけ 45歳前後)が、あわびの酒蒸しをもって出てきた。
「あわびの大洗(だいせん)煮は、明日ってことにしておりますので、明日もおいでください」
まさが、銕三郎に盃を持たせ、酌をする。
忠助が横目でそれをみて、かすかにぎょっしたようだ。
おまさ が客に酌をするのを、初めてみたからである。
平仮名のちゅうすけには、権七がかすかにうなずいたようにも見えたのだが---。

おまさに注がれた大盃だが、この時期の銕三郎はまだ酒に強くないので、そっと飯台にもどす。
「お酒がすすみませんね」
おまさが、心配げに訊く。
「家では、父上がたしなまれないのです」
「お酔いになったら、おまさが介抱してさしあげます」
(どこかでも、そう、いわれたな。そうだ、2年前、箱根の芦ノ湯の湯治宿〔めうが屋〕の離れで、だった。言ったのは、阿記(あき 21歳=当時)だったか、女中頭の都茂(とも 42歳=当時)だったか)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 都茂のイメージ)

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記のイメージ)

【参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (6) (7)

ちゅうすけ注】 下総国の物井は、関東・物部(もののべ)によるとも、千葉孝胤の三男の物井殿に由来しするともいわれている。
下野(しもつけ)国の物井も、関東・物部によるとの説がある。二宮町の町名は、荒れ田復興を指導した二宮尊徳にちなんだもの。
現・栃木県真岡市物井


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2008.05.02

〔盗人酒屋〕の忠助(その4)

銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)が〔盗人酒屋〕へ戻りついてみると、店の常連客らしい数人が、戸板に骸(むくろ)となった〔助戸(すけど)}の万蔵(まんぞう 35歳)を載せているところだった。

入っていった〔樺崎(かばさき)〕の繁三は、
「〔助戸〕の---」
と言っただけで、手をあわせ、傍らについているお(こん 27歳)に深く頭をさげ、調理場の入り口に立っていた忠助へ、
「〔名草〕(なぐさ)のには---」
といいかけた。
と、忠助が調理場へ首をかたむけ、繁三をうながして、先に消えた。

ぼんやりとつっ立っている岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)に、
「慈眼寺のほうはうまく運んだのかな?」
「ああ。仏を、快く預かってくれることになった」

が寄ってきて、
「いろいろとお世話になり、ありがとうございました」
頭を下げる。
おみねどのから聞きました。仏は、呉服の反物を手びろく行商なさっていたそうで---」
「はい。ご注文をいただくと、わたしが仕立てておりました」
「これからが、たいへんです。お疲れのでませぬように---」
おみねと、2人で、なんとか---」
「お気をしっかりと。おみねどののためにも---」

左馬さん、拙たちはもう用ずみだ。おまさ(10歳)どの。取りこみ中のようなので、お父上にはあいさつをしないで失礼をば。落ち着いたころ、また、手料理をいただきにまいると、お伝えください」
おまさに、こころづけを足した飲食代をわたし、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)に目で合図して店を出ると、表までおまさが提灯を持って送ってきて、
「お客さま方。なにかとお力をお貸しいただき、ありがとうございました。お気をつけてお帰りください。提灯は、またのお越しのときで結構ですから、お使いください」
まるで、女将(おかみ)のように口上をのべる。

左馬之助などは、どぎまぎと、言葉にならないことを口ごもっている。
「では、拝借させていただく。今夜は、いろいろ、不躾もあったが、お許しいただきたい」
そう言う銕三郎に、おまさは初めて受け唇から白い歯をみせて微笑んだ。10歳の小むすめとはおもえないほどの艶やかな微笑みであった。

竪川ぞいに歩きながら、銕三郎が、
左馬さんは、呑みなおしをしたかろう。この時刻です。権七どの、〔古都部喜楼〕にしますか、それとも、二ッ目まで足をのばして、〔五鉄〕に?」
「〔古都舞喜楼〕では足ばかりか、目玉まででやすよ。〔五鉄〕にしやしょう。それとも〔笹や〕のお婆ぁさんをたたきお起しますか?」
権七どの。冗談がすぎます」
「あは、ははは」
「ふふ、ふふふ」

Photo
(竪川ぞい 〔古都舞喜(ことぶき)楼 〔五鉄〕)

参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (5) (6) (7)

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2008.05.01

〔盗人酒屋〕の忠助(その3)

忠助(40がらみ)の〔盗人酒屋〕を出た5人は、竪川(たてかわ)に架かる四ッ目の橋をわたり、本所から深川へ入っていた。
田んぼの畔(くろ)につくられた南にまっすぐにのびている道である。
昼間なら左手に広い猿江御材木蔵の樹林がのぞめるのだろうが、星明かりでは冥(くら)い気配でしかない。

行く提灯は2個。 
一つはおまさ(10歳)が銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)の足元にさしかけている。

もう一つは、岸井左馬之助(さまのすけ 20歳)が、お母子を導いている。

(26,7歳)は、左馬に語りかけるというより、自分に愚痴っているのだ。何か言っていないと落ち着かないのであろう。
「甘いものに、まるで敵(かたき)みたいに目がない亭主(ひと)だった---そのうえに、お酒もきりがなくって---躰に毒だっていくら言っても聞くものですか---小水にまで蟻(あり)がむらがるようになってきていて、躰もがたがた、亭主としての役(えき)もできなくなっていたのに---いつかは、こんなことになると、恐れていたんだ、わたし---」

御材木蔵の南はずれをすぎた三叉路で、銕三郎おまさの組はそのまま直進して小名木川(おなぎがわ)土手を右に折れる。
母子と左馬之助の組は三叉路を左へとって、慈眼寺の山門へ行く。

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(慈眼寺 小名木川 横川 猿江橋 新高橋 扇橋 尾張屋板)

その三叉路で、それまで、一と言も口をきかなかったおみね(6歳)が、
「わたち、まさねえちゃんといっしょに、行きたい」
の気持ちが動揺しているのに、幼いながらに、耐えられなくなったのだ。
母親も、うわの空で、
「そう、おし」

銕三郎・おまさ・おみねは、左手に曲がったお左馬之助を見送ってから、扇橋へ向かう。

銕三郎が、
おみねどのは、父上の親御どのの家のある助戸(すけど)へ行ったことがありますか?」
「ううん」
おみねちゃん。ありません、でしょう?」
おまさが齢上らしく教える。
「---ありましぇん」

「お父上の名は?」
「〔まんぞう---まんは、ひとうつ、ふたあつ、のうんとさきのまんだって」
(そういえば、おも、〔助戸〕は村落名だと言っていた。仲間内の、いわゆる、通り名なのだ)
「そうか。万蔵さんか。足利(あしかが)では、絹糸をつくっていたんだ」
「ちがう。父(と)っちゃんは、べべ(呉服)をう(売)った」
「売っておりました、でしょう?」
「---おりましゅた」
与詩とやった道中の再現だな)

「売っていたのは、ご府内で?」
「ちがう。あちこち。だから、いないこと、ばっかし」

小名木川の北堤へ出る。
左に折れると、名高い五本松に行き着く。
銕三郎たちは逆に右へあゆむ。

小名木川の音もなくゆっくりと動いているいる流れは、いまの時刻は、大川の方へだろうか、中川口へだろうか。目をすましても見えない。
舟行灯をつけた西行きの舟と並ぶように、銕三郎たちも小名木川が横川と交差する猿江橋へ。
おみねは、おまさの手をしっかり握っている。

おまさどの。扇橋の繁三というのは?」
「おみねちゃんのお父っつぁんのお友だちです」
「すると、呉服のほうの?」
「それは知りません。うちの店で、よく、いっしょに呑んでいました」
「じゃ、呑み友だちなんだね」

とつぜん、おみねが口をはさむ。
「仕事仲間でしゅ」
「ほう、仕事仲間---?」
おみねちゃん。たしかじゃないことを、よその人に言ってはいけません」
「たしかでしゅ」
それきり、おまさは口をつぐんでしまった。

(深入りしすぎて、警戒されたかな。それほども深入りしたとはおもえないが---)

小名木川を横ぎっているのが横川である。
西のかなたにある江戸城に対して、横(南北)に流れているようにつくられた。

こちら側から小名木川の対岸へ行くには、猿江橋、新高橋と¬(かぎ)の字にわたり、さらに扇橋へという手間をとる。
3橋のとっかかりの橋行灯が、ぼんやりと所在を教えている。

猿江橋の手前で、おまさが、
「お客さん、提灯をお持ちになって、ここで、おみねちゃんとともに待っていてください。これは、点(とも)し替えの代わりの蝋燭です」
たもとからの蝋燭を一本よこすと、さっさと猿江橋をわたって行った。
銕三郎に有無をいうすきを与えないほどに、水際だった行動であった。

待つあいだに、銕三郎は、おみねに話しかけてみた。
おみねどのの母上も、助戸の生まれかな?」
「ちがう---ちがいます」
「ほう。どこかな?」
「ものい、でしゅ」
「ものい?」
「うん---そうでしゅ」

(ものい---とは、どんな字なのだろう。「もの」は「物」として、「い」は「井」でいいのかな? それとも「物言(ものいい)」をおみねが言いちがえたか?)

おまさと男2人があらわれた。
提灯の明かりがとどくようになると、35,6歳にみえるほうに、おみねが呼びかけた。
「かばちゃき〔樺崎〕のおじちゃん」
男は銕三郎に目礼をしただけで、無言のまま先に立って歩きはじめたので、みんなしたがった。

銕三郎は、
(死んだ男が〔助戸(すけど)〕の万蔵(まんぞう)、それと関係のあるのが〔法楽寺(ほうらくじ)〕、この男は〔樺崎(かばさき)〕の繁三(しげぞう)---それと、〔名草(なぐさ)〕のなんとやら---明日にでも、高遠(たかとう 41歳)〕次席与力にたしかめてみよう}
反芻しながら、先を行く〔樺崎〕の幅のひろい背をみている。


参考】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (4) (5) (6) (7)

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