〔相模(さがみ)〕の彦十(5)
〔相模(さがみ)〕の---というより、いまは〔斑目(まだらめ)〕の彦十(ひこじゅう 31歳)と呼ぶべきだろうが、彦十自身が斑目村生まれを自称することを嫌がっているので、やはり、〔相模〕の彦十で通すことにしよう。
彦十と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)は、同じ相模で、しかも小田原藩の領内育ち同士とわかると、幾分か親しみが湧いたようである。
郷土愛というほどのものではないが、なんとなく許しあうところが見えた。徳川が設けた270余藩という、土地の小割りの効果ともいえようか。
もっとも、権七が箱根の荷運び雲助だったと知ると、格の点でいささか引け目を感じたものの、この20年來、江戸で暮らしてきていることを、彦十のほうは気ばりの支えにしたようでもあった。
「彦十のおじさん。まだらめ村の、まだらってどう書くの?」
おまさは、なんでも字習いのタネにしてしまう。
「2つの王(おう)って字のあいだに文(ふみ)って字が割って入ってやがるんだ」
「あら、王偏(おうへん)に、旁(つくり)が2つなんて、めすずらしい」
「なんでい、その旁ってえのは?」
「彦十のおじさんには、かかわりないの」
「ちぇっ。聞いておいて、なんてえ、言いぐさでぃ」
「おまさどの。王(おう)と書いてはいますが、ほんとうは玉(ぎょく)でしょう。玉(ぎょく)に文(あや)---文様(もんよう)がついているから、まだらじゃないのかな。印材(いんざい)の鶏血石(けいけつせき)といって、緑がかった石に鮮やかな朱色の血がまだらに流れているようにみえるのがありますから」
「銕(てつ)お兄さん、その鶏血石、もってますか?」
「朱色の流れが多いものは、とても高価で、拙などは手がでません。拙が父上からいただいているのは、鶏血石とは呼べないような、ちょろちょろっと朱色がまだらに見える、いうなれば、貧血石の---」
「貧血石はよかった---」
彦十が、わざと素っ頓狂な声をだしたので、みんな、大笑いし、それで、一気に座がなごんだ。
(貧血石の印材)
彦十には、そういう、機転をきかして人の気持ちをもりあげる得がたい才能があるようだ。
(この才能は、のち、〔笹や〕のお熊との壮絶な舌戦で、読み手を笑わせてくれる)。
「彦十どの。お生まれになったという斑目村にお寺か神社は?」
「高台に、井野(いの)明神社ってのがありやして、子どもたちの遊び場のひとつでやした」
井野明神社の苦いおもい出ははなさない。
「ご神体は?」
「見たことがないもんで、知りやせん」
「鏡かなにかに、まだらな文様でもついていたんですかねえ?」
「そのこととはかかわりがあるかどうか、井野明神の神さまは、井戸がお嫌いというんで、村には一つも井戸がありやせんで---」
「水はどうしていたのですか?」
「酒匂(さかわ)川から堰をつくって引いてた、用水を使っておりやした」
「変わったご託宣の神さまですね」
彦十が生まれたのは享保20年(1735)の春だが、その前年の8月に、酒匂川の堤がきれて、村中に濁流が走って多くの人馬がまきこまれ、母の前夫と、その間に生まれた男の子と女の子も水死したこと、生き残った村人は井野明神社のある丘に小屋がけして暮らしたこと、彦十の誕生は、そのむしろ張りの小屋にかかわりがあること、田畑は河川敷と化していて、藩からのお救い米で命をつないだことも、口にしなかった。
【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)
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