〔相模〕の彦十(8)
銕三郎(てつさぶろう 20歳)は、おもいのほか呑みすぎたらしく、飯台にうつぶせに眠ってしまった。
おまさ(10歳)が、2階から父親・忠助のらしい半纏(はんてん)をもってきて、かけた。
「〔斑目(まだらめ)の彦十どん---」
〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)が、彦十(ひこじゅう 31歳)の脇に手を入れて立ち上がらせた。
「権の兄ぃ。斑目は、言わねえって約束だったろう。あっしには、いいおもい出が一つもねえ土地なんだよ」
「悪かった。さ。相模(さがみ)組は退散するとしようぜ」
権七は、目でおまさに、銕三郎を頼むと指示して、よたつく彦十の躰を支えて表に出た。
「彦のだんな。どこへ帰る?」
「松井町に、きまってるじゃねえか。あの妓(こ)が、待ってらあな」
〔盗人酒屋(ぬすっとざかや)〕から松井町は、竪川ぞいに西へ10丁(1km)ほど。大川へのとば口にあたり、一ッ目弁財天の後背地で、娼家が数軒あることは、すでに述べた。
【参照】一ッ目弁財天社の裏手の娼家[〔耳より〕の紋次 (2)
(上が西。西から黄〇=一ッ目弁天社。緑〇=松井町1丁目
赤○=〔五鉄〕 四ッ目は切絵図からもっと下にはずれる)
おまさが提灯を---と言うのを遮って、暗い夜道をよたよたとあゆむ。
左手に三之橋を見たあたりで、ひょっこり、彦十が立ち止まった。
「だち(友)が出てきた」
権七は見まわしたが、それらしい人影はない。
彦十が話しかけた。
「よう。あっしは、酔ってませんって」
「------」
「そりゃあ、ちいっとは呑みやしたよ。付き合いってもんで。わかってますって。てめえの躰のことでやすから---」
「------」
「このあいだ話した、あの仕事は、あんたのご託宣どうり、降(お)りやした。やっぱ、やべえって気がついてね」
「------」
「なあに、忠助どんに、代わりを頼んどきやしたから---」
「------」、
「それより、銕三郎って若えおさむれえ---あんたのいうとおり、いい男でやしたよ。な、権の兄ぃ。いやぁ---この兄貴分は小田原の人で、権七つぁんってんだ。箱根の雲助さま。こちらが7(なな)で、あっしが彦十で10(とう)だもんで、あっしが弟分ってことになって---ね、いいだろう?」
すこし気味が悪くなってきた権七が
「おい。彦のだんなよ、誰と話してるんでぇ?」
「誰って、だちが、そこにいるじゃねえか」
「見えねえぜ」
「おれには、いるんだ。ほら、権の兄ぃを大事にしろって言っとるよ」
(気がふれたか)
権七はおもった。
「じゃ、またな」
彦十が歩きだしたので、しかたなく、権七もあとを追う。
「いまのは、誰でえ?」
「村からずっといっしょの、だち」
「村って、おめえの生まれた斑目?」
「そう。おっ母(かあ)の世話も見てくれとるんよ」
「つじつまがあわねえな」
「いいってこと---」
「ところで、彦のだんな。住めえは、松井町っていったよな?」
「一ッ目弁天社の裏手」
「金猫、銀猫か。お安くねえな」
「金猫も銀猫も銅猫もかんけえねえって。うちのは土猫よ。けどよう、気立てがよくって---女は、きりょうじゃねえ、やっぱ、気立てだねえ。そうだろ、権の兄ぃ?」
【ちゅうすけ注】一ッ目弁天社は現・江島杉山神社の境内(墨田区千歳1丁目)
松井町1丁目(現・墨田区千歳一丁目)
金猫・銀猫は松井町の娼婦の異称。一つ目は猫に小判を見せる所(とこ)
「ところで、権の兄ぃの棲家(すみか)を聞いてたっけ?」
「言ってなかったかい?」
「聞いてねえような気がする」
「永代橋東詰で、〔須賀〕って居酒屋をお須賀がやってる」
「その、お須賀姐(あね)さんってえのは?」
「女房みてえなものさ」
「みてえなもの---ってぇのが、うれしいねえ」
「こんど、呑みにきてくんな」
「権兄ぃんとこが呑み屋だってのに、なんで、はるばる、四ッ目くんだりまで---」
「だからよう、あっしの親分の長谷川さまに、虫がつかねえように気をくばってるんじゃあねえか」
「---おまさ坊は、虫じゃあねえよ」
「そうだ。虫じゃあねえ。蛹(さなぎ)だよな」
「蛹のうちは、おまさ坊。蝶ちょになった時にゃあ、まあちゃん、ってことに---」
【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (9) (10) (11) (12)
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