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2008.05.21

〔相模(さがみ)〕の彦十(6)

相模国(さがみのくに)足柄上郡(あしがらかみこおり)斑目(まだらめ)村の北を流れる酒匂(さかわ)川が氾濫、堰をこわして村と田畑を流失させたのは、享保19年(1734)8月である。

彦十の母の前夫と、その間にできていた男の子と女の子の3人が濁流にのまれて死んだ。
彦十は生まれていなかった。
はげしい雨の中を、高みにある村長(むらおさ)の家へ、濡れた桑葉を嫌う蚕(かいこ)のために、水気を拭きとりに行っていた彼女ひとりが助かった。

家を流された者たちは、井野(いの)明神社のある西の丘に、仮小屋をつくって藩のお救いを待った。
一家でひとりだけ残って途方にくれていた彼女に、
「ここで、雨露をしのがねえだか---」
声をかけた男がいた。
男もかみさんと子を濁流に失っており、むしろと板で組み立てた仮小屋に一人で住んでいた。

男と女が一つの小屋で寝泊りしたのだから、30j前の彼女が彦十を身ごもるのはわけなかった。
彦十は、翌年の晩春に生まれた。
男も女も、ほとんど風呂へはいらない躰で交わったのに、産湯ともいえないぬるま湯で洗った赤子のはだは、搗(つ)きたての餅のようにつやつやしていた。

村におりたとき、男は、彦十にも母にも冷たかった。
男は、父親であることを放棄していた。

河川敷になっていた田畑を元の姿に戻すために、母は休むまもなく働き、彦十が10歳のとき、疲れきったはてに、いまでいう過労死をした。

枯れ木のように軽い遺体になった母を背負い、井野明神社の裏手の林に運び、彦十はひとりで埋めた。
穴に横たえた母に土をかけている時、林の奥から一頭の雄鹿が出てきて、少年を見つめた。
その鹿の右の瞳(め)が、白くまだらだった。
(こいつが、村の主(ぬし)だったなんだ)
「ここにおっ母(かあ)を寝かせただ。目ぇ覚ましたら、なんか、食うもんを恵んでやってくんな」
鹿は、わかったと、首をふった。

彦十少年はさらに言った。
「いまは、早く、森へ帰ェれ。村人さぁ見っかると、左の瞳もまだら目にされちまうぞ」
鹿はうなずいて去った。

_320
(赤〇=斑目村・相模国足柄上郡 青〇=小田原 水色=酒匂川)

彦十少年はその日に村を捨て、東海道の旅人の荷を宿場から宿場へと持たしてもらいながら、江戸へたどりついた。
彦十が、こころのこもった会話がしたくなると、まだら瞳の鹿があらわれ、相手をしてくれた。
鹿は、明るく振舞ったほうが、駄賃が多くなると教えた。
「おめえのことは、だれにも告げるもんではねえ」
彦十は、鹿の教えを守った。

江戸では、本所・五ッ目の五百羅漢堂の床下を寝ぐらにしていた時に、香具師(やし)の小頭(こがしら)・っつ(42歳)ぁんに声をかけられた。
「どこからきた?」
鹿が、「足柄山でやす」といえと言った、
「足柄山で何をしていた?」
鹿が、「熊と相撲をとったり、猿と木登り競(くら)べをしてやした」と答えろとすすめた。
「おもしろい。ついてこい」
こうして、小頭の使い走りとなった。

15の時に、声色(こわいろ)の芸をおぼえて、五百羅漢堂の北面の道の物売りの露店がならんでいる隅でやった。
熊や猿、鶯(うぐいす)や鳶(とんび)の鳴き声である。
とりわけ、熊との取り組みと、猿の群れの瀬渡りの時の騒ぎが受けた。
鹿の声は使わなかった。

_360
(本所・五百阿羅漢寺の北脇の露天 『江戸名所図会』)

鬼平犯科帳』巻1[本所・桜屋敷]に、

こやつ、相模無宿(さがみむしゅく)の彦(ひこ)十という男で、本所(ところ)の松井町一帯の岡場所に巣食っていた香具師(やし)あがりの無頼者で---p65 新装版p69

いま、銕三郎の目の前にいるのは、彦十のおじさん---とおまさ (10歳)が呼んでいる30男であった。
大川の水で、足柄山の垢をすっかり落とした男といえる。
かわりに、赤子のときのつやつやしていた肌は、酒焼けして赤いまだらができている。

参照】一ッ目弁財天社の裏手の娼家[〔耳より〕の紋次 (2)

彦十が、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)に問いかけた。
「おめえさんちと、こっちの若えおさむれえは、どういった仲なんでぇ?」
「こちらの長谷川さまのお子をお産みなさった女(ひと)の、義理の兄きってことよ」
おまさが、
「ひえっ!」
悲鳴をあげた。

参照】 2008年5月6日~ [おまさ・少女時代] (2) (3) 
参照】 2008年3月20日~ [於嘉根(おかね)という名の女の子]   (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
参考】2008年4月20日~ [〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3) (4) (5) (6) 
参照】 〔風早(かざはや)〕の権七 (A) (B) (C) (D) (E) (F) (G)
参照】2008年5月16日~  [相模(さがみ)の彦十] (1) (2) (3) (4) (5)  (7) (8) (9) (10) (11) (12)

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