於嘉根という名の女の子(その6)
「お髪(ぐし)は、どれほど、伸びましたか?」
妙(たえ 40歳 銕三郎の実母)が、於嘉根(おかね 2歳)を阿記(あき 23歳)に渡しながら、訊いた。
阿記は、頭に巻いていた水色の布ぎれを無造作に外した。
3寸(約10cm)ほど伸びた毛髪が直立しているようにあらわれた。
「尼寺では、山を去る半年前から頭を剃らなくてもよいきまりになっており、ちょうど9ヶ月で、これほどに---。髪が結えるようになるには、あと2年ばかりかかりましょう。その日が待ちどうしゅうございます。髪は、女の2番目のおしゃれどころでございますから---」
「お産は軽うこ゜ざいましたか?」
「いえ。初産(ういざん)でもあり、軽うはございませんでした。でも、銕(てつ)さまのお子を授かるのだと、懸命に力みました」
阿記が、頭へ布巻きながら、恥ずかしそうに答える。
「私が銕三郎を産みました時も、重いお産で、なんという親不孝な子だろうと---」
2人は、顔を見合わせて笑った。
「お産は、鎌倉の尼寺で?」
「はい。一度、得度(とくど)いたしますと、お産といえども、山を出ることは許されません」
「寺でお産みになる方も多いのですか?」
「少なくはございませんが、縁を切りたい男の人の子ではないのを、入山の前夜か2夜ほど前にもうけたというのは、私だけでございました」
「では、ずいぶんと責められましたか?」
「いいえ。山では、浮世のことは、一切、み仏にお預けして---ということでございましたから---」
「銕三郎の不行きとどき、幾重にもお詫びいたします」
「とんでもございません。こんなかわいい子を授けてくださいました。感謝しております」
「そのようにお許しいただくと、肩の荷がおりたようで、ここまで訪ねてきた甲斐がありました。ところで---」
と、妙は、於嘉根の人別(戸籍)のことを訊く。
縁切り寺で生まれた子は、ふつうは、父(てて)なし子として、扇ヶ谷村支配の代官所江川太郎左衛門へ届けるのだが、阿記の場合は、箱根・畑村宿をとりしきっている、めうがや畑右衛門が手まわし、父・次右衛夫婦の子ということになった。
産褥(さんじょく)に臥せっている阿記の知らぬ間の、再婚のことをおもんぱかった処置という。
「ひどい話だと怒りましたが、於嘉根が手元にいさえすれば、そのことはどうでもいいとおもうようになりました」
「阿記さんは、お若いのですから、この先、独り身というわけにもいかないでしょう?」
「この湯治宿は、いま、よその温泉場で見習いをしております兄が継ぎます。その兄が嫁をむかえた時には、私は、ここを出て行くつもりにしております。たつきのお金は、兄が仕送りしてくれるといってくれておりますから、仕立てものでもしながら、どこかで、於嘉根と暮らしていくことになりましょう」
阿記は、妙が、「うちへおいでなさい」と言ってくれるとは、つゆ考えてもいなかった。しかし、妙のつぎの言葉には、内心、むっとした。
「阿記さま。於嘉根ちゃんは、わたしが産んだ子として、長谷川家でお引きとりしてもよろしいのですよ。阿記さまの再婚のために---」
「とんでもございません。銕さまのお子をつくろうと決めました時に、はっきり申しあげました。ご迷惑はおかけいたしませんと」
【参照】その夜のことは、2008年2月1日[与詩を迎えに] (38)
「しかし、その時はその時。再婚のお話がでた時は、また、別でございましょう?」
「お伺いいたします。いまのお話は、銕三郎さまのお気持ちでしょうか?」
「いえ。あれはまだお目見(めみえ)もすんでいない部屋住みの身ですから、なにも相談しておりません。私一人の考えたことです」
「わかりました。どうぞ、このお話は、なかったことにしていただきとうございます」
阿記は、銕三郎が、突然、遠い存在になったようで、軽いめまいをおぼえた。
妙は妙で、
(阿記さんのような嫁なら、私ともうまくやっていけそうな気もするのだが。於嘉根も父親の下で安らかに育つことであろう。ただ、阿記さんは、武家の嫁にしては美しすぎる)
おもっていたが、心を鬼にしていた。
(歌麿 阿記のイメージ)
strong>於嘉根を、自分の子として幕府に届けけられるのは、この夏までがぎりぎり---とふんでいたのである。
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