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2008.03.20

於嘉根という名の女の子(その2)

「知らなかった!」
胸の奥の奥からしぼりだしたような声で、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)はくりかえし、うめいた。

つばめが軒先をかすめて半転し、飛び去る。

風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)は、 いたわるような眼差(まなざ)しで銕三郎の次の言葉を待っている。

むせるような匂いは、隣家との境界に育っている数本の桐の薄紫の花からのものだ。

ようやくに、銕三郎が言葉をつないだ。
阿記(あき)どのは、縁切りができたのですか?」
「そりゃもう、2年間、尼寺にお籠(こ)もりとおしなすったのですから、どこからも文句の出るもんじゃあござんせん。長谷川さまもご存じの、平塚宿一帯の顔役・〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 37歳 )どんも、〔越中屋〕の幸兵衛(こうべい)に念を入れてくれたと言っとりました」

芦ノ湯小町といわれていた阿記は18歳で、平塚宿の太物(木綿衣料)の老舗〔越中屋〕の当主・幸兵衛(こうべえ 22歳=当時)に嫁いだが、姑の意地悪に耐えかねて実家へ逃げもどる箱根路で、銕三郎と出会い、夫とはケタ違いの大きな器量に、一と目で魅せられた。

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(当時の旅人が携行した『懐中東海道道しるべ』
赤〇は阿記の実家がある芦ノ湯村)

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(浜松以東と以西の2巻もの)

阿記に未練たっぷりだった幸兵衛は、〔馬入〕の勘兵衛をおどし役に雇って阿記の実家・〔めうが屋〕へ連れもどしにやってきたが、〔風速〕の権七が仲へ入り、勘兵衛は手を引くことになって、けっきょく、幸兵衛は泣き寝入りの形になった。

阿記は、鎌倉の縁切り寺・東慶寺へ入り、2年間、尼僧としての修行をつんだ。それで、元の夫・幸兵衛との縁は断ち切れる。

もちろん、銕三郎は、ふとした時々、こころも躰もゆるしあった阿記との旬日のあれこれを偲んだが、江戸と鎌倉---ましてや、東慶寺は男子禁制でもあり、文をやることもなくすごしてきたのである。
(勤行(ごんぎょう)明けのときにでも、文をとどけておいてやればよかった)
しかし、
(未練がましいし、阿記のこんごの人甲斐(ひとがい 風評)の邪魔となってはいけない)
自分をいましめていたことも事実である。
(しかし、おれの子が生まれていたとなると、話は別だ)
(できたのは、おれの子を産みたいといって燃えた、あの夜だろうか?)

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(英泉『夢多満佳話』)

ちゅうすけ注】銕三郎が想いだした燃えた[あの夜]とは、2008年2月1日[与詩を迎えに](38)

(それとも、東慶寺で剃髪してきてからでてきた、その異相におもわず興奮しながら交わった鎌倉の旅籠でだったのであろうおか?)

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(国芳『枕辺深閨梅』)

(それにしても、尼寺での子育ては苦労だったろう)

権七(ごんしち)どの。阿記どのの消息をも少しお聞かせいただきたいが、この家ではまずいとおもいます。どこか、安心して話せるところへ---」
「狭いところですが、須賀の店へ参りやしょう。夕刻までは、人はきません」

銕三郎は、松浦用人に(夕飯までには帰る)と断り、権七とつれだった門を出ようとした時、与詩(よし 8歳。宣雄夫妻の養女。銕三郎の義妹)がどこから帰ってきて、権七に、
「あら。箱根のおじさま」
与詩さま。しばらくのうちに、大きく、きれいにおなりで」
権七は、心得ている。
「きれいになった」といわれて喜ばない女はいない。与詩のような8歳の子でも。

「箱根のおじさま、あいかわらずのお口上手なこと」
与詩も成長いちじるしい。

 

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コメント

あー、与詩ちゃん久しぶりです。元気でよかった。

投稿: えむ | 2008.03.20 14:29

政治ごとがつづきすぎましたからね。
でも、明和2年という年は、長谷川家にとっても、記念すべき年なので。
宣雄が先手組頭の先鞭をつけ、つづいて平蔵宣以、そして辰蔵も---と道がつながりました。

宣以が火盗改メにならないと『鬼平犯科帳』も生まれませんでしたし。

投稿: ちゅうすけ | 2008.03.20 16:35

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