於嘉根という名の女の子(その7)
もし、銕三郎(てつさぶろう 18歳=当時 のちの小説の鬼平)と、縁切りの尼寺へ入った阿記(あき 21歳=妊娠当時)のあいだに生まれた女児・於嘉根(おかね 宝暦14年 1764 1月に尼寺で誕生)が、長谷川家に引き取られるとおおもいになったとしたら、筆者の力が至らなかったことをお詫びしないといけない。
於嘉根の年齢からいって、長谷川家の養女ではありえないことは、2008年2月7日[ちゅうすけのひとり言]の(4)で気がついて、妙(たえ 銕三郎の実母)から生まれたかどうかは別として、実妹に間違いないことは明らかにしておいたつもりである。
どうぞ、上掲のリンクつきの印してげあるオレンジ色(4)をクリックして、史実をお確かめおきいただきたい。
『寛政重修諸家譜』にある銕三郎の妹は、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳 園をもうけた時は52,3歳)の隠し子・園(その 文庫巻23[隠し子])なんかではない。もっとも、寛政7年(1795)前後に元下僕・久助(きゅうすけ 75歳)が鬼平(50歳)へ打ち明けた時の園は30歳であったから、平蔵宣以の子という仮説もなりたたないわけではない。
そういうおもいが、筆者の頭の片隅にへばりついていて、ことあるごとに、実妹が平蔵宣以(のぶため)の子であるとすると、どういう経緯(ゆくたて)で妹として届けえたのであろうと空想にふけるわけである。
ここまで、銕三郎と阿記の睦みあい、阿記と妙の会話を記録していて、どう結末をつけるか---などと、空想した一つを、赤面しながら記してみると---。
春の某日---妙が訪問して旬日後。
芦ノ湖畔であそんでいた於嘉根が、何かにみとれて湖へ落ちる。阿記があわてて飛び込み、於嘉根をつかんで岸へ放りなげると、都合よく、男が受け取ってくれる。
しかし、そこは意外な深みで、水を吸い込んだ着物の重みで、阿記は溺死。
そのことを聞いた妙は、ふたたび芦ノ湯村へやってきて、於嘉根を貰いうける。
そのあと、妙は実家の上総国武射郡(むしゃこおり)寺崎村(千葉県山武市寺崎)へ引きこもり、半年後に於嘉根とともに南本所・二之橋通りの長谷川邸へ戻ってき、何食わぬ顔で幕府へ実子としてとどけた---といった筋書きを、まじめくさってかんがえるのである。
しかし、解決しなければ問題は別にある。
辰蔵の生年である。明和7年(1770)、銕三郎宣以が25歳の時の嫡子。
とすると、久栄(ひさえ 小説の妻女 大橋家のむすめ)との婚儀はその前年であったろう。銕三郎は24歳。
銕三郎が23歳の明和5年(1775)12月5日がお目見(めみえ)---これを済ましたことで、いつ、父・宣雄にもしものことがあっても、家督する権利を得たことになる。
久栄との婚儀の話は、この前後からおきていたろう。
阿記とのことがすっかり片づいていないと、婚儀にさしさわりがでる。
と、阿記を溺死が、現実味をおびてくる。
しかし、きょうからあと、銕三郎の婚儀成立までの3年間、色恋沙汰がないというのも、さびしい。書き手とすれば、銕三郎と阿記を、もう一度、合褥(ごうじょく)させてやりたい。
銕三郎が23歳なら、阿記は26歳、芦ノ湯小町といわれた色香は、十分に残っていよう。
ただ、於嘉根が4歳だから、彼女の目を忍んでの同衾させるのは、工夫を要する。
秘画特有の、これみよがしの、しどけない大胆な姿技の引用もひかえることになろうか。
(国芳『葉奈伊嘉多』([仮の逢う瀬]部分))
それとも、3年経って、髪も伸びてきているとすると、こっちの絵かなあ。
(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分)
なにをくだらないことに時間を浪費しているんだ---と自分が自分を叱る。
類推するなら、於嘉根が18歳ほどになった時の平蔵宣以との対面シーンではなかろうか。平蔵36歳の男ざかり。徒の頭(かしら 役高1000石)。分別十分。
於嘉根のイメージ。芦ノ湯村小町だった母親に似て、なかなかの美形。
(英泉『玉の茎』)
それでは、あと16年、於嘉根のことには封印をしておこう。
銕三郎には、別のいい女との出会いを設定してやるか。
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