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2008.05.26

〔相模〕の彦十(11)

相模無宿(さがみむしゅく)〕の(ひこ)の不思議の三つ目は、年齢である。

明和2年(1765)の初夏---本所・四ッ目の〔盗人酒屋(ぬすっとざかや)〕での銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)との運命的な出会いを、彦十の31歳の時と設定した。

天明8年(1788)の小正月の事件である文庫巻1[本所・桜屋敷]に、

何気なく、あたりを見まわしたとき、うすくつもった道の一角から、にじみ出すように人影が一つ浮いて出た。
編笠のうちから、こっちへ近づいて来るその五十男の顔を見とどけ、平蔵はにやりとした。
(やはり、あいつだ)
本所へ来て、岸井左馬之助に出会ったのも偶然(ぐうぜん)なら、こやつに出会うのも二十何年ぶりのことであった。(中略)
「おい、彦や」
長谷川平蔵が笠をとって声をかけるや、
「あっ---」
彦十は素袷(すあわせ)一枚の尻端折(しりはしょ)りという見すぼらしいやせこけた躰をがたがたふるわせ、
「て、て、銕さんじゃ、ごせえやせんかえ?」
おう。よく見おぼえていてくれたな」
「ほ、ほんとかね。ほんとかね」
すがりつかんばかりの彦十、めっきり老(お)いてた。

この正月、長谷川平蔵は43歳。

銕三郎の将軍家へのお目見(めみえ)が明和5年(1768)12月5日(23歳)で、そのちょっと前から身をつつしんでいるから、まあ、20年何年ぶりというよりも、20年ぶりの再会といっていい。

この再会の時---彦十は54歳のはず。

つぎに、彦十の年齢が明記されるのは、寛政元年(1789)6月から9月へかけての物語である文庫巻4[夜鷹殺し]---横川べりでの再会から2年後で、56歳と。

これから逆算すると、相模国(さがみのくに)足柄上郡(あしがらかみこおり)斑目(まだらめ)村での、坊やの誕生は、享保19年(1734)でなければにならない。
ところが、この享保19年の8月には、酒匂(さかわ)川の堤防が決壊し、村は水の下に沈んだ。
それで、避難小屋で身ごもられ、翌20年に、生まれおちたことにした。

1歳のちがいを、どう正当づけるか。
池波さんの思惑ちがいというわけにはいかない。
だいたい、池波さんは、彦十の生誕の地をご存じない。いや、相模ならどこでもいいとお考えになっていたはずである。
仕方がない---ここは、彦十に責任をおっかぶせることにしよう。

少年時代から、生活苦にさいなまされた。
江戸へ逃げてきてからは、1歳でも大人にみせるために、どうせ、無宿人だから、どこに戸籍があるというものでもない、齢に下駄をはかせているうちに、自分でもその齢を信じるようになった---ということで、つじつまをあわせる。

池波さんのほころびを指摘するわけではないが、寛政6年(1794)夏の終わりの出来事である文庫巻10[むかしなじみ]では、

五十を越えたというより、六十に近い年齢になっている---p173 新装版p182

寛政元年に56歳なら、寛政6年には61歳でなければならない。

いつか、彦十のチャランポランについて言及しておいた。
この程度の年齢のチャランポランも、あってしかるべきなのである。

彦十なら、こういうであろう。

「完全な人間なんて、いるわけがねえやな。見なよ、いまは火盗改メのお頭(かしらで)で、泣く子も泣き止む鬼の平蔵---なんていわれてるが、あっしが知ってる、若けえころの銕っつぁんは、飲む、打つ、買うの、箸にも棒にもひっかからねえ、旗本の長男坊だったのよ。いえね、不正はとことん、憎んでやしたがね。だからよう、完全ぶってる男がいたとしたら、そいつぁ、化け物だ、って言いてえの」

【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (12)

 

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