〔相模〕の彦十(10)
〔相模(さがみ)〕の彦十の名がシリーズへ出てくる篇は90あると、この項の(1)にあげた。
その中でも、個人的に、とくに好きな篇は、文庫巻20[高萩の捨五郎]と、巻21[討ち入り市兵衛]である。
共通点は、シリーズも後半部なことと、彦十が盗人に信用されて物語が展開するところ。
つまり、60をすぎた彦十に、池波さんが花をもたせるべく、物語りづくりをしている。
若いころの彦十には、どこか気負ったところと、妙に銕三郎(てつさぶろう)の顔色を読むところがあった。
すでの引用しているが、文庫巻1[本所・桜屋敷]では、
こやつ、相模無宿(さがみむしゅく)の彦(ひこ)十という男で、本所(ところ)の松井町一帯の岡場所に巣食っていた香具師(やし)あがりの無頼者で---
「香具師あがり」とあるのに、巻6[盗賊人相書]では、
かつては、盗賊界に名を知られた粂八と彦十であるが、人相描きを見てくびをかしげた。
粂八が名を売っていたらしいことは納得できるが、銕三郎の記憶にあった彦十は、香具師の配下であって、一流の盗賊としてではない。
それが、いつのまにか、顔のひろい盗賊あがりということになってしまっている。このシリーズの不思議の一つである。
寛政6年(1794)の夏の終わりごろの事件である文庫巻10[むかしなじみ]にも、20年前---彦十40歳前後の出来事として、
当時の彦十は、小粒ながら独りばたらきの盗人として、
「あぶらの乗った---」
ところであったから、処方の盗賊から、
「助(す)けてくれ」
と、たのまれる。
もっとも、久六同様に、盗みで得た金は、ところかまわず撒(ま)き散(ち)らし、遊びまわっていたのだから、その金がなくなれば当然、はたらかねばならぬ。p183 新装版193
この時は、名古屋の盗賊・〔万馬(まんば)〕の八兵衛から助(すけ)っ人を請(こ)われて出かけている。
【参照】 〔万馬(まんば)〕の八兵衛
もちろん、彦十が盗賊たちとひろく顔馴染みでないと、展開しない物語が多いのだが。
一方では、顔が売れすぎていると、密偵としての行動半径が狭くなることもたしか。
そのあたりの均衡は微妙である。
まあ、シリーズを書きつないでいる10数年のあいだに、池波さんの頭の中で、彦十は一丁前の盗人として成長したのだと、理解しておこう。
不思議の2は、あげ足とりととらないでいただきたいのだが、シリーズ中での彦十の住まい。
20年前は、「松井町の岡場所に巣食って」いたことは、上掲に記したとおりである。
鬼平に再会してからは、文庫巻5[深川・千鳥橋]では、本所・三笠町1丁目の裏長屋。p23 新装版p24
文庫巻6[狐火]では、おまさが訪ねていったのは本所・四ッ目の裏長屋。p131 新装版p112 引っ越したとは書かれていない。
(彦十の住まい 上青〇=三笠町1丁目 下青〇=四ッ目裏町
赤○=〔五鉄〕 尾張屋板北本所図)
まあ、〔盗人酒屋〕もあった四ッ目だから、池波さんとしても、このあたりに住まわせたかったのであろう。
(ちょっときついことをいうと、三笠町は、[狐火]が書かれた段階で、校正されてしかるべきだったのでは---)。
以後は、文庫巻8[明神の次郎吉]でも四ッ目。p106 新装版p112
文庫巻10[むかしなじみ]で、二ッ目の〔五鉄〕の2階の奥のひと間に。p174 新装版p183いずれにしても、名古屋や上方へ助っ人に行ったとき以外は、本所から離れていない。
上方へは、[狐火]に、〔鶴(たずがね)〕の忠助(a(ちゅうすけ)について2度ほど、先代の〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう)の盗(つと)めの手助けに出向いたとある。p131 新装版p139
このほかに、大坂へも助っ人として行ったらしいかすかな記憶があるのだが、パソコンのデータ・ベースに入力し忘れているので、見つからない。
【参照】[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (11) (12)
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